配志和神社。
一ノ関駅の北西約2.2kmほどの場所に鎮座。
式内社 配志和神社に比定される神社。
境内
社頭
鳥居
扁額
社号標
社号標
参道
左側の道が車道。
社号標
白髭洪水の跡碑
庚申塔等の石碑
二の鳥居
さらに参道は続く
石碑
手水舎
境内入口
石碑
参道石段
モミは日本固有の常緑針葉樹で、暖温帯から冷温帯まで分布し、中間温帯林の主要構成種です。
モミ林は配志和神社のほか、小規模ながら平泉町中尊寺、衣川村三峰神社、前沢町熊野神社、沿岸部と、宮古市黒森神社に見ることができます。
当地方における分布は、標高10~500mの平地や丘陵地帯に限られ、人間の主要な生活の場であることから人為的影響を受けやすく、わずかに神社や仏閣の境内林などに残存している程度です。
このモミ林で最大のものは目通周3.50m、樹高30mで、樹齢300年以上と推定され、北限付近に分布するモミ林としては最大級の規模であり学術上貴重な植生です。
参道石段
剱坂というようです
産湯ヶ池
参道脇に祠や石碑が多数
長い石段
登り切った所に社殿
手水鉢
狛犬
夫婦杉
本殿前の二本の大きなスギは、市内では最古、最大級で、配志和神社の御神木として大切に保護されています。
この樹木は北側が目通周七.一八南側が四.八三、樹高は、いずれも四十二(単位m)、樹齢は、千年以上と推定されます。
風雪に耐えながら永きにわたり寄り添うようにそそり立つその姿に、地元では何時しか夫婦杉と言うようになりました。
一関市指定天然記念物
鳥居の残骸
社殿
拝殿
扁額
本殿
所在地 一関市山目字館
年代 江戸時代
指定年月日 昭和61年(1986)7月1日
配志和神社本殿は「延喜式神名帳」にも記載される延喜式内社で、磐井郡二座のうちの西岩井・流の総鎮守神として、崇められてきました。はじめ磐座山に鎮座して火石輪と呼ばれ、後に始輪大明神、穂志波社梅森明神、蘭梅明神(梅の宮)、刃蔵社とも呼ばれました。
配志和神社に改めたのは延長5年(927)で中世に現在地に移されて今日に至っています。宝暦風土記(1763)によると、その創建は日本武尊が蝦夷征伐の際に、高皇産霊尊、瓊瓊杵尊、木花開耶姫命の三神を祀り戦勝祈願したことといわれ、その三神が祭神とされています。
「県社配志和神社略記」によると、本殿は養和元年(1181)、拝殿は正徳元年(1711)に改築されたとされていますが、現在の社殿は拝殿と本殿を幣殿でつなぐ複合社殿であり、江戸時代の特色が見受けられます。また、拝殿二手先組、化粧屋根裏構架、本殿欄間彫刻といった構造手法も非常に優れており、当地方の信仰や社寺建築の歴史を知るうえでも貴重な建造物です。
境内社
石段下
白鳥神社
境内入口にあります。
姥杉
本樹は、配志和神社の本殿前の「夫婦杉」同様に市内最古、最大といわれており白鳥神社の御神木として大切に保護され境内入口にあって象徴的なたたずまいを醸し出しています。
目通周六.一、樹高三十六.九(単位m)で樹齢は千年以上と推定されています。
一関市指定天然記念物
八雲神社
金華山の碑
三宝大荒神社
三宝大荒神社の狛犬
三宝荒神を祀る。例祭日は九月二十八日
火の神、竈神として民家に祀られることが多い
江戸時代正徳年間、濃州関(岐阜県関市)にて名刀匠兼道に師事し奥義を極め師の一字を賜り勝道と名乗る者、郷里山目の小坂橋付近に鍛冶場を興し当社を創祀す。昭和二十三年の大水害流失前は磐井橋。上ノ橋の中間附近に鎮座
一帯が河川堤防用地となり現在地に移転遷座す
石段上
愛宕神社
愛宕神社
火神軻遇突智尊を祀る
誕生の時に母神が火傷のためにお隠れなさったので仇児の神とまた火産霊神とも称される
社殿の経緯は不明であるが江戸時代の配志和神社々殿造立に相次いで建立と推定される
昭和十年の修理記録が一部残る
平成二十三年の大地震で損傷激化し同二十五年から同二十七年にかけて屋根葺替縁床浜床張替階造替等の修繕を行い天神社側の雨打線の競合から配志和神社側に三尺移転し基礎を鹿の子建から一部亀腹とした
天神社
末社天神社
御祭神 菅原道真公(天満大自在天神)
御神徳 学問 詩歌 書道 合格 雪冤 降雨
菅原道真公は学問に秀で政治家として異例の出世をしたが妬まれて大宰府に左遷され不遇の中に亡くなった その後都に落雷などの天災が頻発したため菅公の御霊として恐れられ天満大自在天神として祀られるようになった
配志和神社には菅公左遷の折に御子敦茂公が当地に流され父の帰洛を願って社殿を修造し観音像を祀り蘭麝梅を植えたという伝承がある
蘭麝梅は全山に繁茂して馥郁たる香りを放ちこの山を乱梅山と呼ぶようになった
硯が池
天神様と慕われる菅原道真公大宰府に左遷され御子敦茂公が当地に流された折この池の水にて硯の墨を擦ったと伝えられる
名称不明社
石祠と神像(石仏?)
