天石門別安国玉主天神社。
越知町黒瀬の北東、上八川川沿いに鎮座。
式内社 天石門別安国玉主天神社の論社。
境内
社頭
鳥居
扁額
狛犬
手水鉢
境内には巨木が多数
社前を流れる上八川川
社前の上八川川に架かる橋
国道から橋を渡り右手奥が神社。
なお、橋の上に岩肌が露出しているのが見えますが、南国土佐へ来てみいやさんによるとこれは赤嶽という磐座であるようです。
赤嶽
社殿
拝殿
扁額
本殿
由緒
創建時期は不詳。
由緒も不詳。
延喜式神名帳にみえる「土佐国吾川郡 天石門別安国玉主天神社」を当社に比定する説があります。
古来、式内 天石門別安国玉主天神社については、伊野町(現・いの町)神谷の神社がそれだとされていましたが、『南路志』が当社を式社とする説を提唱しました。
元々、神谷の神社が式社に比定された理由は、神主らが「天野岩戸分安国玉之天神社 天文九年庚子霜月八日 勝賀瀬越後造立之」と書かれた棟札を発見したことなのですが、『南路志』は「神谷村よりは黒瀬村は川上也、故に洪水之節当村之岩戸大明神の棟札流失して、神谷之神母社之辺へ流れ掛り有之を、神主拾ひて、棟札に天野岩戸分安国玉之天神と書記有るより、無名の社江此神号を称し奉りしなるべし、当社の岩戸大明神旧号也、神谷之社は棟札によりて称号し奉る也」とし、棟札は洪水によって黒瀬から神谷に流れたものだとしました。
明治4年の社寺改正決議書(全文下掲)により、上記の漂着説が正式に認められ、当社は式内社、神谷の神社は新宮とされました。
明治5年郷社列格。
祭神は天手力男命。天石門別神を天手力男神と同神とする説もあるので、それゆえの祭神でしょうか。
明治四年未正月社寺改正決議書
天岩門別安國玉主天神社、但延喜式神名帳ニ所載當國吾川郡式社、右者式社考ニ神ノ谷村ト相定有之候得共、此度深詮議方仕候所、式社考之趣全ク相違ニテ右神社者役場社牒ニ所謂黒瀬村宮ノ奈路鎭座天岩戸大明神ト相見候、神社ニ有之不而己、右村里ニ相傳候話説等頗ル著然タル事ニテ、且又神徳之高大ナル實ニ筆紙ニモ難盡儀ニ御座候、然ルニ神谷村ト相定候故ハ、根元元祿年中波川村神職壹岐ト申者、神ノ谷杉ノ鼻ト申地ニオイテ、右神名有之棟札ヲ拾ヒ得候ヨリ則神母林ト申林中ニ有之小祠ヲトラヘ押シテ右神社ト申觸候事ニテ、元來其棟札ト申ハ黒瀬村神社大鴻水之節、宮殿破壞其時流失致候分、自然右之地ヘ漂著致候モノ歟、將又神職壹岐ト申者ノ奸計ヨリ出候儀ニテモ可有之哉、兎ニ角神谷村之儀ハ斷然全クノ僞社ニ御座候云々トアリテ、時ノ縣ノ社寺改正係ノ指令ニ式社吾川郡黒瀬村、天岩門別安國玉主天神社、但舊來神谷村ニ有之神社ヲ以右式社ニ相當候所此度御詮議ノ上、右村地名宮ノ奈路ニ座ス神社ヲ同式社ニ被仰付候、右之通改正被仰付候、明治四年辛未二月社寺改正係。
御朱印
御朱印の有無は不明。
アクセス
高知市から国道194号をひたすら西へ。
起点の県庁前交差点(位置)から30kmほど行くと、左手に赤い橋(位置、境内項に載せたもの)があるので渡ります。
橋を渡った先から右手に進むと、突き当りに神社。
駐車場はありませんが、境内手前がそこそこ広く、川遊びや釣りの人達が停めていたのでそれに倣いました。
神社概要
社名 | 天石門別安国玉主天神社(あまのいわとわけやすくにたまぬしてんじんじゃ) |
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別称 | 天石門別安国玉主天神宮 天岩戸大明神 戸別様 |
旧称 | – |
住所 | 高知県高岡郡越知町黒瀬1565・1566 |
祭神 | 天手力男命 |
社格等 | 式内社 土佐国吾川郡 天石門別安国玉主天神社 旧郷社 |
札所等 | – |
御朱印 | 不明 |
御朱印帳 | – |
駐車場 | なし |
公式Webサイト | – |
備考 | – |
参考文献
- 「天石門別安国玉主天神宮」, 『日本歴史地名大系』(データベース「JapanKnowledge」)
- 「天石門別安国玉主天神社」, 神社本庁教学研究所研究室編『平成「祭」データ(CD-ROM)』全国神社祭祀祭礼総合調査本庁委員会, 1995
- 式内社研究会編『式内社調査報告 第二十三巻 南海道』皇學館大学出版部, 1987
- 明治神社誌料編纂所編『府県郷社明治神社誌料 下巻』明治神社誌料編纂所, 1912(国会図書館デジタルコレクション 457-458コマ)