和志取神社(岡崎市西本郷町字御立)

和志取神社。

岡崎市西本郷町に鎮座。

式内社 和志取神社の論社。

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境内

社頭

 

社号標

 

鳥居

 

扁額

 

手水舎

 

参道脇の社号標その1

 

参道脇の社号標その2

 

狛犬

社殿

拝殿

 

扁額

 

本殿

境内社等

御鍬社 天王社

 

稲荷社

 

社口社

 

神宮社

 

祓所?

 

宝物殿跡

 

旧大日堂?

現在、本地仏の仏像二体が神社東の大日堂(公民館の隣)に安置されているのですが、元は神社境内にあったというので、この建物が旧大日堂ではないかと思われます。

和志山古墳

当社の北西500mほどのところ、蓮華寺の西側に和志山古墳があります(位置)。

この古墳は、五十狭城入彦皇子墓として宮内庁の治定陵墓となっています。

五十狭城入彦皇子は和志取神社の祭神ですので、関係性が考えられます。

なお隣接の蓮華寺からは、明治20年に朱漆で「和志取神像」と書かれた神像が発見されています。

 

和志山古墳

正面からでは、古墳の形状などはほぼわかりません。

蓮華寺墓地の奥からであれば、古墳のくびれ部を見ることができるそうですが…

由緒

和志取神社社記

岡崎市西本郷町字御立鎮座

御祭神 五十狭城入彦皇子

五十狭城入彦皇子は気入彦命とも申し景行天皇の皇子で勅命によりこの地方の逆臣大王主等を捕えこれより国内治まり庶民大いに安堵したという

御墓は当町和志山にあり前方後円墳で前後三十五間面積七百七十六坪周辺に六基の円墳即ち陪塚がある 明治二十九年十一月二十八日御陵墓伝説地と指定その後更に調査の結果昭和十六年四月十八日御陵墓と御勅定同年五月二十六日勅使御参向奉告祭が行われた

本神社は和名抄にいう鷲取郷の総社で延喜式国内百十五座の筆頭たる旧官社で文政十三年神祇伯より正一位の神階を受け正一位本郷大明神の扁額を下賜されたという 古来上下の尊崇篤く累代の領主より祭典費の献進があり祈年祭新嘗祭には幣帛を奉り宝祚無窮稔穀豊饒を祈る例であった

明治七年五月二十五日教部省令により本神社を延喜式内三河国二十六座之内和志取神社確定候事との指定を受けた

明治二十一年四月九日蓮華寺内で和志取神像が発見された 延喜年間の作と伝えられる木製の座像で本神社に鎮め祀ってある

大正五年十二月二十八日郷社に列せられた

昭和二十一年一月十日由緒上県社と認められたが戦後社格は級社と変わり七級社として現在に至っている

拝殿祝詞殿神饌殿透塀等を氏子及び特別崇敬者よりの浄財と延二千六百余人の勤労奉仕により三ヶ年の歳月を費し昭和三十年竣工した

御末社 神宮社 御鍬社 社口社 稲荷社

 

由緒

本社祭神五十狭城入彦皇子は気入彦命とも申す人皇十二代景行天皇の皇子にして勅を奉じて三河国に至り大任主等を討って最初に此の地方を治め給ふ後遂に此の地に薨去ましまして和志山の地に陵墓を定め給ひ神霊を祀りて和志取神社と称す

其の子孫永く此の地方に栄えませしかば西三河地方の多くの人は命の御血縁につながるが故に本神社は当地方の大氏神なり 尚延喜式内の旧官社にして三河国内神名帳壱百拾五座の筆頭にのり歴代領主の崇敬殊に篤く祈念新嘗の特使を遣わし祭典の費用を助成し給ふ

昭和十六年四月十八日和志山御陵墓御治定になり勅使を遣わし給ふ次いで昭和二十一年一月十日本神社は県社に列せらる

 

岡崎観光きらり百選№59 和志取神社

五十狭城入彦皇子を祭神とするこの神社では、祈年祭、春季祭、例祭、新嘗祭と年4回の大祭が行われ、浦安の舞が奉納されます。特に秋の新嘗祭(勤労感謝祭)では、豊年を祝う甘酒祭が、大正4年から今日まで続けられています。

創建時期は不詳。

『愛知県神社名鑑』は継体天皇即位の年(=507年?)に初めて祀る、とします。

 

景行天皇の皇子、気入彦命が三河国で逆臣を捕えたことが『新撰姓氏録』にみえます。

気入彦命は、日本書紀にみえる「五十狭城入彦皇子」、先代旧事本紀にみえる「五十狭城入彦命」と同一視する説があり、当社由緒ではその説を採っています(五百城入彦皇子と同一とする説もある)。

 

延喜式神名帳にみえる「三河国碧海郡 和志取神社」を当社にあてる説があります。

和名抄にみえる碧海郡鷲取郷は当社辺りとみられ、当社はその総社だったといい、また延喜式巻二十八兵部省の諸国駅伝馬にみえる参河国駅馬の鳥捕も当地とされています。

 

近世には蝉神社、瀬部明神、本郷大明神と称していました。

末社に「ワシ取ノ社」があったといわれます。これが和志取神社だとすれば、いつの頃にか本社の地位を失ってしまったということでしょうか。

 

明治3年長谷部神社に改称。

明治7年教部省より式内社に確定されるも、翌8年に安城市柿崎村の和志取神社から反論があり取消。

確定時に和志取神社に改称したようですが、取消後長谷部神社に復称。

明治12年、村民の請願により和志取神社に再改称。

大正3年郷社列格。

昭和21年1月10日、県社昇格の内示があったものの、直後に社格制度は廃止されたため、実際には郷社に留まったと思われますが、『愛知県神社名鑑』は旧県社としており、社号標にも縣社の文字がみえます。

 

現祭神は五十狭城入彦皇子。

ただし『式内社調査報告』や『愛知県神社名鑑』では五十狭城入彦皇子と気入彦命のニ柱としています。

由緒で同一視しているので、別名としての記載かもしれません。

御朱印

御朱印の有無は不明。

アクセス

岡崎公園の辺りから国道1号を北西へ。

暮戸交差点(位置)で左折。

1km先の東本郷交差点(位置)を右へ。

すぐ先の歩道橋のある交差点(位置)で右に入ると社頭。

駐車場はありません。

神社概要

社名和志取神社(わしとりじんじゃ)
通称
旧称

蝉神社

瀬部明神

本郷大明神

長谷部神社

住所愛知県岡崎市西本郷町字御立4
祭神五十狭城入彦皇子
社格等

式内社 三河国碧海郡 和志取神社

旧郷社(県社の内示あり)

札所等
御朱印不明
御朱印帳
駐車場なし
公式Webサイト
備考

参考文献

  • 「和志取神社」, 『日本歴史地名大系』(データベース「JapanKnowledge」)
  • 「和志取神社」, 神社本庁教学研究所研究室編『平成「祭」データ(CD-ROM)』全国神社祭祀祭礼総合調査本庁委員会, 1995
  • 愛知県神社庁編『愛知県神社名鑑』愛知県神社庁, 1992
  • 式内社研究会編『式内社調査報告 第九巻 東海道4』皇學館大学出版部, 1988