刺田比古神社。
和歌山城の南に鎮座。
式内社 刺田比古神社に比定される神社。
境内
鳥居
社号標
手前に門扉があるため、1枚に収めきれず。
手水舎
狛犬
社殿
拝殿
扁額
本殿
境内社等
八幡社・氷川社
境内社のうちこちらのみ摂社で、他は末社。
八幡社は元々は宮の壇(現在の広瀬通丁3丁目、聖武天皇の岡東離宮跡とされる)にあり、寛永年間に当地に遷座されたといいます。
八幡宮跡には「玉井戸」と呼ばれる古い井戸が残され、明治22年の水害で埋没した後青石で覆って聖地としたとされますが、現在それが残っているかは不明。
一説には、当地が岡東離宮跡であるとも。
稲荷社
金比羅社 宇須売社
小林稲荷社 稲荷社
弁財天社 春日社
弁財天社は元々は天嬪山(和歌山市岡公園内天妃山、別名・弁財天山)に祀られていましたが、和歌山城築城の際、城を見下ろす位置にあったため当地に遷座されました。
その後、明治になって元の天嬪山に再興されています(現在も岡公園内に鎮座)。
天満社
祓戸社
楠龍発達社
大黒社
祭神 大己貴命(大国主命・大黒さま)
このお社はある時代まで御祭神とされた大己貴命をお祀りしています。
当神社は奈良時代からこの地に鎮座していますが、度重なる戦乱に遭い南北朝時代には社殿・神宝を悉く散逸してしまいました。その後嘉吉年間(一四四一~一四四三)に氏子らの手によって再興されましたが、神名さえも失われていたため、岡の地にある「岡の宮」と称し崇敬したそうです。境内にある多くの末社は、その当時民間で信仰されていた神々を持ち寄って祀った跡と考えられます。
人々は多くの神々を祀り、国を守る神社の意味をこめて「国主神社」と呼ぶようになりました。ここから大国主命を祭神とする伝承が生まれたようです。その後、和歌山城の氏神として城主の崇敬をうけ、多くの寄進、修造が施されました。その修造のさい、境内から「刺田比古神」と刻まれた神宝が見つかり、『延喜式』に載せられた古社であると判明しました。そして元禄年間に、本来の社名『刺田比古神社』に戻し、大伴道臣命、大伴佐氐比古命を祀る神社と改められたそうです。
しかしながら、江戸時代の書物『紀州名勝志』などには、大己貴命を合祀したともあり、ある時代には大国主命を祭神としてお祀りしていたこと間違いないようです。
神馬社
成立 江戸時代
由緒
この神馬は八代将軍徳川吉宗公から寄進された白馬をかたどったものといわれています。正徳六年紀州和歌山城主であった吉宗公は将軍就任のしらせを受けます。将軍になるに及び、享保六年吉宗公は出世開運の神社として産土神である当社に黄金装飾の太刀と幼少からの愛馬を寄進されました。吉宗公の拾い親であった神主岡本長諄はこの白馬を神馬として大切にしました。白馬が天寿をまっとうした時、長諄はこの馬をしのんで、面影を木像に刻んだといいます。
当社は戦災に遭い、社殿や宝物を失いましたが、この神馬だけは焼失することはありませんでした。このことから開運・厄除の神馬として以前にまして人々の崇敬を集めています。
平成八年に現在の姿に修復されました。
井戸?
御神木
この古墳は昭和七年一月に境内南西側の山の斜面から発見された。発掘の際に、石室、人骨の一部、土器数点が出土している。土器の形状から古墳時代後期(六世紀ごろ)のものと推測される。記紀の記述や古代紀伊の歴史を考える上でとても重要な古墳である。
この地は古来より岡の里と呼ばれ大伴氏の住地とされる。伝承によると祭神の道臣命はこの地に生まれ、神武天皇東征の際に従い、将軍として武功を挙げられたという。「続日本紀」巻三十にも岡の里より出た大伴氏のことが記されており、この古墳も大伴氏に関わりあるものといえる。大伴氏の御祭神を祀る当社の由緒をうかがわせる。
現在古墳は落砂によって埋没している。昭和七年当時の調査報告によると、地盤が砂地のため落砂の危険が多く、調査が中断されたという。それ以降は戦災等によって再調査は行われないままである。また古墳は一基のみ発見されたが、この時代の古墳は古墳群の形をとるらしく、山の形状からも未発見の古墳がある可能性は高い。今後の調査が期待される。
埋没しているということもあり、参拝時は古墳がどの辺りかわからなかったのですが、どうもこの案内板後方の一段高くなった林の中にあるようです。
参道左手の林(古墳があるところ?)
