八桙神社。
阿南市長生町宮内に鎮座。
式内社 八桙神社に比定される神社。
境内
一の鳥居
社頭から300mくらいのところにあります。
一の鳥居そばの御旅所
参道
社頭から県道24号にぶつかるまで、1kmほど直線が伸びています。
国指定重要文化財八桙神社 の標
当社の国指定重文は、紙本墨書二品家政所下文(付紺紙金泥法華経八巻)、木造大己貴命立像一体、木造男神立像一体。
二の鳥居
扁額
手水鉢
三の鳥居
狛犬
石段上の手水舎
社殿
拝殿
扁額
多分神饌殿
本殿
屋根が損壊しているようでブルーシートが掛けられていました。
境内社等
石段下に奥山神社
左:大将軍神社、右:山神社
左:神戸神社、右:天神社
社名不詳の石祠や石積み
社日塔
宝物殿
『式内社調査報告』『徳島県神社誌』を参照するに神輿庫・舞台・神馬舎があり、この2棟はそのどれかだと思うのですが…
由緒
一、八桙神社は上古長ノ国造の祖神として竹原庄要津に鎮座す 長ノ国は北方粟ノ国と相対して阿波民族の源を形成す
一、承平四年朱雀天皇の御宇歌聖紀貫之土佐守の任満ちて上洛の途上南海水道にさしかかりし時豪勢なる海賊に出逢い航行不能となる 直ちに那賀川河口に碇泊西潟なる竹原庄の要津に松壖栢城高く聳へ立ち威光海上を圧する八桙大明神に祈願奉幣す
忽ち「霊験早印下之泥」海上無恙上洛せりとあり
一、長寛元年九月二十五日関白左大臣左大将正二位藤原基実卿後白河上皇の勅命を承け法華八講料として免租水田五段と紺紙金泥法華経一部八巻合せて五種十二巻を奉納しこの善根に依り後白河上皇二条帝の宝祚を寿命長遠に併せて二品家一門の神徳冥助を乞い並に南海水道の海上安全を祈願す。
文化財
一、祭神
大己貴命 木造彫刻立像 壱躯
少名彦命 木造彫刻立像 壱躯
一、二品家政所下文附紺紙金泥法華経一部八巻
古文書 明治四十三年 右神像 明治四十四年 国宝指定
昭和二十五年 国重要文化財に指定
同三十年 県指定重要文化財 男神木造彫刻九躯その他 木桙神像、古銭等宝物多数あり。
式内社の八桙神社に祀られる神様は、大己貴神であり、古くより阿波民族の源の一翼を形成した長ノ国造の祖先神として尊崇されてきた神様です。
大己貴命と大国主神は同一神であり、八千矛神・大穴牟遅神・葦原色許男神・宇都志国玉神など多くの名前を持った神様です。つまり、八桙は、八千矛神で、出雲の主であり、長(おさ)である大国主神のことです。大国主神の別名、大己貴神は、長国の偉大な主を意味しています。
大国主神は、須佐之男命の子孫で、稲羽の素兎の物語で有名です。大国主神は、兄さん達から、大きな袋を持たされる等、色々のいじめを受けましたが、それらの試練を乗り越え、出雲国を治める立派な人となりました。
大国主神の子供に事代主神(えべっさん)と建御名方神がいます。事代主神は、式内社の事代主神社として当地から北方に山を越えた勝浦町沼江と阿波市市場町伊月に祀られ、建御名方神は、式内社の多祁御奈刀弥神社として石井町浦庄字諏訪に祀られています。
平安時代に記録される三千百三十二座の式内社の中に、これら八桙神社や多祁御奈刀弥神社等の神社は、阿波にしかありません。
創建時期は不詳。
『那賀郡長生村地誌』は大宝元年(701)創立とします。wikipediaは天平勝宝5年(753)創建としていますが出典不詳。
長国造の祖神を祀ったとされています。長国は令制国の成立以前、阿波国南部に当たる地域にあった国。
日本三代実録 元慶7年(883)12月28日庚申条に「阿波国…八桙神…従五位上」とみえる八桙神、また延喜式神名帳にみえる「阿波国那賀郡 八桙神社」は当社に比定されています。
由緒書には、紀貫之が土佐から帰京の途上、八桙大明神に祈願奉幣したとあり、『式内社調査報告』には「『土佐日記』に紀貫之は土佐からの帰途、海上安全を八桙神に祈願したことを記している」とあります。ただ『土佐日記』には奉幣する記述はありますが、八桙神にとは明言されていません。
