大屋都姫神社(和歌山市宇田森)

大屋都姫神社。

和歌山市宇田森、紀伊駅の南約1kmほどの場所に鎮座。

式内名神大社 大屋都比売神社に比定される神社。

また、当社に合祀された総社神社は紀伊国総社の論社。

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境内

参道が境内を東西に貫き、社殿は参道中央部に平行して配置されています。

 

西側参道入口

 

西側参道

 

西側参道の社号標

 

東側参道の社号標

 

東側参道

 

手水舎

 

鳥居

社殿

拝殿

 

本殿

境内社等

左脇殿に五十猛命、右脇殿に都麻都姫命。

 

左脇殿

 

右脇殿

 

境内社

和歌山県神社庁のページでは境内社に若宮八幡宮とあり、他に境内社はないためこちらがそうかと思われます。

しかしwikipediaでは若宮八幡宮を境外摂社とし、紀伊駅の北にある神社(紀伊中学校とその南にある墓地の間。位置)をそれだとしています。Google map上では紀伊神社として登録されており、2018年時点で社や鳥居が撤去されているという口コミがあります。

 

境内社狛犬

 

境内社祠内の狛犬

 

宇田森遺跡

宇田森遺跡は、和歌山市宇田森の大屋都姫神社周辺で、約400mの範囲に広がる、弥生時代を中心とした遺跡です。昭和16年(1941)に弥生時代の遺跡として紹介されたのに始まり、昭和26年(1951)に採土工事中に発見された弥生土器が報告され、和歌山における弥生時代の重要な遺跡として知られていました。昭和41~43年(1966~1968)には、宅地造成計画にともない発掘調査が行われ、弥生時代の竪穴建物、溝、墓などが発見されました。平成3年・18年にも試掘調査が行われ、弥生時代の溝などが発見されました。また、昭和30年代に大屋都姫神社付近から銅鐸が発見され、その後に行方不明になりましたが、東京国立博物館に収蔵された銅鐸がそれに当たると考えられています。宇田森遺跡からは多くの土器が発見されましたが、土器は日常的な調理器具などとして使われ、時期により形や模様が変わるため、その時代を研究するために欠かせません。宇田森遺跡の土器には、液体や穀物を貯蔵するための壺、煮炊きをするための甕、料理を盛り付ける鉢・高坏などがあります。とくに弥生時代中期には、壺などは多様な形になり、櫛描文や、凹線文などの模様で飾られています。宇田森遺跡から出土した弥生土器は、和歌山の弥生時代の中期を代表する土器のひとつとなっています。

由緒

御由緒

御祭神は天照皇大神の皇弟素戔嗚尊の神女で五十猛命の妹神である。この神は都麻都姫神命と御父神の勅を奉じ給い、御兄五十猛命の神業を助け八十木種を筑紫の国より播き始め、大八州国島の八十国残る隈なく播種し終りて、当地に鎮まり坐す木種播殖に著大な御功績のある神であり樹木の守護神として御神徳もあつい。

なかでも大屋都姫命は住宅、船、車、木具、薪炭など木製品の守護神として崇敬されている。仁明天皇嘉祥三年(八五〇年)、清和天皇貞観元年(八五九年)に神階の御授進あり、その後寛治元年(一〇八七年)、堀河天皇熊野御行幸の時、特に御奉幣あり。次いで長治元年(一一〇四年)に十八町歩の神田、五町四面の社地を御寄進あったが大水の乱、天正の兵火にさしも宏壮を極めた宮居も灰燼に帰した。

当神社は延喜式神名帳に紀伊国名草郡大屋都比売命、名神大月次新嘗とあり、本国神名帳に従一位大屋大神、三代実録に貞観元年正月二十七日奉授従五位下大屋都比売神従四位とある。

本国神名帳に従一位とあるのは貞観以降増階のあったものである。

当社古くは五十猛命、都麻都姫命とともに日前宮の地に鎮座あるものち伊太祈曽村に遷座し、大宝二年(七〇二年)三神を三所に分遷したとき北野村古宮の地に遷り、更に今の宇田森神ノ木の地に遷座される。

創建時期は不詳。

元は伊太祁曽神社、大屋都比売神社と一つの神社で、現在の日前国懸神宮の地・秋月に鎮座していたといわれます。

 

