糟目犬頭神社。
岡崎市宮地町、岡崎駅の西に鎮座。
式内社 糟目神社の論社。
境内
一の鳥居
社号標
二の鳥居
慶長10年(1605)、岡崎城主本多豊後守康令が寄進したもの。
神門
扁額
手水鉢
狛犬
社殿
拝殿
本殿
境内社等
大和田島弁財天社
この祠の建っているところが新田義貞の首塚であるという伝承があります(由緒項参照)。
本多作左衛門重次誕生地之碑
本多作左衛門重次は三河三奉行の一人なのだそうです。
市指定文化財の石造狛犬の写真
本殿瑞垣の中にあるのではないかと思われますが、見えませんでした。
他に、やはり市指定文化財である石造唐猫というのもあるそうです。ネットで見られる写真だと小型の狛犬っぽいのですが、奉納者は「唐猫」としていたとのこと。
建造物 犬頭神社石鳥居 一基
越前式鳥居の形式を示すものとして価値があり、慶長十年(一六〇五)岡崎城主本多豊後守康令(康重)の奉納である。原石は越前(福井県)産の笏谷石と呼ばれる凝灰岩である。
彫刻 犬頭神社石造狛犬 一対
狛犬は仏教守護の獅子として渡来し、形、名前も変わってきた。この狛犬も越前石製で、慶長十年本多豊後守康令の寄進。
彫刻 犬頭神社石造唐猫 一対
小型の狛犬で、奉納者は「唐猫」としている。愛らしい猫の形で、猫には毛髪というべきものはないが、これは頭から放射状にたてがみがあり、獅子彫刻の伝統を残している。越前石製で、慶長十年市川猪兵衛正重の寄進。
昭和四十二年九月十四日指定
由緒
鎮座地 岡崎市宮地町字馬場三十一番地
一、御祭神
彦火火出見尊 犬頭霊神 豊受姫命(食物・穀物を司る神)
伊弉諾尊 伊弉册尊 素戔嗚尊(上記那智三神を「熊野三所権現」)
一、御由緒
犬頭神社の創立年代は古く明らかではありませんが、社伝によれば雄略天皇の六年(四六二)諸国に桑を植え養蚕を奨励されたころ、養蚕の守護神を勧請したと伝えられています。兵範記(平信範の日記)には「犬頭糸を三河の国より毎年四百勾皇后官職へ納め内六百勾は三條女御の御領として碧海荘より貢」と記載され、また、今昔物語の犬頭物語にも天下一の糸と賞賛され天皇の服を調整したと伝承されています。三河国内神名帳(八六三)には「従四位上 犬頭明神」と記載され碧海郡内二二社の一社にあげられています。永延元年(九八七)に紀州熊野三所大権現を合祀して熊野権現と称しました。
糟目犬頭神社は大宝元年(七〇二)に彦火火出見尊を祀ると社伝にありますが、正確な年代は推定できません。仁寿元年(八五一)の文徳実録には「三河国糟目神に従五位下を授く」とあり、三河国神明帳には「正四位下糟目明神」、延喜式神明帳(九二七)には「三河国二六座 碧海六座 糟目神社」と記載され、その当時の公認の主要な神社でありました。旧社は上和田の糟目森崎に鎮座していたが、矢作川の洪水により建久元年(一一九〇)に犬頭神社に遷座合併しました。
当社は、古くより諸人の崇敬が厚く諸国俚人談には「銅銭百文を口に喰えて参拝すれば福徳を得る」と伝えられ、岡崎城主本多豊後守が奉納された鳥居・狛犬などが現存しています。観応元年(一三五〇)には足利尊氏より永百貫文の社領を寄進され、慶長八年(一六〇四)には家康公より朱印地四十三石を授かり、明治元年奉還するまで続きました。明治四年額田県令により糟目犬頭神社と改称、明治五年郷社に列せられました。
701年に、今の上和田町にあたる糟目というところに建てられたので糟目神社と呼ばれていました。しかし、たびたび洪水にあったため現在地へ移されたと伝えられます。
境内には、越前鯖江産の凝灰岩の狛犬、唐猫、鳥居などの石造文化財や、本多作左衛門重次生誕碑新田義貞の首塚と伝えられる祠があります。また、神社にまつわる伝説もいくつか残っています。
社伝によれば糟目神社の創建は大宝元年(701)。
往古は上和田の糟目森崎(現社地の北500mほどの上和田町森崎の辺り?に)鎮座していましたが、矢作川の洪水により建久元年(1190)に現在地に鎮座していた犬頭神社の地に遷座、合祀されたといいます。
犬頭神社は雄略天皇6年(462)、諸国に桑を植え養蚕を奨励された頃に養蚕の守護神を勧請したといい、これが事実であれば糟目神社よりも歴史が長い神社ということになります。
