布施神社。
鏡野町富西谷に鎮座。
富東谷・富西谷・富仲間・大・楠の五ヵ村の氏神かつ富美庄の総鎮守とされる神社。
合祀の横見神社は式内社 横見神社の論社。
境内
社頭
参拝時は見落としましたが、社頭から南に100mくらいのところに社号標があります。
鳥居
扁額
狛犬
手水舎
随神門
随神像が文化財らしいのですが、格子と光の加減で全く写せず…
阿形吽形二体の立像。鎌倉時代のもので、桧材一木造りである。県内四箇所の神社に見られる。信仰史上貴重であり民俗文化財としても価値の高いものである。
町指定の有形文化財(民俗文化財)
境内
社殿
拝殿
扁額
当社の本殿は東西に2棟並んでいます(東が本殿で、西は相殿という)。
東の宮
素盞嗚命が祀られています。
西の宮
櫛稲田媛命が祀られています。
境内社等
境内社多数あるのですが、招魂社と小櫻神社以外社名がわかりません(一部境内図から判断できるのもありますが)。『岡山県神社誌』によれば福井神社、斉神社、愛宕神社、素盞神社、祖霊社、招魂社…ですが実際の境内社の方が多いので、不明。
社殿真後ろにある境内社
境内図によると一宮とあるのですが…
二棟の本殿の間にある岩
この下に神宝が埋めてあるという伝えがあり、動かしてはならないといいます。
社殿右手、小櫻神社
小櫻神社脇の小祠
本殿左手前の招魂社
稲荷社
境内社
境内図に加佐美とあるので加佐美社でしょうか(2社あるけど…)
布施神社のケヤキ
ケヤキ(ニレ科)
苫田郡富村大字富西谷
推定樹齢五〇〇年
このケヤキは中山神社(津山市)半田(美甘村)のケヤキとともに県下三指に数えられる巨樹である。
境内の木々
1 位置 | 苫田郡富村大字富西谷 |
2 指定年月日 | 昭和59年(1984年)3月23日 |
3 特徴 | 布施神社は、古くは三塚の壇の山頂にあり、永享年間(1429~1440年)に現在地に移され、富ノ庄(現在の富村、奥津町、上齋原村、鏡野町の一部)の総鎮守であったと伝えられています。 社殿は東西に並立し、東宮には素盞嗚尊、西宮には奇稲田姫命が祀られており、周りの社叢には樹齢500~600年のケヤキ、カヤ、スギの巨木をはじめ、ウラジロガシ、シラカシ、ヤブツバキなど60余種の樹木が混生しています。 特に、ヤマフジの古木やヤブツバキの群生のほか北部地域では珍しいヤブコウジの群生もみられ、狭いながらも自然度の高い樹林を形成しています。 |
4 行為の制限 | 現状を変更し、又はその保存に影響を及ぼす行為をしようとするときは、あらかじめ届出が必要です。 |
像
和気清麻呂公…?
多数の文化財標
由緒
祭神 | 素盞嗚尊(本殿)奇稲田媛命(相殿) |
神紋 | 抱柏葉と三つ巴 |
祭日 | お田植祭 五月五日 大祭礼 十月九日 霜月祭 十二月五日 |
社殿 | 御霊代を中心に本殿と相殿が並立し、両社とも方一間の春日造。妻側に庇を付け、正面は四つ折り唐戸を有し、妻、虹梁など組物の装飾は豪華である。繁たる木を用い、屋根は銅板葺き、勝男木、千木をのせた立派なお社で嘉永六年(一八五三)四月再建立された。 |
古くは布施大明神と呼ばれ、富の庄二十四か村の総鎮守で社領三町八反を有していた。中世には京都仁和寺の社領でもあった。 | |
お田植祭 | 五穀豊穣を祈る古来からの伝統行事でいまも氏子により伝承される。昭和三十七年四月、県の重要民俗文化財に指定されている。 |
伝説 | 古代、白河山の宮住に鎮座されていた。ある時、里へ御幸の砌、途中で大暴風雨に遭遇、水無谷より漂流した。そして、柚の木につかまりようやくたどり着かれた場所が三塚の壇のふもとであった。邑人は三塚の壇に祠を建てて祭儀していたが、この下を通ると災厄があり、永享年中(一四二九~四〇)現在の平地に社殿を遷したと伝えられる。 |
由緒 | 鎮座地は富西谷宮原の平地、旧社地は三塚の壇にあり、永享年中(1429~1440)に現在地に移される。 古くは登美荘二十四カ村の総鎮守で布施大明神とも呼ばれ、三町八反の社領を持っていたが、天正11年(1583)宇喜多秀家に没収されたと伝えられている。中世には京都仁和寺の社領でもあった。社格は旧郷社である。 現在の社殿は嘉永六年(1853)四月に再建立され、天保・嘉永時代の神社建築様式が用いられている。 東西に社殿が並立し、祭神は東の宮に素盞嗚尊、西の宮に奇稲田姫命の夫婦神が祀ってある。 両社とも一間社、妻入り、前方入母屋造り、社殿正面に向拝が付き、背面は切り妻、向拝は海老虹梁が用いられ木鼻や蟇股に見事な彫刻装飾がされている。二軒本繁垂木で屋根は銅板葺き、棟に千木と勝男木をのせた立派なお社である。年三度の祭りが行われる。 |
