八幡神社〔沼島八幡神社〕(南あわじ市沼島)

沼島八幡神社。

淡路島の南に浮かぶ小さな島、沼島の集落の中心部に鎮座する神社。

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境内

社頭

 

鳥居

 

手水鉢

 

神門

 

狛犬

 

手水舎

社殿

拝殿

 

扁額

 

拝殿内

 

本殿前に狛犬

 

賤ヶ岳大合戦の絵馬

 

なんで正面に「賤ヶ岳合戦」の絵馬があるの?

「沼島」と「賤ヶ岳」、一見少しかけはなれた感じのする絵馬ですが、実は沼島が歴史上ずうっと海路の重要拠点として、その名を残してきた証となる出来事なのです。

沼島は古くは国生み神話の舞台となり、「おのころ島」として古代大和朝廷の時代から表舞台に登場してきます。

奈良・京都・大阪は古くからの都であり、海や川は最も大切な交通手段でした。

大阪湾全体が、その時々の権力者にとっていかに重要な海路であったかおわかりいただけると思います。

源平の時代にも、平家には瀬戸内を守る村上水軍がいたからこそ、その権力を手中にできたのです。

近畿地方を鳥瞰図で見ると、紀伊水道に入ってきた海流は、沼島にあたり東に行くと大阪湾に入り、西に行くと鳴門海峡を通って瀬戸内に流れこみます。

さて時は戦国、後の豊臣秀吉は明智光秀を討ち、先輩格の柴田勝家と雌雄を決する戦となりました。

秀吉にとって生涯で一番の大戦でした。その時、子飼いの若い武将達が大活躍をしました。それが後に「賤ヶ岳七本槍」と呼ばれるようになったのです。

この絵馬の主人公脇坂甚内安治もその一人です。

この合戦で勝利をおさめた秀吉は、安治を「淡路守」に任じます。

「淡路守」は淡路を領有しますが、一番の役目は奈良・京都・大阪を守るために大阪湾という海路を見張る役目です。

そのためには海路の出入り口にあたる沼島を大切にする必要がありました。

沼島の人々は昔から常は漁師として働き、時に「沼島水軍」として海路を守る役割りも担っていました。

秀吉は晩年「朝鮮半島出兵」という暴挙を全国に命じます。

仕方なく各大名は出兵し、安治も沼島水軍とともに朝鮮半島に渡ります。七年間もの長い戦でしたが、安治は命ながらえ帰国しました。

安治は無事に戻れたのも「沼島水軍」のお陰と感謝したそうです。

沼島水軍として東シナ海を見てきた人々は後々「よそいき」と言われる船団を組んで一大漁業を展開する基礎を築きました。

後に「沼島千軒金の島」と呼ばれるほど豊かな島になったことは、この脇坂甚内安治公のお陰でもあり、「沼島底曳網組」が代々この正面絵馬の奉納を続けています。

 

本殿

境内社等

石段下左手に恵美酒神社

 

右手に海積神社

 

拝殿後方の左手に平野神社と八坂神社

 

右手に住吉神社と日吉神社

…ともう一社(一番手前)あるのですが、こちらは不明(社名札が掛かっていなかった)。

 

御神木

 

沼島八幡神社神域御案内

本神社は永享八年(一四三六年)四月に梶原越前守平俊景が京都石清水八幡宮の文例を阿万本庄八幡宮を経て移し祭られたもので沼島住民の厚い信仰のもとにその荘厳さを増し現在のようになりました

沼島八幡神社御祭神 誉田別命

本神社の森は境内の周囲をとり囲むように成立し昭和四十九年兵庫県自然保護条例に基く自然環境保全地域に指定されています

スダジイ、ホルトノキ、タブ等はいずれも樹齢二百年を越え神域として侵されることなく自然のままのうっそうたる森を形成しています

なかには昔から「八ツ又の木」と呼ばれる大人十一人分の根まわりをもつ樹齢八百年ともいわれるシイの大木を始め樹齢五~六百年を誇る大木も十数本あります

植生

第一層 スダジイ・タブノキ

第二層 ホルトノキ・ヤブツバキ・カクレミノ

第三層 ネズミモチ・ヒサカキ・ムラサキシキブ等

林床植生 ベニシダ・ジャノヒゲ・マンリョウ・ヤブコウジ・サネカズラ・イズセンリョウ・キノクニスゲ・ホソナカワラビ等

描かれた境内図を見ると、「八ツ又の木」は社殿右手から森の中に入っていくとあるようです。

由緒

沼島八幡宮

永享八年(一四三六年)梶原景俊の創建と伝えられています。

御影石の石段が、神門から上が三三段の女坂、下が四二段の男坂と呼ばれています。海上安全、四季豊漁の神様です。

この森は、氏子により神社の創建はるか以前より、守り続けられてきた神域でとても大切にされております。

神社の森には、幕末のオランダ人シーボルトが学会で紹介したホルトの木(ユズリハモドキ)が生い茂り、県の環境安全地域に指定されています。南限・北限の植物も混生し、牧野富太郎博士が、大きな関心を寄せた森でもあります。

創建は永享8年(1436)。

梶原景俊が石清水八幡宮の分霊を阿万八幡宮を通じて勧請したのが始まり。

神社の創建以前から鎮守の森は神域であったようで、樹齢が神社の歴史よりも長い木もあるようです。

 

文禄元年(1692)脇坂淡路守が国主祈願所に定め、江戸時代の阿波藩主蜂須賀氏も祈願所としました。

 

明治6年郷社列格。

 

拝殿に宮司さんによるこんなメッセージがありました。

沼島は小さな島で今は四百五十人しか住んでいません。昭和の時代まで大変栄え四千人もの人々が暮らしていました。

子どもの人数が極端に少なくなり、昭和の頃は二百人を超えていた子どもが今は十人前後です。

どうぞ皆さんの力で少しでも多くの方々がご来島下さいますようお力添え下さい。

その時には「沼島の神社では無料で名前をあげて拝んでくれますよ。」とあなたのスマホで広めて下さい。

よろしくお願い致します。 宮司

 

おのころ島の伝承地であり、上立神岩や同心円構造の鞘型褶曲といった岩も見ることができる魅力のある島なので、是非沼島を訪れてみて下さい。

御朱印

御朱印はあります。

石段下、鳥居の右手が宮司さん宅で、そちらでいただけます。

島内の自凝神社の御朱印も拝受可能。

 

アクセス

南あわじ市灘土生の土生港(位置)から船で渡ります。約10分。

車は積めないので、土生港の駐車場(500円)に駐車。

沼島港から海沿いに南に歩くと、郵便局を過ぎたあたりで左手に鳥居が見えます。

神社概要

社名八幡神社〔沼島八幡神社〕(はちまんじんじゃ)
通称
旧称
住所兵庫県南あわじ市沼島2521
祭神

誉田別尊

足仲津彦尊

息長足姫命

社格等旧郷社
札所等
御朱印あり
御朱印帳
駐車場なし
公式Webサイト
備考

参考文献

  • 「沼島浦」, 『日本歴史地名大系』(データベース「JapanKnowledge」)
  • 「八幡神社」, 神社本庁教学研究所研究室編『平成「祭」データ(CD-ROM)』全国神社祭祀祭礼総合調査本庁委員会, 1995
  • 明治神社誌料編纂所編『府県郷社明治神社誌料 上巻』明治神社誌料編纂所, 1912(国会図書館デジタルコレクション 401-402コマ