久度神社。
南あわじ市神代國衙に鎮座。
式内社 久度神社に比定される神社。
境内
社頭
鳥居
手水舎
狛犬
社殿
拝殿
本殿
本殿前狛犬
境内社等
境内社
石仏?
由緒
当神社は、淡路十三社の一にして、日本武尊第二皇子仲哀天皇を奉祀し、往昔新年国幣に預かる。第五十六代清和天皇、貞観六年神階従五位下となり、第五十七代陽成天皇元慶八年従五位上に進む。
戦国の時代破境して其の旧蹟不詳なりしを元禄中頃僧碧堪探り得て此処に宮居を再興せり。延喜式の制小社に列し、江戸時代天和三年、宝永五年社殿を再建し領主より社領を供進せられ、同六年二月村社に列せられ同十五年本殿を再建せり。
旧鳥居は享保十三年に建立されたものなりしが、破損のため国衙部落の崇敬者の浄財を募り大鳥居を建立し其の事蹟を記し永く後世に伝う。
創建時期は不詳。
三代実録 貞観6年(864)2月5日壬戌条に「授…淡路国正六位上久度神…従五位下」、元慶8年(884)9月21日戊寅条に「授…淡路国従五位下…久度神…従五位上」とみえる久度神、並びに延喜式神名帳にみえる「淡路国三原郡 久度神社」を当社に比定する説があります。
かつては官社に列していたものの、貞応2年(1223)の『淡路国大田文』にはその名は見えず、鎌倉時代には衰退していたとみられています。
元禄10年(1697)の『淡国通記』に「久度神社は神稲荘国衙に古神あり、伊勢外宮神職中西氏と豫これを捜索して相議り、村民をして小社を建てしむ、これなり」とあり、同書著者の僧碧湛(と伊勢外宮神職中西氏および村民)によって再建されたようです。
ただし、『味地草』によれば(『兵庫県神社誌』の当社項に異説として挙げられている)、「一説にはむかし福良浦十一屋某の家に諭鶴羽の神會主を興し饗筵の時こゝに炷を設けたる舊地なれば斯神號に尊稱して式社にはあらずと云是忘(妄カ)説なれども古傳に遺れり」と、当社を式内社ではないとする伝えもあるようです(炷とは灯心、ともしびの意。玄松子の記憶さんは竈と注記されています)。
明治6年村社列格。
現祭神は仲哀天皇。
『淡州神社考』に「所祭之神一座仲哀天皇「公事根源云平野第二久度社者平氏神仲哀帝也」とあり、これが初見のようです。
神社明細帳は齋火武須毘神としていたようです(下掲の特選神名牒の記述から推測)。
『特選神名牒』は「今按明細帳祭神齋火武須毘神とあれと常磐草に平氏の氏神仲哀天皇と云説を引り何れも信かたし齋火武須毘神と云るは近き頃久度は和名抄に窖和名久度寵後穿也とあるによりて、久度神は竈神なり竈神は文徳実録に大炊寮大八島竈神齋火武主比命とある神なりと云説あるによりて云るなれは取かたし平野神の御名定まりて後に此祭神をも定むへき事なり」とします。
山城の平野神社の久度神は大和の久度神社から勧請されたといわれる神。西田長男氏の『平野祭神新説』(『日本神道史研究』第九巻所載)によると、物部氏族の久努(奴)氏の祖神。大炊寮大八嶋竈神とは別の竈神とのこと。
淡路国津名郡に物部郷があることが和名抄に見え、同じ三原郡の笶原神社が物部氏の物部麻作連を祀ったとする説があることからも、当社は物部氏の氏族久努氏と関係があるのかもしれません。
御朱印
御朱印の有無は不明。
本務社は神代八幡神社(南あわじ市神代地頭方633)。
アクセス
南あわじ市の国衙東交差点から200mほど東(位置)で国道28号から南に入ります。
そこから道なりに500mほど行くと神社の北側に着きます。
表参道は境内西側なのですが、車で入っていけるか怪しい(民家の軒先と田んぼの間みたいな道)ので、近くの邪魔にならないところに停めて歩くのがよろしいかと思います。
神社概要
社名 | 久度神社(くどじんじゃ) | |
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通称 | – | |
旧称 | – | |
住所 | 兵庫県南あわじ市神代國衙1417 | |
祭神 | 仲哀天皇 | 現祭神 |
齋火武須毘神 | 神社明細帳(?) | |
久度神 | 『特選神名牒』 | |
社格等 | 式内社 淡路国三原郡 久度神社 日本三代実録 貞観六年二月五日壬戌 久度神 従五位下 日本三代実録 元慶八年九月廿一日戊寅 久度神 従五位上 旧村社 | |
札所等 | – | |
御朱印 | 不明 | |
御朱印帳 | – | |
駐車場 | なし | |
公式Webサイト | – | |
備考 | – |
参考文献
- 「久度神社」, 『日本歴史地名大系』(データベース「JapanKnowledge」)
- 「久度神社」, 神社本庁教学研究所研究室編『平成「祭」データ(CD-ROM)』全国神社祭祀祭礼総合調査本庁委員会, 1995
- 式内社研究会編『式内社調査報告 第二十三巻 南海道』皇學館大学出版部, 1987