御所神社。
つるぎ町貞光の山間部、御所平と呼ばれる場所に鎮座。
式内名神大社 忌部神社の論社。
境内
社頭
鳥居
鳥居に使われた木材や大きさの説明板
平成17年建立と、新しい。
扁額
「忌部奥社 御所神社」
狛犬
手水鉢
境内案内板
貞光町指定天然記念物(植物)昭和四十六年二月二十三日指定
徳島県指定天然記念物(植物)昭和四十六年二月二十三日指定
バラ科の落葉高木で本州、四国、九州の山地に生え、庭木にもします。東京地方に多いのでこの名がつけられ、花時に葉がないことから歯無しにかけて姥彼岸とも言います。
吉良のエドヒガンは、樹齢約四三〇年、幹回り四・五Mあり地上一・五Mから大きく三つに分かれて樹冠は東西に二三M、南北一九・二M、樹高はおよそ二〇Mにもなります。花の時期には満天を薄紅色に染めたような美しい眺めを呈します。
エドヒガンが有名なようです。ここまで登ってくる道の途中にもいくつか案内がありました。
これが多分エドヒガン
社殿
拝殿
本殿
由緒
天日鷲命は、穀、麻を植え、製麻、製織の諸事を創始され、特に天照大神が天岩戸にお隠れになった時、白和幣(しらにぎて)を作り神々と共に祈られ、天岩戸開きに大きな功績をあげられた。その子孫は忌部氏と称し、中臣氏と共に国家祭祀の礼典を司さどり、忌部氏は全国各地にあって、社会教化と神道の宣揚、文化の向上、産業の発展に貢献していったのである。阿波忌部氏は、古語拾遺によると、神武天皇の代に天富命が、その子孫を率いて、阿波に下り、穀・麻の種を植え、此の郷土を開拓し、代々大嘗祭(天皇即位の大礼)に穀・麻を織った荒妙御衣(あらたえみそ)を貢上した。このように、天日鷲命を奉祭する忌部族即ち徳島県民の祖神を祭り、古来阿波の国の総鎮守の神社として、朝野の尊崇篤く、平安時代の延喜式内社には、官幣大社に列せられ、名神祭の班幣に預る名神大社となり、四国随一の格式の大社として四国一ノ宮と称せられた。また、忌部神社の法楽として、法福寺が建立され、大社の東西にも東福寺、西福寺が建てられた。そして、安和二(九六九)年には、摂社末社に十八坊を定め、後、寺の一字に福をつけて忌部別当一八坊とした。円福寺、浄福寺、悠福寺、金福寺、惣福寺、神福寺、冥福寺、地福寺、善福寺、安福寺、万福寺、福王寺、長福寺、福田寺、福満寺に法福寺、東福寺、西福寺である。当神社は、中世以降の兵火、あるいは弾圧による社領の没収、御供料の廃絶により神社の呼称の改名することとなり、久しく社地の所在が不明となったため、社地の論争の原因となった。明治政府が発足し、祭政一致の制を復し神社を国家の宗祀としたため、明治四(一八七一)年、忌部神社は国幣中社に列せられた。各地から社地の名のり出があり、明治七年十二月、麻植郡山崎村が社地とされたが、明治十四年一月には当美馬郡西端山村吉良の御所平が忌部神社の所在地と定められ、祭典が行われた。しかし、論争が続くなか、明治十八年十一月名東郡富田浦町(現徳島市二軒屋町)に社地が変更され、吉良の吉良の旧跡は摂社として、そのまま保存すべしとされた。今度、徳島市へ遷宮百年を迎え、旧跡より東に、二〇〇メートルの現地に遷宮して、幣殿、拝殿を新築したものである。
創建時期、由緒等不詳。
延喜式神名帳にみえる「阿波国麻殖郡 忌部神社 名神大 月次新嘗」並びに、続日本後紀 嘉祥2年4月乙酉(2日)条に「奉授阿波国天日鷲神従五位下」、日本三代実録 貞観元年正月27日甲申条に「阿波国…忌部天日鷲神…従五位上」、同 元慶2年4月14日己卯条に「阿波国…従五位上天日鷲神正五位下」、同 元慶7年12月28日庚申条に「阿波国正五位上天日鷲神従四位下」とみえる天日鷲神の論社。
上記由緒碑にもある通り、当社と山崎の天日鷲神社(現・山崎忌部神社)の間で明治期に忌部神社の正蹟論争が繰り広げられました。
それについて、以下 『徳島市史』から引用。
徳島市史
