大膳神社。
佐渡国分寺の北700mほど、竹田に鎮座。
式内社 御食神社の論社。
境内
社頭(表参道側)
鳥居
なぜか島木がありません。近くに落ちてもいなかったし、どこへ?
社号標
参道
手水舎
二の鳥居
社殿
拝殿
扁額
後ろにあるのは弓矢?
本殿覆屋
境内社等
境内社
『式内社調査報告』や『日本歴史地名大系』は金刀毘羅宮としますが、佐渡神社誌には稲荷神社天満宮合殿とあります。さてどちらでしょうか。
能舞台
能舞台内部
ちなみにJR東日本の大人の休日倶楽部のCM、「佐渡の能篇」でこの能舞台が登場しています。
佐渡大膳神社能舞台
素朴で美しい佐渡能舞台の代表的な遺例で、弘化3年(1846)に再建されました。
舞台は寄棟造茅葺で、本舞台と後座からなり、鏡板には日輪と松の絵、天井には演目「道成寺」で使用する鐘穴があります。常設の地謡座は近年の増築によるもので、鏡の間はないものの、複式の橋掛りに裏通路が附属し、舞台裏の楽屋へと通じています。
演能は現在も盛んで、4月18日の祭礼には奉納能、6月には能と鷺流狂言(県指定無形文化財)が薪能として上演されています。
蔵?
由緒
左殿 日野資朝卿
正殿 御食津大神
右殿 大膳坊賢榮
正殿 御食津大神は農業食饌の祖神豊穣の守護神で古来当地のうぶすな神として尊崇敬慕されている
その勧請創始については諸説があり一説には式内社当国九社の一つとも言われるがなお詳かではない
正中の変の折日野資朝卿当国に配流され一子阿新丸は父子対面を求めて遙々都から下向したにも拘らず遂に許されぬ儘父刑死の無念を霽らすべく城主本間山城守の館に潜入しその弟三郎を斬って本懐を果した
この間大膳坊賢榮は真の敵は鎌倉なりと阿新丸を諭したがその孝心の已み難きに感動してこれを扶け更に迫り来る討手窮追の危機の中に阿新丸を守護し無事虎口を脱して帰京せしめた
山城守は激怒し大膳坊を処刑したがその後大いに悔い畏れて日野資朝卿と大膳坊を当社に合祀してその霊を崇め奉ったと伝えられている
大膳神社
大膳神社は、御食津神を正殿に、日野資朝を左殿に、大膳坊を右殿に祀る。延喜式内社「御食神社」は、この社ではないかとする説もある。正中二年日野中納言資朝佐渡流罪、元徳二年、資朝の子阿新丸が渡島する。
地頭本間山城守は対面を許さず、資朝を処刑、阿新丸は山城守の太刀取り、本間三郎を討ち帰京する。
阿新丸の逃亡を助けた山伏大膳坊は処刑される。城主が大膳坊の怨霊を鎮めるために勧進した社と伝える。境内に能舞台を有する。
大膳神社
祭神は農業食饌の祖神である御食津神。左右に日野資朝卿・山伏大膳坊を合祀する。勧請創始年代は不明であるが、社名については社伝では正中の変で佐渡に流罪・処刑された日野資朝の一子阿新丸が父の仇を討ち逃れる時、これを扶けて無事京都に送り届けた山伏大膳坊が檀風城主本間山城入道の激怒にふれ処刑された。その後山城入道は大いに悔い畏れて日野資朝と大膳坊を当社に合祀してその霊を崇め奉ったためという。
しかしこの社は延喜式内社当国九社の一つ「御食神社」でなかったかとする説もある。
古代、官人の給食を司る役所である「大膳の司所」の祭神が御食津神であることから、後世大膳神社となったものか。
慶長検地帳に「御食宮免」という200苅余の神田が当社分として記載されている。
創建時期は不詳。
延喜5年(905)とも正慶元年(1332)とも。
延喜式神名帳にみえる「佐渡国雑太郡 御食神社」の論社。
御食津神は宮中の大膳職三祭神の一座であるため、大膳大明神と称され、現社名になったとも言われます。