御祭神 | 本殿(東の宮) 素盞嗚尊 相殿(西の宮) 奇稲田姫命 |
神紋 | 抱柏葉と三つ巴 |
祭日 | お田植祭 5月5日 午後1時半 お田植行事 秋祭り(大祭礼) 10月の第二日曜日(以前は10月9日) 霜月祭 12月5日(4日は宵宮) 午前11時 頭屋渡しの儀 その他 注連立祭 4月3日 当屋主の家に神の分霊を祀り込む祭 (神社の行事は二頭屋(以前は八頭屋)が一年交替で一年間の神社行事を執り行い、頭屋から選ばれた当屋主は一年間神の分霊をお祀りする。) |
伝説 | ・両社殿の中央に大きな石が祀ってあり、この石の下には神宝を埋めてあると言い伝えられ、いかなるときもこの石を動かすことはできないと古文書に載せている。 ・古代、白河山の宮住に鎮座されていた。ある時、里へ御幸の砌、途中で大暴風雨に遭遇、水無谷より漂流した。そして柚子の木につかまりようやく無事であったが、柚子の木の刺で失明したので、それ以後この地域では柚子の木は植えられないこととなっている。たどり着かれた場所が三塚の壇のふもとで、邑人はこの三塚の壇に祠を建て祭儀していたが、この下を通ると災厄があり、永享年中(1429~40)現在の平地に社殿を遷したと伝えられている。 |
創建時期は不詳。
『日本歴史地名大系』は『作陽誌』の記述を引き、「昔、藤宮王が美作国に封ぜられ白河山に住したので、その地を宮住谷というが、ある日、王が遊山中、暴雨にあい山峡に濁流があふれ王は溺死した。邑人は祠を建てその霊を祀った。これが布施社の起りで、永享年中(1429~41)今の地に遷座したという」としています。
これがいつ頃なのかはわかりませんが、鏡野町中谷の中谷神社(位置)には「藤宮の鰐口」というもの(神宝、町指定文化財)が存在し、それには「百済源治作 大願主 藤宮 文中三甲寅天 三月吉日」の銘があるとのこと。『日本歴史地名大系』の中谷村項では「文中3年(1374)の美作権守は藤原公頼なので、藤宮を公頼とする説がある」とします(この美作権守藤原公頼なる人物については全くもって不明)。
また大村(現・鏡野町大)には、中谷村に住した藤宮王が狩猟に来てそのまま居住したため、王が住したことにちなんで王村と称した(後に大村に改称)という伝承があるそうです。
しかし『作陽誌』の伝承が事実かつ藤宮王=鰐口に銘が残る藤宮なら、当社の創建はどんなに早くても室町時代となってしまいます。伝承の藤宮王は藤宮の名を後付されたのか、あるいは藤宮が藤宮王の名にあやかったのか。『明治神社誌料』は『日本歴史地名大系』と同様の創建伝承を記しつつ、王の名は「某王」としています。
境内由緒書だと「白河山の宮住に鎮座されていた」としか書かれておらず、伝承の実態は不明。現在の祭神に藤宮王はみえないので、現在の由緒としては現祭神が古くは白河山の宮住に鎮座した、としているのかも。
白河山がどの山かも不明ですが、付近に白賀渓谷(位置)というのがあるのでその辺りではないでしょうか(白河山=白賀山?)。
文徳実録 天安元年(857)2月己丑(21日)条に、美作国から白鹿、常陸国から木連理の献上があったことを以って改元したとあります。この白鹿が現われたのが白賀渓谷だという伝えがあるそうです。
『日本歴史地名大系』の記述だと藤宮王が溺死し何処かに祀られ、永享年間に現地へ遷座とありますが(『作陽誌』の記述そのまま?)、境内の由緒書では祭神は漂流し失明するも三塚の壇のふもとに流れ着いたので、村人は三塚の壇に祠を建て祀ったとされます。
由緒書の記述だと木に捕まったり失明したりと祭神は生きている人のように読めます。現人神だったのか、御神体が木に引っかかったり傷ついたりしたのを喩えているのか不明。
三塚の壇というのは当社東の丘陵(位置)で、岡の乢城という山城もあったようです(神社遷座後の築城?)。
その後、下を通ると災厄が起こるため永享年中(1429~40)に現在地へ遷座。
大治3年(1128)12月の平正頼譲状(仁和寺文書)に美作国布施社の名が現われます。
これを当社とする説があります(真庭市蒜山中福田の福田神社にあてる説、式内八社の総称とする説もあり)。
この時から仁和寺領となり、その後も仁和寺文書にみえるようですが(未確認)、応永7年(1400)を最後にみえなくなります。
