高知県護国神社(高知市吸江)

高知県護国神社。

高知市吸江、五台山の麓に鎮座。

旧内務大臣指定護国神社で、現在は神社本庁の別表神社。

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境内

海軍の塔

駐車場の奥、境内へ入るところにあります。

 

社号標

 

境内見取り図

 

参道入口

 

鳥居

 

 

狛犬

 

参道の石段

 

手水舎

 

手水鉢

 

階段を登りきると開けた境内

正に護国神社といった感じ。

社殿

拝殿

 

扁額

 

本殿

境内社

開拓神社

元満州開拓民殉難者二千余柱を祀る神社。参道階段の途中にあります。

 

開拓神社鳥居と扁額

 

開拓神社社号標

 

満蒙開拓神社の由来

当神社の祭神は、昭和七年、日本国政府が祖国の安泰と東洋平和への重大国家事業として満州建国確立せんとして満蒙開拓移民を二十カ年で五百万人の入植計画を立て、敗戦の昭和二十年に入植者は三十万人に達した。本県は市町村農民を母体とする分村計画を立て、三十四団、六千有余人が満州に送り出された。

しかるに、太平洋戦争が勃発し、昭和二十年八月九日未明、ソ連軍は我国との不可侵条約を一方的に破棄し、大軍を集結して侵攻を開始し、全満州は大混乱となった。既に開拓団青壮年層の多くは軍に動員され、残る老幼婦女子はソ連軍の暴挙や現地住民の暴動に逃げまどった。青少年義勇隊は、未踏の山野に身を挺して犠牲を惜しまず、救援に奔走するも今や如何ともなし難く、ソ連に連行される者や自決する者少なからず、修羅の巷と化した各団は、ソ連軍や暴民から逃れんと蟻道にも等しき隊伍を組み、道なき山野に迷い、野宿や、日本人の廃校校舎跡にて露命をつなぎ、生地獄を彷徨して寒さと飢餓や病魔に襲われ、無念にも本県出身二千有余名の者が尊い生命を失った。ここにその殉難犠牲者を祭るものである。

かかる史上かつて類なき殉難犠牲者を犬死にさせてはならぬと昭和三十一年生還者一同相計り、この緑の丘に社殿と史歴を建立し、毎年祭祀を続けること四十回、殉難の年から数えて五十年の今日を記念し、再びかかる悲劇が起らぬよう明日への平和を祈り、玉垣に同志の在りし日の団名を刻み、御霊安らけく永遠に守護せんとするものである。

 

軍艦香椎顕彰之碑

 

軍艦香椎顕彰之碑

軍艦香椎は、昭和十六年七月十五日竣工直ちに南遣艦隊旗艦として、南部仏印に進駐。大東亜戦争開始に当り、山下奉文陸軍大将(大豊町出身)麾下の大船団を護衛し、マレー上陸作戦を支援し、シンガポール攻略の端緒を開く。以後南方ルートの広大なる海域の作戦に従事す。昭和二十年一月十二日第一〇一戦隊の旗艦として航空燃料等の輸送船団十隻を護衛し帰国途次仏印キノン沖で、米国機動艦隊の艦載機延三〇〇有余の反復攻撃を受け、船団は悉く撃沈最後に香椎は奮戦激闘するも、中部と後部に魚雷命中爆発轟沈、司令官渋谷紫郎中将、艦長松村翠少将(南国市出身)以下力尽きて艦と運命を共にせし者便乗者を含め一千余名、生存者は僅か十七名に過ぎず、その死しても止まざる殉国の気魄は、米軍をして心胆を寒からしめ、深く感銘を与え敢えて戦史に特筆せり。ここに顕彰の碑を建立し、高知県出身者三十三名の英霊の勇戦と武勲を讃え、祖国日本の興隆と永遠の平和を祈念する。

 

歩兵第二百三十六聯隊(鯨部隊)戦没者慰霊塔

 

歩兵第六十ニ連隊第三大隊戦友の塔

 

騎兵戦友之塔騎兵第十一聯隊解散之地

 

憲兵戦友之塔

 

歩兵第百四十四聯隊ビルマ方面戦友の塔

 

フィリッピン戦没戦友の塔(前)、南海忠烈碑(維新志士顕彰碑)(奥)

 

堺事件烈士殉難碑(左)、硫黄島慰霊碑(中央)、慰霊碑(右、見取り図に記載なく詳細不明)

 

