保呂羽山波宇志別神社神楽殿。
保呂羽山の東4kmほどの場所にあります。
全国でも珍しい両流造の建物で、国の重要文化財に指定されています。
境内
道路脇にこんな看板がどんと建っているので非常にわかりやすいです(神楽殿はこの看板と道路挟んで反対側)
鳥居
参道
橋
扇池
庚申碑
社頭案内板地図に八幡堂跡と書かれていた場所(神楽殿右手)
神楽殿
神楽殿
扁額
懸魚には彩色がありました
これは江戸時代に付け替えられたものみたいです。
神楽殿の中に、鳥居の形をした切り絵が見えました(中には入れないので格子の隙間から)
里宮での霜月神楽の様子を写した写真を見るとわかるのですが、これと同じ物がいくつも飾られているのがわかります。何か特別な意味を持っているのでしょうか。
ほろわの里資料館
神楽殿と県道挟んだ向かいにほろわの里資料館があります(冒頭の看板が建っている側)
無料で無人なので自由に見学する形になります。館内の電気も自分で付け、退出時には消すようになってます。
中央には神輿や霜月神楽の際の衣装を纏ったマネキンが置かれ、周囲の壁には写真や説明文の載ったパネルが掲示されています。
由来
波宇志別神社に伝えられた、古式を残した霜月の湯立神楽で、三河、信濃の霜月祭とも呼応している。
今は新暦の11月7日、代々の神主大友氏の家の神殿に、伊勢神明、保呂羽山をはじめとする秋田の三国社、諸人信仰の神々を勧請し、神前の釜に湯を沸かし、湯加持の後、神子が釜の湯を笹を束ねた湯箒につけて神々に献じ、参拝者にも振りかけて清めをする。この湯立が繰り返し行われる。
又、「剱舞」と称するのは、昔、秋田の古戦場に没した人々を弔う湯立て、特別の神歌がうたわれる。
ここの湯立には、面形の舞はないが、五調子、神入舞、山の神舞など、この地方に古くからの祈祷の舞が、間々に舞われ、又、「御饌祝詞」と称し、五穀の豊穣を感謝する祝詞も、湯立の間、斎主によって唱えられる。
本田安次博士によると、この霜月神楽の神事そのものは明治初年に行われなくなった伊勢の霜月の寄合神楽とそっくりで、ただ、お湯を捧げる神々が伊勢の諸社に代わり、天道神社や伊勢両宮をはじめ、参拝者の信仰する神々に代わっているだけという。
いうまでもなく、波宇志別神社の霜月神楽は伊勢系の神楽であり、その形式はことに古風を伝え、湯立て神楽といえば真っ先に挙げられる神楽である。
代表的舞の概略
○保呂羽山舞
霜月神楽では神子舞が度々となく演じられるが、舞いの形はすべて同じで、お湯を捧げる神によって、それぞれの神歌や託宣がはいる。
保呂羽山舞は神子舞のなかで、神歌の間に託宣が入る唯一の舞いであり古くは実際に神つきになったといわれているが、今は託宣も固定化されている。
舞は七段に構成され、なかで三十首近くの神歌が歌われる。
陶酔境に誘い込まれるほどの優美な舞である。
○山の神舞
数多い舞の中で最も重く見られている舞で、丑の刻、午前1時から舞うのが古例とされている。
楽人一名が鳥兜、白い狩衣、両たすき、かるさん、手甲、脚半、白足袋となり、楽人一同と三三九度の盃ごとのあと、三十六童子と桂男の紙幡を桃の枝につけたものを手に持ったり、背に差すなどして舞う。
舞は三十分近くもかかるが、番楽などにも似て、あたかも荒々しい神がついたかと思えるほど激しく、まさにこの世とは思えないほどの異様な雰囲気につつまれる。
舞は十二段に構成、神楽の中で最も難儀な舞である。
○神入舞
烏帽子、狩衣の楽人一名が出て、拝礼してから刀二振りをいただき、一振りは腰に差し、他の一振りは半分抜いて、一文字に拝し、舞う。
次に、座って神酒をいただいてから素手で舞い、さらに扇子をとって舞う。続いて、刀を一振り、次に二振り持って舞う。実に勇壮な舞で、刀の使い方も変化に富む。
1.建立年代の調査
神楽殿の建立年代については、棟札や建立時の古文書等の資料がなく、また建物をすべて解体しての個々の部材調査によっても、建立年代を示す墨書は発見することができませんでした。しかし、後設である厨子の柱に天正12年(1584)の墨書が見つかり厨子の年代がほぼ明確になったため、体建物と厨子の年代差を求めれば、ある程度に神楽殿の建立年代を限定できると考えられました。
2.年輪年代測定の実施
現在、木製品や木造の建造物の年代判定で、絶対年代を出す決め手として注目を集めている年代測定法に、年輪年代法といわれる測定法があります。この方法は、使用部材の年輪の規則性を調査することによって部材の伐採年代を究明するもので、測定部材の状態によっては誤差を殆ど生じさせないほど正確に判定することができる測定法です。