布施社の終見について、社地域振興協議会のサイトにある年表では「隣接する富美庄(鏡野町)に年貢を奪われる」としています。これは同サイトが布施社=式内八社の総称という解釈をとっているからだと思われます(当社が布施社なら、富美庄に鎮座しているのに富美庄に年貢を奪われるというのはよくわからないので。仁和寺文書も未確認で当時の情勢も全く知らないので見当違いかもしれませんが)。
wikipediaの「社(真庭市)」項はこれについて「富美庄の領主、相国寺が布施社の年貢を奪われる事件が起こる。訴えるも相国寺の開基は足利義満。室町幕府の支持があったため、訴えは退けられた」としていますが、「相国寺に布施社の年貢を奪われる事件」なのでは…。
明治5年(『岡山県神社誌』)あるいは明治6年(『明治神社誌料』)郷社列格。
富東谷・富西谷・富仲間・大・楠の五ヵ村の氏神で、同時に登美庄(富美庄)の富、久田・奥津、中谷、才原の総鎮守だというのですが、全て合併して鏡野町となった現在も氏子範囲は同じなのでしょうか。
また、社名の表記が「布施」と「布勢」の2通り見受けられます。
法人名としては「布勢神社」で、『平成祭データ』や『明治神社誌料』『岡山県神社誌』なども「布勢」なのですが、『日本歴史地名大系』や鏡野町のサイトでは「布施」。境内にはどちらの表記も見られます。
祭神は素盞嗚尊、櫛稲田媛命。厳密には主神が素盞嗚尊で相殿神が櫛稲田媛命だそうなのですが、各種資料とも二柱を主神としています。
『日本歴史地名大系』が引く『作陽誌』の記述では藤宮王が祭神であったともとれます。
多数の合祀神は明治以降の合祀によるものと思われますが、その詳細を記した資料が見当たらないので不明。
明治42年に横見神社を合祀。
この横見神社が延喜式神名帳にみえる「美作国大庭郡 横見神社」の論社とされています。
かつては「字重友639-1」に鎮座していたといいます。『富村史』曰く「式内十一座ノ内と「美作風土記」にある」というのですが、美作風土記というのは偽書の類でしょうか…(美作国風土記は逸文しか残らず、横見神社の記述はない。総国風土記にでも記載があるのでしょうか?)。
跡地ではないか、という場所はあるにはあるのですが、遺構などはありませんでした。そもそも確証がないので違うかもしれません。
『式内社の研究』には、当社の境内社になっているようなことが書かれていた記憶があります(うろ覚え)。
御朱印
御朱印の有無は不明。
アクセス
津山の院庄の辺りから国道179号をしばらく北上し、奥津湖の横を過ぎた辺り(位置)で左折し、県道56号を西へ。6kmほど走ると富西谷の集落に出ます。郵便局や公民館を過ぎたあたり(位置)で右折すると、神社前に出ます。
岡山県神社庁のサイトでは駐車場なしとなっています。が、鳥居前の道を右手に行くと境内に入れる道があり、社務所脇あたりに停められます。
ただ道が狭いので、近くの富振興センターの駐車場(位置)に停めさせてもらうのがいいと思います(鏡野町の観光案内でも、一般車20台大型車2台という駐車場表示なので、振興センターに停めていいということではないかと)。
神社概要
社名 | 布施神社(ふせじんじゃ) |
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別称? | 布勢神社 |
旧称 | 布施両宮大明神 明神様 大宮 布勢大宮神社 |
住所 | 岡山県苫田郡鏡野町富西谷220 |
祭神 | 素盞嗚命 櫛稲田媛命 |
合祀 | 布津主命 武甕槌命 大山祇命 宇賀魂命 大山祇命和魂 大国主命 大山祇命荒魂 手摩乳神 脚摩乳神 賀夜奈流美命 建御名方命 下照媛命 清之湯山主狭漏彦八島篠神 草野比売命 大穴牟遅命 |
社格等 | 式内社 美作国大庭郡 横見神社(合祀) 旧郷社 |
札所等 | – |
御朱印 | 不明 |
御朱印帳 | – |
駐車場 | なし |
公式Webサイト | – |
備考 | 往古は白河山の宮住、次いで三塚の壇に鎮座 |
参考文献
- 「布施神社」ほか, 『日本歴史地名大系』(データベース「JapanKnowledge」)
- 「布勢神社」, 神社本庁教学研究所研究室編『平成「祭」データ(CD-ROM)』全国神社祭祀祭礼総合調査本庁委員会, 1995
- 岡山県神社庁編『岡山県神社誌』岡山県神社庁, 1981
- 明治神社誌料編纂所編『府県郷社明治神社誌料 下巻』明治神社誌料編纂所, 1912(国会図書館デジタルコレクション 61-62コマ)