長寛元年(1163)勅願所となり、同年の二品家政所下文に、竹原野庄鎮守八桙社に紺紙金泥法華経八巻が奉納され、天皇・上皇および二品家の長寿と加護を祈願して庄内の水田五反が寄進されたことが記されています(ただ『日本歴史地名大系』によると「この文書は検討の余地がある」)。
『阿府志』に「田畔不浄を用ひず築墓ならず因て隣村に葬る」とあり、肥料に糞尿を使うことが禁じられ、墓地も他村に建てられていたようです。
また同書に「上古の鳥居跡有り地中に埋る 大きさ一丈五尺廻り 二柱の間二十間余」ともあります。一丈五尺は約4.5m、二十間が約36m。二柱の間が36mとすると、高さ4.5mだと横長過ぎるし、廻りとあることから大きさは柱の目通りの意味でしょうか。現存で最大の、熊野本宮大斎原の鳥居が高さ約34m、幅42mですが、少なくとも幅はそれに近いので相当な大きさです。
『式内社調査報告』に「神社前の水田に石柱礎石のような対の巨石(径二メートル余)が露出しており、付近の人は之を往古の鳥居跡とする伝があるが、現在は不明である」とあります。少なくとも見える範囲にはそれらしき巨石は見当たらず、「現在は不明」と言う通り既に所在不明なのかもしれません。
江戸期にはかなり衰退し、「甚だ小社」という状態だったようです。
明治5年、八桙神社に改称、郷社列格。
平成3年、今上陛下(当時は皇太子)が「中世の海運」御研究のため行啓。
現祭神は大己貴命。『角川日本地名大辞典』には「ほか34柱」とありますが詳細不明。
『阿波志』『神名帳考証』は八千矛(桙)神=大己貴命かとします。
『特選神名牒』は建御名方命の子八桙神とし、『大日本史』は建御名方命曾孫とします。
御朱印
御朱印はあります。
宮司さんは休日(土曜か日曜かは忘れました)の午前に境内の掃除にいらっしゃるそうです。事前に確認する方がよさそうです。
私は郵送していただきましたが、超特大サイズでいわゆる大判の御朱印帳にも収まらず、18x26cmの超特大帳面を購入して貼りました。
アクセス
徳島市方面から国道55号を南下。
小松島の大林北交差点(位置)から県道130号へ。那賀川渡った先の交差点(位置)から県道24号へ。
岡川渡った先の交差点(位置)で右手(西方向)へ。500mほどで社頭。
駐車場は社頭の空き地(位置)だと思いますが、確認はしていません。
神社概要
社名 | 八桙神社(やほこじんじゃ) | |
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通称 | 八桙さん | |
旧称 | 矢峰八幡宮 八桙大明神 | |
住所 | 徳島県阿南市長生町宮内463 | |
祭神 | 大己貴命 ほか三十四柱(?) | 現祭神 |
八千矛(桙)神 | 『阿波志』 『神名帳考証』 | |
八桙神(建御名方命の子) | 『特選神名牒』 | |
建御名方命曾孫 | 『大日本史』 | |
社格等 | 式内社 阿波国那賀郡 八桙神社 日本三代実録 元慶七年十二月廿八日庚申 八桙神 従五位上 旧郷社 | |
札所等 | – | |
御朱印 | あり | |
御朱印帳 | – | |
駐車場 | あり(?) | |
公式Webサイト | – | |
備考 | – |
参考文献
- 「八桙神社」, 『日本歴史地名大系』(データベース「JapanKnowledge」)
- 「八桙神社」, 神社本庁教学研究所研究室編『平成「祭」データ(CD-ROM)』全国神社祭祀祭礼総合調査本庁委員会, 1995
- 式内社研究会編『式内社調査報告 第二十三巻 南海道』皇學館大学出版部, 1987
- 徳島県神社庁教化委員会編『改訂 徳島県神社誌』徳島県神社庁, 2019
- 明治神社誌料編纂所編『府県郷社明治神社誌料 下巻』明治神社誌料編纂所, 1912(国会図書館デジタルコレクション 243-244コマ)