当地は生糸の産地で「犬頭糸」と呼ばれる糸が有名だったそうで、延喜式主計寮上の参河国の貢納品に「犬頭白絲二千絇 夏調」とあり、平信範の日記『兵範記』仁安3年(1168)7月6、7日条にもその名がみえています。
日本文徳天皇実録 仁寿元年(851)10月乙巳(7日)條にみえる「進参河国…糟目…等十一神。並授従五位下」の糟目神、並びに延喜式神名帳にみえる「三河国碧海郡 糟目神社」に当社を充てる説があります。
『三河国内神名帳』には「従四位上 犬頭明神」とみえています。それとは別に「正四位下 糟目明神」もみえており、これを以ってもう一つの論社・糟目春日神社の方を式内社に推す根拠とする説もあります。
永延元年(987)に熊野三所権現を合祀。
文和2年(1353)、上和田城主宇津宮左近将監泰藤が危難を救ってくれた犬の首を埋葬、犬頭霊神として合祭したとの伝えがあります。
その詳細な話としては以下のような流れ。
宇津宮泰藤が当社近くで鷹狩をし、社殿西南の大杉の下で休んでいたところ、大蛇が泰藤を襲おうとします。連れていた白犬がそれに気づいて再三吠えるも、泰藤は気づかず、うるさいと怒って犬の首を切ってしまいます。犬の頭は飛び上がって大蛇の喉を噛んで殺害。泰藤はこれを悔いて犬を手厚く葬り、犬頭霊神として神社に合祭した…と。
白犬伝説の掛軸
この伝承については、足利尊氏により京都で晒されていた新田義貞の首を宇津宮泰藤が奪い返し、当地に埋めて首塚としたが、その発覚を恐れて犬物語を流布したという伝えもあります。
この首塚というのが、境内社の大和田島弁財天社(の建つ島)であるとも言われます。
慶長8年(1603)、岡崎城主本多豊後守康令により社殿が修造されたと伝わり、同10年(1605)に康令が寄進したという石鳥居と狛犬は現存しています。
明治5年、糟目犬頭神社に改称(豊田市渡刈町の糟目春日神社との式内社論争があり、額田県に改称を命じられたため)、郷社に列格。
祭神は彦火火出見尊、伊弉諾尊、伊弉册尊、素戔嗚命、犬頭霊神。
『式内社調査報告』は境内社として豊受比売大神を祀る鍫神社があるとしますが、『平成祭データ』に合祀神として豊受姫命が挙げられているので、本社に合祀されたのだと思われます。
御朱印
御朱印の有無は不明。
アクセス
岡崎駅西口から徒歩15分程度。
フィール岡崎柱町店(スーパー)の西から占部川を岡宮橋(位置)で渡ってまっすぐいけば参道入口に着きます。
車の場合、一応参道脇に停めてもいいようです(「参拝者以外は駐車禁止」と札が立っていました、位置)。ただすぐそばに「路上駐車ご遠慮ください」の看板も立っていて停めていいのかダメなのか混乱します。
また、境内西側の社務所?脇にも駐車場がありました。ただし半分は契約のよう。
岡崎駅付近のコインパーキングに停めて、近くにある比蘇天神社と一緒にお参りするのが無難な気がします。
神社概要
社名 | 糟目犬頭神社(かすめけんとうじんじゃ) |
---|---|
通称 | – |
旧称 | 犬頭大明神 |
住所 | 愛知県岡崎市宮地町字馬場31 |
祭神 | 彦火火出見尊 伊弉諾尊 伊弉册尊 素戔嗚命 犬頭霊神 |
合祀 | 豊受姫命 |
社格等 | 式内社 三河国碧海郡 糟目神社 日本文徳天皇実録 仁寿元年十月乙巳(七) 糟目神 従五位下 旧郷社 |
札所等 | – |
御朱印 | 不明 |
御朱印帳 | – |
駐車場 | あり(?) |
公式Webサイト | – |
備考 | 旧地は上和田の糟目森崎(現社地の北500mほどの上和田町森崎の辺り?) |
参考文献
- 「糟目犬頭神社」, 『日本歴史地名大系』(データベース「JapanKnowledge」)
- 「糟目犬頭神社」, 神社本庁教学研究所研究室編『平成「祭」データ(CD-ROM)』全国神社祭祀祭礼総合調査本庁委員会, 1995
- 愛知県神社庁編『愛知県神社名鑑』愛知県神社庁, 1992
- 式内社研究会編『式内社調査報告 第九巻 東海道4』皇學館大学出版部, 1988
- 谷川健一編『日本の神々 神社と聖地 第十巻 東海』白水社, 1987
- 明治神社誌料編纂所編『府県郷社明治神社誌料 上巻』明治神社誌料編纂所, 1912(国会図書館デジタルコレクション 835コマ)