和歌浦天満宮。
和歌山市和歌浦西に鎮座。
日本三菅廟の一つともいわれ、一間楼門としては最大規模の楼門を誇る神社。
和歌浦天満宮は通称で、正式社名は天満神社。
境内
社頭の看板
日本三菅廟の表示。
鳥居
社号標
社号標2
木彫りの牛
石段と楼門
石段は結構急です。
石段上からの眺め
和歌浦が一望できます。
楼門上部
扁額の文字は「高陽門」。
楼門内側から
昭和十年五月十三日国指定
この楼門は四本の太い丸柱をもち、一間一戸、入母屋造、本瓦葺の建物である。墨書によって慶長十(一六〇五)年に再建されたことがわかる。
一階の柱間には厚い板扉が釣込まれている。二階は三間二間の建物としているが、このような類例は非常に少ない。軒は二軒扇垂木であるが、軒の反りがのびやかで全体として秀麗な印象を与える建物である。桃山時代の建築様式を示す美しい楼門であるが、全体に禅宗様式が取り入れられている。
手水鉢と牛
社殿
本殿
境内社等
末社殿
多賀神社、天照皇大神宮・豊受大神宮、白山比賣神社の三社が納まっています。
多賀神社
天照皇大神宮・豊受大神宮
白山比賣神社
高富稲荷神社
高富稲荷神社のお狐さん
白藤龍王・白高大神
後ろの木は御神木でしょうか。枯れてしまっているようにもみえる…
住吉神社
白太夫神社、鹿島神社・香取神社、春日神社
柿本神社、神集神社、八幡神社
産霊神社、天穂日神社、三宝竃神社
白鳥神社
白鳥神社の狛犬
白鳥大明神扁額
社名不詳の境内社
お狐さんがいるので稲荷社のようにも思えるけれど…
社名不詳社の狛犬とお狐さん
筆塚
石段下の建物
小さな祠と古い手水鉢らしき石が納められていました。
由緒
御祭神、贈太政大臣一位 菅原道真公
創立、康保年間(九六四~九六八)
御神徳、天神様は人間形成の原動力となり学業に励む意識を高め、学徳、筝技術の発展の基盤をなす日本民族の永遠に導き出す尊い御神徳をもっています。学問の神、芸道の神和歌の神、農耕の神、書の神様として古来より広く信仰されている。
建造物、本殿、楼門、天照皇大神宮豊受大神宮本殿 多賀神社(重要文化財)唐門、瑞垣、東西廻廊
例祭、三月二十五日、夏祭 七月二十四日、二十五日
由緒および沿革
醍醐天皇延喜元年春(九〇一)右大臣菅原道真公は筑前大宰府に左遷せられ赴任の時、海上風波を避難せられ暫時、此の和歌浦の地に立寄り地元漁民達がこれをお迎え申し上げ綱を巻き、円座を作りここに休まれました。世に綱引天神とも申されます。風波静まり、御船で御任地に向かわれる時、
”老を積む身は浮船に誘はれて、遠ざかり行く和歌の浦波”
”見ざりつる古しべまでも悔しきは 和歌吹上の浦の曙”
二首の御歌を詠じられ、遠く太宰府へ旅立たれました。
その後、人皇六十三代村上天皇の康保年間(九六四~九六八)に至って、参議橘直幹が太宰府より帰京の途中御船を停め、菅公を追慕し、此地に神籬を立て道真公の神霊を勧請してお祀りし、宝殿を営築したのが当社の始まりです。
藤原公任卿の詠歌に
”和歌の浦の天満宮や日の本の三の名だる一つとぞきく”
とあるように、当社は古来より太宰府天満宮、北野天満宮とともに日本の三菅廟といわれています。
古くより朝野の崇敬が篤く、又、寛治四年(一〇九〇)には白河上皇が熊野行幸の砌、藤白の嶺より和歌浦に遊覧し、当社に詣で菊花御紋章の御幕を奉納しています。以後当社では近年に至るまで梅花と並んで菊花を社紋として用いていました。
天元年間(九七八~九八三)には道真公の曾孫に当る菅原有忠公が紀伊守に任ぜられるに当り、太刀一振を奉納しています。
天正十三年(一五八五)には兵乱に遭遇し、社殿、宝物、古記録とも烏有に帰し、一時荒廃しましたが、その後紀州藩歴代の藩主の深い信仰と庇護によって繁栄し、現在の社殿は慶長九年(一六〇四)紀伊藩主浅野幸長公によって再建に着手され、慶長十一年(一六〇六)十一月に見事に復興しました。これが現在の社殿であります。
元和五年(一六一九)浅野家に代り、徳川頼宣公が紀伊守に任ぜられ、東照宮の創建地を当社の境内の一部に求めるに当り、当社を和歌浦の地主神と定めて篤く崇敬し、寛文四年(一六六四)に神田を加増し、二十五石を寄附されました。
江戸時代を通じて社家安田能登守が天満宮、東照宮両者の社官として明治維新まで奉仕しました。
―社蔵「関南天満宮伝記」による―
本殿の周囲の彫刻は豪華で桃山芸術の特色を表わしたもので戦国時代の大工として有名平内政信氏の作品として現存するものは当宮のみで日本建築学上非常に貴重な建物であります。
和歌乃浦は、聖武天皇・称徳天皇・桓武天皇をはじめ、藤原頼通・忠実・頼長等の多くの貴族、松尾芭蕉や夏目漱石等の文人に愛された古からの風光明媚な地であります。
かつては「天橋立」や「松島」と比肩する程親しまれてきました。