神明社
蔵
古峰神社
日吉神社
日吉神社は一関市川辺字藤後六十六番地に鎮座 細谷部落鎮護の守護神として又遠近より多くの崇敬者により広く信仰されてまいりました 當社は三百有余年の歴史を有し殊に社殿は社寺建築界の名工として知られる奥の源太夫師(天保七年殁)が文化十二年に建立した貴重な建造物でありよって原状のまま移転復元することとし宮大工棟梁川坂浩氏によって完成した
昭和61年度一関遊水地事業により配志和神社境内に移築遷座す
日吉神社の狛犬
浅間神社
浅間神社は當地より東方五キロ地点の一関市中里下大林部落に在り守護神として三百有余年に亘り信仰してまいりましたが北上川治水事業に依り昭和六十一年度事業で配志和神社境内に移転す
浅間神社の狛犬
社殿左手に下っていくと広場に鳥居があります
広場に建つ忠魂碑
広場の蘭梅山案内図
さらに下った場所にある古舘八幡神社
古舘八幡神社は「山目安永風土記」に依ると葛西家の家臣小岩駿河守の勧請で年代は不詳とある。
また、現在の山目中学校の校庭の南東には、東西七十六間、南北四十九間の本丸、東西六十二間、南北八間の二の丸を築き、伏牛舘と称し小岩駿河守が居城したと伝えられ、後土御門帝の明応年間(約五百年前)に応神天皇を祭神とする京都「石清水八幡宮」を勧請したものと推察される。此の伏牛舘には後に上野家、山目四郎左エ門(菊地)、鈴木家が居城し代々社家として山目村に居住する氏子と共に崇敬してきた。戦時中は武運長久、家内安全、五穀豊穣の神として御神徳あらたかであった。戦後の昭和二十四年山目中学校建設によって同校裏に仮遷座していたが、昭和四十年には、東大教授鈴木辰雄氏の発起で中学校裏の蘭梅山中腹に遷座、さらに昭和四十五年三月に旧野火番所跡に遷座し現在に至る。
古館八幡神社御鎮座後昭和の御代に山目中学校建設のため数度の御遷座を経て現在地に御鎮座坐しし処東日本大震災東北地方太平洋沖地震 平成二十三年三月十一日午後発生 総石造の宮殿上部移動 更に四月八日最大余震により上部崩落倒壊に至る 臥牛城主裔故鈴木重悦が妻ケイ子 此を惜しみ上部を檜造銅板葺に再造
八幡神社脇の祠
境内入口付近の月見ヶ池
この庭は二段式庭園という形式だそうです。立派だなあというのが、庭園に詳しくない私の感想。
社務所とくっついているこちらは遥拝所?