案内板の通りであれば、この中に未発見の古墳があるかもしれません。
由緒
鎮座地 和歌山市片岡町二丁目九
祭神 道臣命 大伴佐氐比古命
当神社は岡の里(現在の和歌山市広瀬、大新、番丁、吹上、芦原、新南地区)の氏神様である。神武御東征の際に活躍した道臣命、百済救済の武功で知られる佐氐比古命をお祀りしている。古来よりこの地は人が住み、境内には岡の里古墳がある。道臣命は岡の里の出身とされ、佐氐比古命二十世の裔大伴武持が大伴氏の発祥であるこの地に祖神、祖霊を祭祀し、里人はその神徳を仰ぎ産土神として崇敬した。南北朝の騒乱により荒廃するも嘉吉年中に氏子等が修造した。元和年中徳川頼宣公が紀州入城の際、城の守護神たるこの神社を崇敬し、社殿を修築し社宝を奉献し更に領地を寄進した。
二代城主光貞公以降は産土神として崇敬を受け、殊に八代将軍吉宗公御誕生の時、神主岡本周防守長諄が仮親となり特別に崇敬をうけた。吉宗公は将軍就任に際し開運出世の神と崇敬され、享保年中二百石の朱印地を寄付し、神社境内の殺生を禁じ、黄金装飾の太刀壱振(国宝)神馬一頭を献じ、永く国家安泰の祈願社として年に壱万度の祓を命ぜられ、神主岡本長刻より代代三年に一度将軍に拝謁した。よって氏子の崇敬益々厚く、明治六年四月に県社に列せられた。昭和二十年七月九日の戦災に御神霊のみ安泰、社殿、宝物、古記録すべて焼失した。その後氏子等の敬神により現在の復興となった。
創建時期は不詳。
由緒によると、大伴氏の祖神・道臣命の十世孫である佐氐比古命(狭手彦命)が百済救済のさいに武功をあげて当地を授けられ、さらにその二十世の裔である大伴武持が当地に住むに及び、祖神、祖霊を祀ったのが始まりとされます。
道臣命は当地の出身とされ、境内そばに古墳が発見されていることから、古くから当地には人が住んでいたものと思われます。一説には当地は聖武天皇の岡東離宮跡であるとも。
延喜式神名帳にみえる「紀伊国名草郡 刺田比古神社」は当社に比定されています。
大伴武持二十八世の孫岡本信濃守武秀が岡山(現和歌山市)に城を築くと、神田を寄進するなどして城の氏神として崇敬。
しかし南北朝の騒乱などの兵乱により古文書、宝物を失い社殿も荒廃。
嘉吉年間(1441~1444)に氏子等により再興され、国主(くず)神社と称されるように(九頭大明神、国津大明神とも)。
天正13年(1585)に和歌山城が築城されると、当社は鎮護社とされ大伴の後裔岡本左介が社司となります。
文禄3年(1594)、本来の鎮座地たる岡の里(現在地)に遷座されたとのことですが、それ以前(再興後?)どこに鎮座していたかは不詳。
元和5年(1619年)に紀伊に転封された徳川頼宣が社殿を修築、社宝を奉献。
八代将軍吉宗が誕生の際、神主岡本周防守長諄が仮親となります。
当時、親の厄年に生まれたり体が弱かったりした子は、捨て子にすれば丈夫に育つという風習があり、形式上一旦捨ててからすぐ拾うことで厄払いをしたそうです。そのため(親の厄年に生まれたらしい)吉宗も一旦捨てられ、当社神主の岡本長諄が拾い、家老加納五郎左衛門にあずけたとされます。
ここから「吉宗公拾い親神社」ともいわれます。
吉宗は当社を崇敬し、黄金装飾の太刀壱振と神馬を奉納。
この太刀は銘を「光世」といい、旧国宝に指定されていましたが、昭和20年の和歌山大空襲で焼失してしまい、現在は刀身のみが残っています。
明治6年県社列格。
現祭神は道臣命、大伴佐氐比古命。
道臣命は大伴氏の祖。
大伴佐氐比古命(大伴佐弖比古命・狭手彦命)は道臣命の十世孫。宣化天皇2年(537)新羅の任那侵略を受け朝鮮半島に派遣され、任那を鎮め百済を救済。また欽明天皇23年(562)数万人の軍を率いて高麗を討ったと、日本書紀にみえます。
