横見神社跡。
鏡野町富西谷、布施神社に合祀された式内社 横見神社の論社とされる神社の跡地(?)。
跡地
県道56号から南に入っていきます
跡地とされる場所は写真奥右手辺り。
途中の道沿いにやたらと粗大ごみが捨てられています
不法投棄かと思いましたが奥にある民家の敷地内まで及んでいました。ゴミ屋敷なのか…
その先に左手に上る脇道
どうもこの辺りが横見神社の旧地であるようです。
下記サイトにある、横見神社の旧跡地(旧神主家長田氏の邸宅跡)の写真を参考にして探したところ見つけたのがここでした(2枚目がほぼ同じアングルで撮ったもの)。
脇道の上に廃屋(?)がありました
『富村史』に、横見神社跡の所在地は「字重友六三九-一」とあります。
この家のある住所が「鏡野町富西谷639」。富村が旧鏡野町・奥津町・上齋原村と合併してできたのが現鏡野町なので、「(富村)字重友639-1」は「鏡野町富西谷639-1」にあたると思われます(重友の字名が公的な資料や地図にないため確証はありません)。あるいはこれが「旧神主家長田氏の邸宅跡」なのでしょうか。
家の左手奥辺り
狭いですが平坦地があります。周囲が籔化しているのですが、昔はもっと広かったのかもしれません。
県道の側、つまり入ってきた方を向いて撮っていますが、奥(南側)にお墓があってなんとなく撮るのが憚られたためです。
由緒
由緒不詳。
延喜式神名帳にみえる「美作国大庭郡 横見神社」を当社にあてる説があります。
『大日本史』によれば、現・真庭市社の横見神社はかつて大庭郷富西谷村に鎮座していたといいます。
大庭郷は現在の真庭市大庭、目木辺りの一帯だと推定されており、富西谷は苫西郡であったため矛盾します。
しかし、平安時代~中世の布施社、布施庄を富西谷の布施神社とそれを中心とする地域に比定する説があり、これに従えば布施庄の前身と思われる布勢郷も同地域に比定されます。この説では、富村地域はかつて大庭郡に属していたが、のちに苫西郡に所属したと考えるようで、和名抄記載の苫西郡の諸郷が吉井川水系にあるのに対し、富村は旭川水系にあり、地理的に大庭郡と一体的関係にあることを傍証としているとのこと(『日本歴史地名大系』「布勢郷」項)。
この説をとれば当地が大庭郡であったということができます。そして現在は真庭市社にまとまって鎮座する大庭郡の式内社ですが、かつては大庭郡各郷に散財していたともいわれます。これらを繋げると横見神社が元は富西谷に鎮座していた、という説の矛盾は一応解消できます。
ただそれ以外に強い根拠があるわけでもありません。
『富村史』は『美作風土記』に富西谷村の横見神社が式内十一座ノ内とある旨記していますが、『美作風土記』がなんなのか不明(『美作国風土記』は逸文のみ現存、横見神社の記述なし)。
同書は、当社神輿は荒れ神輿として名をあげていた旨が『美作鏡』にみえることも記しています。
明治42年布施神社に合祀。
前述の通り、『富村史』によれば旧鎮座地は「字重友639-1」とのことですが、地図も写真も掲載がなく、跡地の状態の記述もないため、本記事であげている写真の場所が横見神社旧地であるのかの確たる証拠はありません。
御朱印
跡地なのでないと思いますが…
アクセス
富西谷の県道56号の記念碑のあるところ(位置)を南に入り、突き当りを右手、次の分岐を左と行くと、記事中の「左手に上る脇道」があります。
駐車場はありません。
神社概要
社名 | 横見神社〔旧地?〕(よこみじんじゃ) |
---|---|
通称 | – |
旧称 | – |
住所 | 岡山県苫田郡鏡野町富西谷639-1(?) |
祭神 | |
社格等 | 式内社 美作国大庭郡 横見神社(旧地) 旧社格不詳 |
札所等 | – |
御朱印 | 不明(おそらくなし) |
御朱印帳 | – |
駐車場 | なし |
公式Webサイト | – |
備考 | 明治42年布施神社に合祀 |
参考文献
- 「富西谷村」, 『日本歴史地名大系』(データベース「JapanKnowledge」)
- 富村史編纂委員会編『富村史』 岡山県苫田郡富村, 1989