偶然にも神楽殿は、今回の工事に先立つ昭和62年に厨子の板壁についてこの年輪年代法による調査を実施した経緯があり、当時の調査結果は、神楽殿の建立推定年代であった室町時代中期よりかなり遡る、12世紀末から13世紀初め頃の伐採されたというものでありました。そこで今回の解体修理の機会に、前回の調査の追調査を進め、新たな見解が生じる可能性を期待しました。調査は前回と同じく、この測定法の日本での第一人者である奈良国立文化財研究所の光谷拓実主任研究官に依頼しました。
調査は修理現場で試料を選別しながら実施され、年輪層が100層以上あると思われる部材32点について計測を実施、得られた年輪幅データーをコンピューターに入力し、東北地方の遺跡出土材で作成したスギの暦年標準パターンや、木曽ヒノキで作成した暦年標準パターンと照合して各部材の年代を導き出しました。
3.測定結果
今回測定した部材及び前回測定した厨子の板壁材の測定結果は、別パネルの表に示した通りで、大きく三つの年代に分類することができます。
1)第Ⅰ群(12世紀末)再利用材
これに属するものは、試料No.11. 17. 18.と前回測定したNo.33~40までの部材で、天井長押受け木、板壁、厨子の板壁の部材がこれに当ります。このことは、礎石に残る柱痕跡と合わせ、神楽殿の前身建物または12世紀末から神楽殿の建立当時まで存在した建物を、神楽殿の建設に合わせ解体し、その一部を神楽殿に再利用したものと考えることができます。
2)第Ⅱ群(16世紀中頃)建立時の当初材
この第Ⅱ群の年代判定は、神楽殿建立年代を推定する重要な手掛かりとなります。
この第Ⅱ群に属するものは、試料No.1~10. 12~16の部材で、舟肘木、内法貫、鴨居、小壁板、天井長押、厨子大斗、厨子枠肘木、板壁がこれに当たります。
この中で注目されるのが試料No.1の舟肘木や、No.13~16の厨子枠肘木、板壁で、これらの部材には、年代判定の決め手となる木の表面に近い辺材(木材の白い部分)が残っており、使用された木材の伐採年代に近い年代を求めることができました。
結果は、試料No.1の建立当初材とされる舟肘木の残存最外年輪が1555年と判明し、この部材に1.8cmもの辺材が残っていることから、1555年以降の極めて近い年代に伐採されたものであることが解りました。このことは、神楽殿の建立が1555年以降であることを証明し、建立年代も建築様式より推定していた室町中期頃から、室町末期頃に時代が降ることとなりました。
3)第Ⅲ群(17世紀初め)寛永の大修理材
この第Ⅲ群に属するものは試料No.19~28の部材で懸魚、登り裏甲、妻壁板等がこれに当たります。
この第Ⅲ群では試料No.22の登り裏甲が、樹皮を剥いただけの完璧な試料であるため、1635年の秋から翌年春までの間に伐採されたことが判明、懸魚の鰭に残る寛永14年(1637年)の墨書と完璧に符合しました。
このことは、第Ⅲ群に属する登り裏甲、妻壁板等が、寛永14年に取り替えられたことを示すとともに、大規模な屋根替え工事が行われたことを証明する証拠となりました。
神楽殿はその呼び名の他に、弥勒堂と本宮の二つの名を持っている。これも縁起と同様別当を勤めた両家による違いであり、大友家が弥勒堂で、守屋家が本宮である。
弥勒堂説の根拠は、もともと弥勒仏は吉野山に由来するものであり、また弥勒が地上に現れた姿が布袋であるとする。さらに布袋は鈿女命(天鈿女命)と同じであり、鈿女命は神楽の祖神であることから、三段論法により、弥勒堂は神楽殿と同じことであるとするものである。
一方、本宮説の根拠は、もともと波宇志別神社の発祥地は神楽殿の附近であり、御神体ももともと神楽殿に祀られていたとする。神楽殿こそがもともとの御宮であるから、すなわち元宮もしくは本宮であるとするものである。
神事の毎に神楽が舞われたことは江戸時代の記録にあり、神楽殿として使われていたことは間違いない。文化11年(1828年)に藩命による本宮と呼ぶことを禁じられたため、その後は大友家が唱える弥勒堂が主流となった。さらに明治の神仏分離令以後は弥勒堂も使わなくなり神楽殿ひとつとなった。
しかし、参道近くの楢岡川に架かる橋の名に「本宮橋」の名を残しており、複雑な歴史の一端をのぞかせている。
神楽殿の概略図と各部名称
波宇志別神社略年表
由緒