聖武天皇が、この地を陽が射した景観の美しさから「弱浜」(わかのはま)を「明光浦」(あかのうら)と、聖性の高い場所として命名されました。
また、聖武天皇が行幸の折には、お供をしていた宮廷歌人である山部赤人(やまべのあかひと)が「若の浦に潮満ち来れば潟をなみ(片男波)葦辺をさして鶴(たづ)鳴き渡る」[『万葉集』第六の九一九番歌]と詠まれて以来、和歌の聖地となっています。
さらに、天満宮の御祭神である菅原道真公も
「老いを積む身は浮き船に誘われて遠ざかり行く和歌の浦波」[『関南天満宮伝記』寛文四歳次甲辰]
「見ざりつるいにしえまでも悔しきは和歌吹上の浦の曙」[『関南天満宮伝記』寛文四歳次甲辰]
と、景観の美しさに心を奪われたと詠っています。
境内の楼門から見るこの景色は、人工物が目に付くものの、鳥居と御手洗池が納まり、その向こうには片男波の砂嘴(さし)と松林がはるかに南へ広がり、その後方には長峰の山並みが緑の屏風となり、更に遠く熊野へと続く。右には和歌浦の海が広がり、今もって、天満宮の楼門からは、このような大景観を望むことが出来るのであります。
この心地よい大景観の風趣は、聖武天皇が詔勅で名付けた聖地、「明光浦」でありましょう。
天正十三(一五八五)年四月に紀州を平定した豊臣秀吉は、吹上北側の岡山の地に城を築く事になりますが、その名を、築城の地である「岡山」に「和歌浦」を合成して「和歌山」城にしたとされ、和歌山という地名は、この時以来のものである。中世の雑賀荘国に代わって、新たに和歌山が誕生したことになります。この和歌山は、領国の中心地となるべく、藩主を頂く城を中心に兵農分離した家臣団と商工民が身分的に住区を分け、職能に応じて集住する近代都市としての建設が進められました。
その後、関ヶ原合戦後に藩主となった浅野幸長(あさのよしなが)は、近代城下町の和歌山の建設を引き継ぐ一方で、和歌浦に壮麗な天満宮を再建し、和歌浦が近世の城下町である和歌山の鎮守地になっていた事をも推察できます。このようにして、江戸時代以前から近代都市和歌山の基礎が形作られており、当宮はその守護神としての役割も担っています。
学問の神、至誠の神、厄除開運の神、交通安全・海上安全の神、家づくりの守り神として崇められる和歌浦天満宮境内全域が、平成二十六年十月に国の史跡・名勝に指定されました。
御神前にての御参拝や御祈祷で御神徳をいただかれ、神様とのご縁を大切にされ、大景観にて心の洗濯をして頂き、今後とも清々しい気持ちでお過ごし頂ければ幸いです。
菅原道真公が大宰府に左遷され赴任する際、風波から避難し当地に上陸。
地元漁民達は綱を巻き円座を作りこれを迎えました。
その後、康保年間(964~968)に橘直幹が太宰府より帰京の途中当地に立ち寄り、神籬を立て菅公の神霊を勧請し宝殿を建てたのが当社の創始。
天正13年(1585)兵火により焼失。
慶長11年(1606)再建。現在の社殿や楼門はこの時再建されたもの。本殿、楼門は重文に指定されています。江戸時代の高名な大工、平内政信が建築に関わっているとのこと。
旧社格については、村社との記述をネット上で複数見かけましたが、出典未確認。
御朱印
御朱印はあります。
社務所で拝受可。
御朱印帳もありましたが、当社オリジナルかは不明。社名等は入っていませんでした。
アクセス
和歌山市街地から国道42号を南下。
和歌浦口交差点(位置)で道が二股に分かれるので、右手(国道ではない方の道)に入ります。
そのまま進むと、右手に紀州東照宮が見えてきます。東照宮鳥居のすぐ南の交差点(位置)を右折。
そこから200mほどで参道下へ。
駐車場は鳥居の周りにあります(道路向かいのは月極なので違います)が小さめなので、参拝者が多いと停められないかも。
鳥居の南(南南西)300mくらいのところに、ベイサイド和歌浦の駐車場(位置、有料、普通車なら一日400~600円)があるので、和歌浦の他の場所も見て回るならこちらに停めると良いでしょう。
神社概要
社名 | 天満神社〔和歌浦天満宮〕(てんまじんじゃ/わかうらてんまんぐう) |
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別称 | 綱引天神 綱敷天神 |
旧称 | – |
住所 | 和歌山県和歌山市和歌浦西2-1-24 |
祭神 | 菅原道真公 |
社格等 | 日本三菅廟 旧村社(?) |
札所等 | – |
御朱印 | あり |
御朱印帳 | あり(オリジナルかは不明) |
駐車場 | あり |
公式Webサイト | – |
備考 | – |
参考文献
- 「天満神社」, 神社本庁教学研究所研究室編『平成「祭」データ(CD-ROM)』全国神社祭祀祭礼総合調査本庁委員会, 1995