硫黄島慰霊碑

一九四五年二月十六日栗林兵団約二万一千ハ米艦船八百余隻ニ支援セラレタル上陸軍六万一千ヲ遊撃シ昼夜別ナキ砲爆撃下「決死」「敢闘」ヲ合言葉トシ奮戦苦闘セシモ弾尽キ水涸レ三月十七日ノ訣別電報ヲ最後ニ同月二十六日決戦ヲ敢行セリ

而モ尚延ベ十八粁ニ及ブ焦熱ノ地下壕ニ籠リ抗戦ヲ続クルコト三ヶ月遂ニ六月ニ至リテ玉砕ス米軍ノ死傷二万八千余第二次大戦史上攻撃軍ノ被害防禦軍ノソレヲ上回リタルハ硫黄島ノ戦ヒノミナルヲ見ルモソノ激闘推シテ知ルベシ

コノ戦ヒニ散華セラレタル本県戦歿者慰霊ノ為島ノ砂ヲ用ヒテコノ碑ヲ建ツ

コレ遺族及ビ県支部会員並ビニ県民ノ寄進ヲ以ッテス

 

ニューギニア方面戦友の塔

 

満州開拓民殉難之碑

 

独立歩兵第四百十二大隊慰霊碑

 

シベリア満蒙方面抑留戦没者慰霊碑

 

予科練之碑

 

予科練之碑

海軍飛行予科練習生制度は時代の要請に応えて昭和五年に創設され同二十年戦争終結までの僅々十五年余に過ぎない足跡であったがこの十五歳前後の少年達に求められたものは搭乗員としての基礎教育を人間形成であった そのため鉄石の訓練にもよく耐えて自らを育てていった そして日中戦争及び太平洋戦争には名実共に軍航空戦力の中核として戦い未曾有の国難に直面するや神風特別攻撃隊員となって一機一艦必殺の体当たり攻撃を敢行し愛する祖国と同胞の安泰のために短い青春を潔く捧げ名をも報いをも求めず散華していったのである この崇高なる献身を忘れる事なく永遠の世界平和を願い今後再び戦争の惨禍を繰り返さないことを強く望み戦後四十余年を経てともすれば歴史の片隅に埋もれ風化しつつある予科練同窓の遺徳を後世に伝承するためにこの碑を建つ

由緒

明治元年11月、藩主山内豊範が藩校致道館で戊辰戦争の戦没者105名の慰霊祭を行い、翌2年に五台山吸江の大島岬に社殿を建立、大島岬神社と称したのが始まり。

 

明治8年に招魂社と改称。

昭和14年3月に高知県招魂社、同年4月に高知県護国神社と改称。

 

第二次大戦後には旧称大島岬神社を称しますが、昭和34年に現社名に復し、現在に至ります。

また、昭和41年(1966)に別表神社に指定されています。

 

当社は武市半平太、坂本龍馬、中岡慎太郎、吉村寅太郎を明治維新四天王として祀っています。

また、「人斬り以蔵」と呼ばれた岡田以蔵も、当初は祀られていなかったものの、後に祭神に列したそう(時期は不明)。以蔵については、明治政府が岡田以蔵の顕彰を不許可とした史料が当社から見つかっているそうです。

幕末や明治維新が好きな人には興味深いところかも。

御朱印

御朱印はあります。

社務所で拝受可。

アクセス

五台山の麓、国分川沿いにあります。川沿いとはいえ、もう河口付近で湾に面しているといった方がしっくりきます。

川沿いの道を走っていると保育園と、奥にお城のような教会のような建物が見えます(結婚式場らしい)。その横に護国神社の駐車場があります。看板も出てるし、だだっ広いのですぐわかります。

保育園のすぐ南あたり(位置)に駐車場入口。

神社概要

社名高知県護国神社(こうちけんごこくじんじゃ)
通称
旧称大島岬神社→招魂社→高知県招魂社
住所高知県高知市吸江213
祭神

明治維新志士四天王武市半平太命、坂本龍馬命、中岡慎太郎命、吉村虎太郎命をはじめ、東征の陣歿藩士

日清日露、大東亜戦争にあたって国家公共のために殉じた高知県出身並びに縁故ある殉国の英霊、4萬壱千7百余柱

社格等

旧内務大臣指定護国神社

別表神社

札所等
御朱印あり
御朱印帳
駐車場あり
公式Webサイトhttp://www.kochikengokoku.jp/
備考

参考文献

  • 「高知県護国神社」, 神社本庁教学研究所研究室編『平成「祭」データ(CD-ROM)』全国神社祭祀祭礼総合調査本庁委員会, 1995