江田島八幡宮(江田島市江田島町中央)

江田島八幡宮。

江田島の海上自衛隊第1術科学校そばに鎮座。

江田島の総氏神とされる神社。

広告

境内

県道沿いの一の鳥居

 

社号標

 

二の鳥居

 

鬼瓦

 

注連柱

 

手水舎

 

狛犬

社殿

拝殿

10時頃の参拝だったのですが、当社は北西向きなので逆光になってしまっております。

 

扁額

 

本殿

 

拝殿内に、大破着底した榛名の写真が奉納されています

写真解説文

大破着底した榛名 ― 戦後、米戦略爆撃調査団の撮影したもので、広角レンズによる撮影であるため船体は非常に長大に見えるが、艦は相次ぐ攻撃により浸水がひどく海底に沈座し、やや左舷に傾斜している。主砲塔、艦橋部にはマダラ模様の迷彩塗装がほどこされているのが見える。砲塔、艦橋部、煙突ふきんには大戦中増強された機銃、高角砲の砲座が見えるが、大戦中、本艦の対空兵装は12.7センチ連装高角砲6基、25ミリ3連装機銃30基、連装機銃2基、単装機銃28基に達した

戦艦榛名(はるな)奉納、乗組員一同

どうやら榛名の艦内神社に祀られていた御霊代が、総員退艦時に艦長により保護された後に当社に委託され、昭和30年に勧請元である榛名神社に奉還されたという経緯があるそうで、その点で当社と榛名にはそれなりの接点があると言えます。

 

 

大破着底した地点も近く、留魂碑も近くに現存します(後述)。その繋がりでこの写真が奉納されたのかどうかまではわかりません。

境内社

金光稲荷神社

参道石段途中、右手に金光稲荷神社参道分岐

 

金光稲荷神社鳥居

 

お狐さん

 

社殿

 

金光稲荷神社近くに奉納された埴輪

古鷹神社

社殿左手前に古鷹神社

※重巡洋艦古鷹の艦内神社勧請元ではありません。

 

由緒碑

伝説によると、舟が江田島の近くを航海している時、海が時化て船頭が困っていると、鷹が飛んできて波静かな海に導くことで船頭が安堵し、それを見届けた鷹は小高い山に飛び去り、その山を古鷹山と呼ぶようになりました。島民は、古鷹山頂上に島の守り神として神社を創建しました。これが、御鷹神社の始まりと謂われております。その後切串沖を通る舟が古鷹山に近づいたときは、神様に敬意を表す為に舟の帆を降ろしていましたが、これは大変だということで、麓の小高い丘(後の八方園)に移しました。

明治十九年七月海軍兵学校の移転工事による買収に伴い御鷹神社は江田島八幡神社(現江田島八幡宮)に預けられ、明治二十二年中郷区山ノカミに移転、その後の祭礼の夜火災により社殿を焼失し、再び江田島八幡宮に合祀されました。

御鷹神社は、関係者の真心と七年余の努力により、平成18年この地に「古鷹神社」として再建されました。

なお、旧御鷹神社の跡地は、海軍兵学校移転後、庭園となっていました。昭和三年十一月二十三日昭和天皇御大典記念として、八方園神社が旧海軍により同庭園に創建されましたが、昭和二十年八月太平洋戦争の終戦に伴い進駐軍の手に渡ることを恐れ旧海軍により取り除かれました。

その他境内社等

社殿右手に天満宮

 

同じく社殿右手に神明社

 

参道石段下、右手に出雲神社

 

神輿庫

由緒

江田島八幡宮由緒

鎮座地 広島県安芸郡江田島町矢ノ浦

祭神 品陀和気命 比売命 神功皇后 鷹宮大神 厳島明神 熊野權現

由緒 江田島開島(約千年前と推定)と共に島の総氏神として鎮座

享保十二年安芸国藩主浅野吉長公参拝 明治二十一年当地に海軍兵学校が開校され将兵の崇敬も篤く大正十三年には高松宮殿下代拝幣帛料を供進せらる

社宝には境内より出土した千年前の多数の祭器(土師器)、元和二年社殿再興の棟札等がある

境内社 出雲神社 金光稲荷神社 天満宮

境内社地 四,二一七坪

 

由緒書

江田島の開島(約千年前と推定)と共に島の総氏神として鎮座。江戸時代には江田島に割庄屋があった為、島と共に神社も栄え、享保十三年(一七二八年)には安芸国藩主浅野吉長公参拝、安永四年(一七六六年)には藩主の弟である浅野友之助公も参拝される。(古今萬集に記載)

明治二十一年には、この地に日本海軍兵学校が開校されると共に一躍日本の江田島として有名になり、神社も海軍将兵等の心のよりどころとして崇敬される。また大正十三年には高松宮殿下が参拝、幣帛料の供進があり、終戦後には海上自衛隊幹部候補生学校、第一術科学校が開校され今日に至る。

当神社も江田島総氏神として、また全国からの参拝者によって栄えてきた。昔を物語るもので現存するものには、元和二年(一六一四年)二月六日の御社殿再建時の棟札をはじめ、他に二十数枚の棟札が現存し、大正以前の鎮座は明らかである。また平安期~鎌倉時代のもので使用されていた土師器系統のカワラケ(祭器)三個が境内より出土し、鎮座時期や開島時期などが推定された。

(考古学の後藤守一先生をはじめ、多くの考古学者の鑑定済み)

創建は不詳。

神社の由緒書には約1000年前の江田島開島時より総氏神として鎮座とあります。

元和2年(1614)の社殿再建時の棟札があるということで、少なくともその時点で存在していたことは確実かと思われます。

 