芭蕉の句碑
一.社殿左手前
梅香碑
梅が香にのっと日の出る山路かな
通釈
早春の薄明の中、山路を登って行くと、野の梅の香が強く薫っている。と急に、あたりを赤々と染めて、朝日が昇ってきた。
元禄七年(一六九四)芭蕉五十一才の句。
二.二段式庭園上段
初音塚
此梅に牛も初音と鳴きつべし
通釈
今、この社殿の梅の盛りに鶯が鳴き出すのはもとより、牛までがきっと鳴くにちがいない。
延宝四年(一六七六)芭蕉三十三才の句。
この二つの句碑は、山目山笑庵社中が俳聖芭蕉の偉業を偲んで芭蕉のよんだ句の中から、もし芭蕉がこの地に立ち寄ったなら、この句を残したろうと考えて句碑を建立したものです。
社殿手前の句碑は見落としていました。
二段式庭園
蘭梅山の麓の緩傾斜地を二段に整地し、上段に岡池(社務所脇)、下段に主庭を配置した築山泉水式を基本とした庭園である。
一七〇〇年頃大槻家の庭園を造った晋朴の造園といわれており、日本百庭園に入っています。
蘭梅山
大宰府に島流しにされた菅原道真の子敦茂が、当地に来山し父親が丹精こめて育てていた蘭麝梅の実を植えたところ当山一帯に咲き乱れ高貴な香りを放っていたので「蘭梅山」という名がついた。
延喜式内配志和神社
今から約一八〇〇年位前、延喜式内社として、日本武尊(景行天皇の息子)が奉ったのがはじまりで、以来広く地方の守護神として、今日に至っている。
姥杉(神木千年杉)
根元回…十一m、根元径…三.五m
高さ…三十九m
社殿の両脇にあり、二木共同年のものと思われる。
この案内、夫婦杉と姥杉を混同しているような…
由緒
社伝によれば、景行天皇の御代、日本武尊東征の際、当地に陣を布き、磐座山(九本松)に登って三神を鎮斎し戦勝を祈願、東奥鎮護の神として祠を建てました。
この祠が火石輪(ほしわ)神社と称され、やがて配志和に転じたといいます。
延喜年間(901~923)に当地に遷座したとされます。
文徳実録 仁寿2年(852)8月7日条に「陸奥国…配志和神…従五位下」と、配志和神が従五位下を授けられた旨の記述がみえます。
延喜式神名帳では「陸奥国磐井郡 配志和神社」とみえます。
応仁年間(1467~69)以来荒廃していたようですが、慶長6年(1601)宮司が再興。
明治8年県社に列格。
明治9年に磐井県から岩手県となり郷社になりますが、大正4年に再度県社に昇格。
旧地
当初は磐座山(九本松)の嶺上に鎮座していたとされます。
この磐座山は大槻交差点(現社地の南南西)付近に位置する小高い丘のようです。
「配志和の森さんぽ」さんの「式年大祭」のページに載っている写真を見ると、岩手病院の裏にある山のことかと思われますが、よくわかりません。
実際に岩手病院の裏山に行ってみましたが、道がなく、貯水施設らしき小さな設備があっただけでした。
山中には現在もどこかに石碑が残っているようです。
4年に一度、「天孫御降臨式年大祭」という祭事があり、磐座山の嶺頂で「御室焼」という特殊神事が行われるそうですので宮司さんや氏子さんは磐座山や石碑について、詳しくご存知の事と思われます。
詳細な場所や行き方をご存知の方がいましたら、ご教示いただければ幸いです。
御朱印
御朱印はあります。
社務所で拝受可。
ただし、事前連絡を入れた方が確実だと思います。
アクセス
東北自動車道の一関ICを降りて東へ。
2kmほど先の交差点(位置)を左折。
500mほど先(位置)で左折。
100mほど進むと、突き当り(参道石段のはじまるところ)の右手に駐車場があります。
万が一満車の場合、突き当りを左に曲がるとすぐに第二駐車場があります。
神社概要
社名 | 配志和神社(はいしわじんじゃ) |
---|---|
通称 | – |
旧称 | 火石輪神社 |
住所 | 岩手県一関市山目字館56 |
祭神 | 高皇産霊尊 瓊瓊杵尊 木花開耶姫命 |
社格等 | 式内社 陸奥国磐井郡 配志和神社 日本文徳天皇実録 仁寿二年八月辛丑(七) 配志和神 従五位下 旧県社 |
札所等 | – |
御朱印 | あり |
御朱印帳 | – |
駐車場 | あり |
公式Webサイト | – |
備考 | 旧地は磐座山(九本松)の嶺上 |
参考文献
- 「配志和神社」, 『日本歴史地名大系』(データベース「JapanKnowledge」)
- 「配志和神社」, 神社本庁教学研究所研究室編『平成「祭」データ(CD-ROM)』全国神社祭祀祭礼総合調査本庁委員会, 1995
- 式内社研究会編『式内社調査報告 第十四巻 東山道3』皇學館大学出版部, 1987
- 明治神社誌料編纂所編『府県郷社明治神社誌料 中巻』明治神社誌料編纂所, 1912(国会図書館デジタルコレクション 476コマ)