元亨4年(1324)、後醍醐天皇による討幕計画が事前に発覚(正中の変)、首謀者の一人日野資朝は佐渡配流となります。
聖護院宮に仕えた僧大膳坊賢栄は、資朝の子阿新丸(くまわかまる)を京都から当地に案内、父に会わせようとします。
しかし雑太城主本間山城守はこれを許さず、資朝を処刑。
阿新丸は賢栄に助けられ、本間三郎(本間山城守の子とも弟とも)を討ち、帰京。
これに激怒した本間山城守は賢栄を処刑(梟首とも石子詰とも)。
しかし種々の祟りがあったため、資朝と賢栄を当社に合祀(あるいはこれが創建とも→正慶元年説)。
阿新丸=日野邦光の敵討ちの話は太平記にも載っており有名です。
社名は、祭神の一柱となった大膳坊賢栄の名によるところも大きいのかもしれません。
『式内社調査報告』によれば、中世末までは、当社の北350m程にある竹田橋バス停付近に修験大宗院が住んでおり、その後地頭が滅亡、領主の庇護がなくなると元より当地にあった御食神社が衰微し、大宗院はここに入ったとされます。
同書は神社横に「ダイゼンバヤン」の呼称(地名?)がありそこから修験大膳坊の名に繋がり太平記の物語が生まれたと推測していますが、そもそも「ダイゼンバヤン」って何でしょう。「ダイゼンバヤシ」の誤植?(かつて南西一帯に大膳林があった、との記述もあるので誤植感が強い)
「資朝の物語が生まれるのは近世になってから」とも書いていますが、太平記は14世紀後半の成立と見られているので、これもよくわかりません。
大宗院は明治維新後、当社神職となったとのこと。
明治6年(1873)村社列格。
社名の読みについて。
『平成祭データ』や、新潟県神社庁のサイト等で見ると、「おおぜん」とかなが振られています。
しかし『日本歴史地名大系』では「だいぜん」、境内能舞台の案内も「だいぜん」。さらに神社に電話した際も「だいぜんじんじゃです」とおっしゃっていました。
通称が「だいぜんじんじゃ」で、公的には「おおぜんじんじゃ」なのかも。あるいは神社庁側が読みを誤っているのかしら。
御朱印
御朱印はあります。
社殿左後方の宮司さん宅で拝受可。
事前連絡があった方がいいかも。
アクセス
海の方からなら、新町交差点(位置)で国道350号から県道65号に入って北東に進み、2kmほど先(位置)で右折し県道190号へ入ります。
300mほど行くと、標柱、案内板、バス停など色々立っているところがあります(位置)。
写真で見るとこういうところ
ここを右折して進むと小さいですが駐車場があります。
神社概要
社名 | 大膳神社(だいぜんじんじゃ/おおぜんじんじゃ) |
---|---|
通称 | – |
旧称 | 大膳大明神 |
住所 | 新潟県佐渡市竹田561 |
祭神 | 御食津神(正殿) 日野資朝卿(左殿) 大膳坊賢榮(右殿) |
社格等 | 式内社 佐渡国雑太郡 御食神社 旧村社 |
札所等 | – |
御朱印 | あり |
御朱印帳 | – |
駐車場 | あり |
公式Webサイト | – |
備考 | – |
参考文献
- 「大膳神社」, 『日本歴史地名大系』(データベース「JapanKnowledge」)
- 「大膳神社」, 神社本庁教学研究所研究室編『平成「祭」データ(CD-ROM)』全国神社祭祀祭礼総合調査本庁委員会, 1995
- 式内社研究会編『式内社調査報告 第十七巻 北陸道3』皇學館大学出版部, 1987
- 新潟県神職会佐渡支部編『佐渡神社誌』新潟県神職会佐渡支部, 1926(国会図書館デジタルコレクション 76-77コマ)