享保13年(1728)に安芸国藩主浅野吉長の参拝があったといいます。

明治21年(1888)に江田島に海軍兵学校が移転してきた後は、海軍将兵からの崇敬も篤かったようです。

大正13年(1924)には高松宮殿下の参拝、幣帛料供進あり。

御朱印

御朱印はあります。

社務所で拝受可。

軍艦榛名出雲戦没者留魂碑

神社の東北東約1kmの場所に、軍艦榛名出雲戦没者留魂碑が建っています。

 

軍艦榛名出雲戦没者留魂碑

 

石碑

大東亜戦争の末期江田島町小用港沖に碇泊中の軍艦榛名 出雲の両艦は 昭和二十年七月二十四日二十八日の両日にわたり 米艦載機の執拗なる大空襲を受け ここに壮烈なる海空の戦鬪が展開され 日本海軍の精華を遺憾なく発揮した

しかしながらこの戦鬪において榛名七十一柱 出雲三柱の尊き戦歿者を出したことは 誠に痛恨に堪えない

昭和四十一年二月より 中浜吾祐江田島町町長中心に是等悠久の大義に殉ぜられた護国の英霊を弔い これが武勲を永く後世に顕彰せんが為に 留魂碑建立の運動が進められ 江田島町の有志竝に海上自衛隊 元両艦の乗員更には御遺族等有縁の方々よりの浄財により 昭和四十二年五月六日両艦奮戦の古戦場を眼下に眺め得るこの地に建立された 題字は元文相灘尾弘吉先生の筆による

民族の興隆は栄ある歴史の伝統により推進せられる その歴史は殉国の人々の尊き生命の集積がその根幹となっていることを忘れてはならない

 

碑の近くにある祠

軍艦大淀戦没者碑

神社の西南西3.5kmほどの場所に、軍艦大淀戦没者碑が建っています。

 

戦没者碑に続く道の入口に建つ碑

神社から南下してきて、江南交差点で西に曲がり、450mほど行ったところ、右手に建っています。

ここから250mちょっと行くと慰霊碑があります。途中、水産加工場の軒先を通ります。車で行けないこともないとは思いますが、道も狭いので歩いていった方がいいです。

 

軍艦大淀戦没者之碑

 

碑の横に大淀の模型

 

軍艦大淀戦没者碑誌

太平洋戦争の末期 日本国内は 長期にわたる戦争のため あらゆる物資が極度に欠乏し 南海に数々の功績を残した 当時の最新鋭巡洋艦大淀も 重油不足により 乗組将兵と共に 江田島湾の奥深く 飛渡瀬内海沖にその英姿をかくしていた

昭和二十年七月二十四日未明のこと米国海軍機動部隊は 突如として 土佐沖に姿をあらわし 艦砲射撃を行うと同時に艦載機による本土攻撃をはじめた 不幸にも大淀は それらの艦載機の発見する処となり 約一時間におよぶ 波状攻撃をうけた 大淀乗組の将兵は これに屈することなく機銃 高角砲 主砲までも砲門を開き 迎撃を敢行した 然し航空機の波状攻撃にはおよばず 戦死傷者は続出し 艦内各所に火災が発生し 猛威をふるうに至った

米海軍艦載機は その後も攻撃の手をゆるめることなく 五日間断続的に 攻撃を繰り返した

艦上に炸裂する爆弾 天空も裂けよとばかりに火を吹く主砲 そして高角砲 間断なくうち続けられる機銃 せまい内海を 尊い血潮で紅に染めつつ 勇敢なる将兵は 激戦を続けた このような極限状況下にあって 当時の飛渡瀬警防団および国防婦人会は 戦鬪の合間をぬって燃え続ける艦の消火活動や負傷兵の救出 手当等に 必死の活躍を続けた 然しその甲斐もなく 昭和二十年七月二十八日 遂に軍艦大淀は 十発以上もの至近弾直撃弾により 浸水はなはだしく 横転し内海沖に没した この間 草間四郎大尉以下二百七十余名の若き生命は 祖国の栄光を信じつつこの内海に散華された

多くの遺体を荼毘にふす煙は 飛渡瀬の空を 三昼夜覆い 純朴なる島民の涙をさそった 再び繰り返してはならない 戦争の惨状を後世に伝えると共に英霊の冥福と平和への願いをこめて 慰霊碑は建立された

 

慰霊碑そばのお堂

 

碑の前から望む江田島湾

アクセス

呉駅のあたりから国道487号を南下。音戸大橋か第二音戸大橋を渡り、倉橋島へ。県道35号を経由して早瀬大橋を渡り東能美島へ。大君交差点(位置)を北に進み県道44号に入ります。2km弱先の柿浦交差点(位置)を右折してさらに44号を北上します。

7km強走ると右手に鳥居があります(位置)。鳥居左手の道に入ります。

すぐ先で右手に上っていく坂が分岐します(位置)ので、そちらへ。

上っていくと、坂の途中、路肩に駐車場が設けられています(位置)。

傾いた状態で停めるのが嫌な方は、もう少し上ったところに社務所があり、その横に駐車場があります(位置)。

 

広島港から高速船で江田島の小用港まで行き、そこから徒歩(30分ほど)またはタクシー(5分ほど)というルートもあります。

神社概要

社名江田島八幡宮(えたじまはちまんぐう)
通称
旧称
住所広島県江田島市江田島町中央4-1-30
祭神

帯仲津日子命(仲哀天皇)

品陀和気命(応神天皇)

息長帯日売命(神功皇后)

祭神

鷹宮大神

厳島明神

熊野権現

社格等不明
札所等
御朱印あり
御朱印帳
駐車場あり
公式Webサイト
備考

参考文献

N/A