明治政府は、明治四年(一八七一)五月十四日に神社の社格を制定し、同時に全国の神社のうち九一社を官社(官幣社・国幣社)に指定した。徳島藩においては忌部神社が国幣中社に列せられた。(中略)数社が忌部神社であると名乗り出た経緯もあって、いずれとも決定することができなかった。そこで名東県は、政府にたびたび伺書を提出したが、その指揮にもとづいて権中属兼大講義小杉椙邨に調査を命じた。椙邨は、麻植郡三ツ木村(現木屋平村)の三木家文書やその他の資料をもとにして調査を行い、麻植郡山崎村の王子権現境内に鎮座していた天日鷲神社が忌部神社であると断定する旨の建言書を同七年二月に政府に提出した。この建言書にもとづいて政府は、明治七年五月に実地検証のために権大録大沢清臣と権少録清水重華の二名を派遣した。両名は同年七月に小杉椙邨の建言を証明する検注書二冊を教部大輔宍戸璣に提出した。これによって政府は同七年十二月二十二日に天日鷲神社を忌部神社とし祭典を行うことを布達した。(中略)明治八年一月に讃岐国田村神社の権宮司細矢庸雄は、『忌部神社鎮座考』・『同一説』・『同正跡』の三冊を名東県権令古賀定雄を通じて教部大輔宍戸璣に上進し、そのなかで、忌部神社の正跡が美馬郡西端山の五所神社であると論じた。一方、小杉椙邨も『鎮座考弁妄』・『正蹟補考弁』を上進して反論したので、再び忌部神社正蹟論争が起った。この論争は数年間にわたったが、同十四年一月に政府が忌部神社を西端山村の五所神社に改定したことによって決着を見た。しかしその後も正蹟論争は跡を絶たなかった。政府は、このような正蹟論争に終止符を打つため、明治十八年(一八八五)十一月二十一日に忌部神社を名東郡富田浦町(現徳島市東・西富田地区)に遷座することを定め、同町勢見山の金刀比羅神社に仮遷座した。
明治5年に天日鷲神社(現・山崎忌部神社)が国幣中社に列せられるも、反論もあり再調査。
その結果やはり天日鷲神社が正当と判断され、同7年太政官布告、同8年再度国幣中社に列格。
しかしなおも論争絶えず、同14年には当社を忌部社地に変更。
その後も揉め続け決着が着かず、妥協案として全く別の土地である徳島市二軒屋町の忌部神社に決定されたと。碑にも記載ありますが、現在当社はその忌部神社の摂社となっています。
実際には、江戸時代から複数の神社で忌部神社の正蹟争いが起こっていたようです。
元国幣中社忌部神社が吉良御所平より徳島市に移転、以来百年の歳月が過ぎ旧宮として御鎮座された由緒のある御所神社も拝殿が老朽化し雨漏り等がひどくなった。このため世話人、宮司協議のもと忌部神社百年祭を機会に記念事業として新らしく広い社地を求め移転新築することを決定す。郡内外の有志崇敬者に多大な御寄附をいただく。又社地建築等々についても関係者各位の深いご理解ご協力を得て正面に県指定天然記念物の「吉良江戸ヒガン」を配するこの地に遷宮を致しました。
元は西200mの場所にあり、昭和63年に現在地に遷されたようです。
祭神は天日鷲命。
吉良堂
神社までの道の途中にある吉良堂
端四国八十八ヶ所という、四国八十八ヶ所のミニチュア版の札所。
こちらはその脇にあった小さな祠
御朱印
御朱印の有無は不明。
アクセス
貞光駅の辺りから、国道438号を南下して行きます。
しばらく走ると、「式内大社忌部神社奥社」と「忌部別当東福寺」の案内板が見えますので、そこ(位置)を右折。
次に三叉路があるので左折(案内板に「忌部神社(吉良)」「エドヒガン桜」と出ている方向)。あとは県道258号を上っていけばたどり着けます(分岐にはエドヒガンの案内が出ています)。
境内右手にトイレがあり、その手前にスペースがあるので、車を停められます。
神社概要
社名 | 御所神社(ごしょじんじゃ) |
---|---|
通称 | – |
旧称 | 忌部神社 |
住所 | 徳島県美馬郡つるぎ町貞光字吉良 |
祭神 | 天日鷲命 |
社格等 | 式内社 阿波国麻殖郡 忌部神社 名神大 月次新嘗 或号麻殖神 或号天日鷲神 続日本後紀 嘉祥二年四月乙酉(二) 天日鷲神 従五位下 日本三代実録 貞観元年正月廿七日甲申 忌部天日鷲神 従五位上 日本三代実録 元慶二年四月十四日己卯 天日鷲神 正五位下 日本三代実録 元慶七年十二月廿八日庚申 天日鷲神 従四位下 旧村社(一時国幣中社) 忌部神社境外摂社 |
札所等 | – |
御朱印 | 不明 |
御朱印帳 | – |
駐車場 | あり |
公式Webサイト | – |
備考 | – |
参考文献
- 「西端山」, 『日本歴史地名大系』(データベース「JapanKnowledge」)
- 式内社研究会編『式内社調査報告 第二十三巻 南海道』皇學館大学出版部, 1987
- 徳島県神社庁教化委員会編『改訂 徳島県神社誌』徳島県神社庁, 2019
- 徳島市市史編さん室編『徳島市史 第4巻(教育編・文化編)』徳島市, 1993