保呂羽山波宇志別神社の創立は縁起によれば奈良時代中ごろの天平宝字元年(757)と伝え、延喜式神名帳に記載される県内屈指の古社である。本殿はここから4キロメートルほど西方にある標高438メートルの保呂羽山の山頂に鎮座する。
神楽殿はかつては弥勒堂とも本宮とも呼ばれ、大友家と守屋家が両別当として永く守り伝えてきた。毎年5月8日の例祭では、湯立神楽の神子舞が行われている。
建立年代は室町時代の末ごろと考えられるが、太い柱や巨大な舟肘木や桁など、簡素で雄大な構造は古代建築の風格がある。形式は両流造という珍しいもので、木材は主に杉を用いており、内部の柱は直径52センチメートルもある。
屋根は杉の手割り板を用いたこけら葺である。内部は背面寄りを三室に間仕切り、桃山時代初めの天正12年(1584)の墨書のある大規模な厨子を備えている。
この厨子の壁板は鎌倉時代初め(1200年前後)に製材された杉材を用いていることが判明し、前身の建物の木材を再用したことが考えられる。
平成2年から4年にかけて解体修理が行われ、建立当時の姿に復原を行ったが、軒から上方と側面の妻飾りの破風や懸魚は江戸時代初めの寛永14年(1637)修理時の形式となっている。
神楽殿は室町時代の建物として貴重なものであるが、桃山時代に鎌倉時代の木材を再用して厨子を造りくわえ、江戸時代に軒と屋根の改造を行っている。
しかし、その姿は平安時代風の雄大さを保っているなど、建物自体に数々の歴史的経過を秘めている。また神社は奈良時代からの由緒を持つが、ハウシワケという不思議な呼称はその起源を先史時代にまで導く響きがある。
ここは千数百年の壮大な歴史物語の空間への入り口である。
神楽殿の建立時期は室町末期頃とされています。
ただ、厨子の板壁等に12世紀末の製材と測定された部材があり、現神楽殿建立以前にも何らかの建物(前代の神楽殿か、全く別の建物かは不明)があったと考えられます。
母屋の前後に庇を延ばす両流造という形式で、これは東北では唯一ここのみ、全国でも6棟しかないという大変珍しいものです。
かつては弥勒堂(大友家呼称)や本宮(守屋家呼称)とも呼ばれていました。
詳細は上掲「神楽殿 三つの名称」をお読みいただければと思いますが、気になるのは本宮の由来。
「波宇志別神社の発祥地は神楽殿の附近であり、御神体ももともと神楽殿に祀られていた。神楽殿こそがもともとの御宮である」とあります。
もしかすると、この説の通り波宇志別神社発祥の地はここで、修験道の影響で保呂羽山山腹に遷ったのかもしれません。
江戸時代には何度か修理や屋根葺き替えが行われていたようです。
昭和34年から平成始めまで屋根がトタン葺に代えられていたそう。
昭和55年に国の重要文化財に指定されています。
平成2~4年にかけて解体修理が行われ、現在の姿になりました。
御朱印
御朱印の有無は不明。
…ですがおそらくないでしょう。
アクセス
波宇志別神社里宮から北へ1.5kmほど行った場所にあります。
里宮までのアクセスは当該記事参照。
県道265号沿いで、道から鳥居が見えるのでわかりやすいです。
鳥居の手前、県道沿いに駐車場あり(位置)。
神社概要
社名 | 保呂羽山波宇志別神社〔神楽殿〕(ほろわさんはうしわけじんじゃ) |
---|---|
通称 | – |
旧称 | 弥勒堂 本宮 |
住所 | 秋田県横手市大森町八沢木字宮脇106 |
祭神 | 安閑天皇 |
合祀 | 火産霊神 須佐之男命 菊理姫命 大日霊命 菅原道真 金山毘古命 稲倉魂命 大名持神 少彦名命 岩戸別神 誉田別神 八意思兼命 伊邪那岐命 経津主命 猿田彦命 天津御女命 健御名方命 応神天皇 大山祇命 大山咋命 |
社格等 | 式内社 出羽国平鹿郡 波宇志別神社 旧県社 |
札所等 | – |
御朱印 | 不明 |
御朱印帳 | – |
駐車場 | あり |
公式Webサイト | – |
備考 | 近辺に本社、里宮、仁王門あり |
参考文献
- 「保呂羽山波宇志別神社」, 『日本歴史地名大系』(データベース「JapanKnowledge」)
- 「保呂羽山波宇志別神社」, 神社本庁教学研究所研究室編『平成「祭」データ(CD-ROM)』全国神社祭祀祭礼総合調査本庁委員会, 1995
- 式内社研究会編『式内社調査報告 第十四巻 東山道3』皇學館大学出版部, 1987
- 谷川健一編『日本の神々 神社と聖地 第十二巻 東北・北海道』白水社, 1984
- 明治神社誌料編纂所編『府県郷社明治神社誌料 中巻』明治神社誌料編纂所, 1912(国会図書館デジタルコレクション 642-643コマ)