本居宣長は『古事記伝』で、刺田比古神を刺国大神と同神とみています。
刺国大神は大国主神の外祖父(大国主神の母神刺国若比売の父神)。
『紀伊続風土記』はこの説を採っており、刺国若比売の名は紀伊の若浦(和歌浦)に由来し、八十神に迫害された大国主神が木国の大屋毘古神(五十猛神)の元に行ったのもその関連からとし、刺田比古神社は刺国大神と大国主神を合祀したとします。
社名から、中世の再興以降は大国主神が主神となっていたように思われますが、不詳。
「刺田比古」について、唯一『古屋家家譜』(『甲斐国一之宮 浅間神社誌』に収録)にその名がみえます。古屋家は浅間神社の社家で、大伴氏の後裔とされる家。
この『古屋家家譜』によると道臣命は「生紀伊国名草郡片岡之地」で、父が刺田比古命とされており、このことから祖先神の刺田比古命が本来(創建当初)の当社祭神であるとする説もあります。
そのほか、「刺田比古」を猿田彦命や佐氐比古(佐弖比古命・狭手彦命)と見る説もあります。
紀伊国名所図会所載の境内図
御朱印
御朱印はあります。
社務所で拝受可。
オリジナル御朱印帳もあり。
アクセス
国道24号や26号、県道752号などで和歌山城公園の南西の県庁前交差点(位置)まで来て、そこから東に300m行ったところ(位置)で南に入り、突き当りの先の分岐を右に折れると社頭…なのですが、駐車場がありません。
駐車場あり、と観光案内などに出ているのですがどこがそれなのか不明(おそらく境内北東角のスペースだと思いますが、表示なし。参道入口付近の駐車場は契約駐車場で参拝者用ではなさそう)。
岡公園の西側、路肩に数台の駐車スペース(白枠で指定あり)があります。「標章車専用」表示のない区画(南側)であれば停めてOKだと思われます(この辺り)。
すぐ近くには(有料ですが)和歌山城公園(位置、1時間まで200円、2時間まで360円、以降1時間毎200円)、岡公園(位置、200円/1時間)の駐車場があるので、いずれかに停める方が無難かも。私は和歌山城公園の駐車場を使いました。
神社概要
社名 | 刺田比古神社(さすたひこじんじゃ) | |
---|---|---|
通称 | 岡の宮 | |
旧称 | 国主神社 九頭大明神 国津大明神 | |
住所 | 和歌山県和歌山市片岡町2-9 | |
祭神 | 道臣命 大伴佐氐比古命 | 現祭神 |
刺国大神 | 『古事記伝』 | |
刺国大神 大国主神 | 『紀伊続風土記』 | |
刺田比古神 | 創建当初の祭神? (神社公式より) | |
社格等 | 式内社 紀伊国名草郡 刺田比古神社 旧県社 | |
札所等 | – | |
御朱印 | あり | |
御朱印帳 | あり | |
駐車場 | あり? | |
公式Webサイト | http://okanomiya.com/ | |
備考 | – |
参考文献
- 「刺田比古神社」, 『日本歴史地名大系』(データベース「JapanKnowledge」)
- 「刺田比古神社」, 神社本庁教学研究所研究室編『平成「祭」データ(CD-ROM)』全国神社祭祀祭礼総合調査本庁委員会, 1995
- 式内社研究会編『式内社調査報告 第二十三巻 南海道』皇學館大学出版部, 1987
- 谷川健一編『日本の神々 神社と聖地 第六巻 伊勢・志摩・伊賀・紀伊』白水社, 1986
- 明治神社誌料編纂所編『府県郷社明治神社誌料 下巻』明治神社誌料編纂所, 1912(国会図書館デジタルコレクション 202-204コマ)