垂仁天皇16年(BC14年)、日前国懸神宮に秋月の地を献上し、山東の亥の森に遷座。

その後大宝2年(702)に三神は分祀されることとなり、和銅6年(713)に大屋都姫命は北野村古宮の地(後述)に遷座。遷座までの11年間の詳細は不明(そもそも和銅6年遷座は『式内社調査報告』にあるが出典不詳)。

その後(時期不明)、当地に遷座されたといいます。

 

延喜式神名帳にみえる「紀伊国名草郡 大屋都比売神社 名神大月次新嘗」、並びに三代実録 貞観元年(859)正月27日甲申条にみえる「紀伊国…従五位下勲八等…大屋都比売神…従四位下」の大屋都比売神は当社に比定されます。

 

紀伊国神名帳にみえる「大屋大神」も当社に比定されます。

この紀伊国神名帳記載の神階について、『紀伊続風土記』や由緒書では「従一位」とありますが、『日本歴史地名大系』では「従四位上」としています。また玄松子の記憶さんでは「従一位上」とあります(『国内神名帳の研究 資料編』に準拠)。原典未確認のため詳細不明ですが、写本に相違があるのでしょうか。

 

その後は兵乱等で衰退。かつては神田一八町、社地五町四面を有していたといい、第二次大戦までは神田二町を所有していましたが、戦後の農地改革で失ってしまったとのこと。

 

明治6年村社列格、同13年県社に昇格。

 

なお当社の旧地(亥の森からの分祀後、現在地に遷るまでの鎮座地)について、神奈備にようこそさんが紹介されています。

 

 

地図も載せられているのですが、工場のような建物の場所にポイントされています。

文章や写真から見るに、wikipediaで旧地として記載されている下図の場所が実際の位置ではないかと思われます(現地未確認ですが、wikipediaによれば遺構はないとのこと)。

 

34°16’17.9″N 135°15’02.4″E, 34.271639, 135.250667 あたり

なおこの場所は、御祓山と呼ばれているようです。

 

また、当社には明治44年に総社神社が合祀されています。

総社神社は総社大明神社とも呼ばれた、北字宮ノ後に鎮座していた神社。

『南紀神社録』は国府に近いこの神社を紀伊総社に比定しています。

 

しかし伝承によれば当社は最初田井荘落合村禰津久(ネズク)谷という場所にあったとされ、後に荘中で争論があり宮ノ後に遷ったとされます。

元は国府付近にはなかったことから、『紀伊続風土記』は当社が総社であることを否定しています。

総社神社の跡地がどこなのか、また遺構が残っているのかは不明。

御朱印

御朱印はあります。

宮司さんは常駐ではありませんので、事前連絡が必要です。

府守神社も兼務されているので、合わせて御朱印をいただくことができます。

アクセス

和歌山市中心部から国道24号を東に向かい、紀ノ川右岸に渡り、また東へ。

永穂西交差点(位置)で北へ。

700mほど行くと、右手に西側参道入口の橋があります。

駐車場はありません。参道脇は民家や保育園があるので、車は置けません。

もしかしたら、社務所裏手あたり(位置)に置けるかも知れませんが…

神社概要

社名 大屋都姫神社(おおやつひめじんじゃ)
通称 –
旧称

大屋大神

大屋大明神社

住所 和歌山県和歌山市宇田森59
祭神 大屋都姫命
脇殿

五十猛命

抓都姫命

社格等

式内社 紀伊国名草郡 大屋都比売神社 名神大 月次新嘗

日本三代実録 貞観元年正月廿七日甲申 大屋都比賣神 従四位下

紀伊国総社(合祀の総社神社)

旧県社(大屋都姫神社)

旧村社(総社神社)

札所等 –
御朱印 あり(要連絡)
御朱印帳 –
駐車場 なし
公式Webサイト –
備考 –

参考文献

  • 「大屋都姫神社」, 『日本歴史地名大系』(データベース「JapanKnowledge」)
  • 「大屋都姫神社」, 神社本庁教学研究所研究室編『平成「祭」データ(CD-ROM)』全国神社祭祀祭礼総合調査本庁委員会, 1995
  • 式内社研究会編『式内社調査報告 第二十三巻 南海道』皇學館大学出版部, 1987
  • 明治神社誌料編纂所編『府県郷社明治神社誌料 下巻』明治神社誌料編纂所, 1912(国会図書館デジタルコレクション 205-206コマ)
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