高積神社〔下ノ宮〕(和歌山市祢宜)

高積神社下ノ宮。

和歌山市祢宜に鎮座。

式内名神大社 都麻都比売神社の論社かつ、高積比古神社並びに高積比売神社に比定される神社。

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境内

鳥居

 

社号標

 

手水舎

 

境内

社殿

中門

 

本殿

境内社等

境内社

祭神は五十猛神と金山彦神。

 

境内社

祭神は宇迦之御魂神と水波能売神。

 

金比羅社

 

神輿庫か

由緒

高積神社御由緒

高積神社は、和歌山市の東部に南北に続く和佐山連峰の北端に聳える「高積山」(通称「高山」「高の山」)の山頂(海抜二三五米)に位置している。地番は以前「海草郡和佐村大字禰宜字高山一五五七番地」だったが、昭和三十一年(一九五六)の町村合併に伴い「和歌山市禰宜一五五七番地」(下の宮は禰宜一三九〇番地)となっている。

当神社は「高山」の地にあることから、古くから「高の御前」「高の宮」の名で呼ばれており、人々の信仰は格別に厚い。特に疱瘡(天然痘)流行の節は、県内外からの参詣者が絶えなかったとのことである。なお、山頂にある本殿は「上の宮」、麓にある遥拝所は「下の宮」として親しまれてきた。

主祭神は、「都麻津比売命・五十猛命・大屋津比売命」の三人の兄妹神で、紀ノ国に木の種を伝えられた素戔嗚尊の御子である。垂仁天皇の十六年、日前・国懸両神宮が浜宮から秋月に遷られた折、この三神が秋月から伊太祈曽に遷られた。更に、文武天皇の大宝二年(七〇二)に三神分祀の勅令によって、五十猛命は伊太祈曽に都麻津比売命は高山に大屋津比売命は川永宇田森に祀られることになった。一応は三神分祀だが、中央に都麻津比売命を祀り、両側に他の二神を祀っていることから、当神社を「高三所大明神」とも称えられてきた。

なお、明治四十三年(一九一〇)に、旧和佐村内に点在していた三十数ヶ所の神社が、内務省認可により高積神社に合祀された。

当神社の所在地「高山」は、麓から八百米余登った景勝の地にあり、北方の紀ノ川は帯のように豊かに流れ、西方の和歌山市は足下に見え、遠く淡路・四国まで一望できる。東は竜門山・高野山、南は生石山や有田の山波が続いている。また、愛郷家によって育てられた春の桜が全山を色どり、秋の紅葉とともに風情は一入である。

・古錢埋蔵地

大正十四年(一九二五)本殿前のすぐ北の平地で、古銭一万数千枚が発掘され、本件の文化財に指定されている。

・古城跡

高積山の南方、五百米余の城ヶ峯(通称「城」と言い、海抜は二五五米・和佐山連峰の最高峰)は、延文五年(一三六〇)の南北朝時代の古戦場で、土塁・空堀などの陣地跡が残されている。

[例祭日] 春祭は「上の宮」で行う。

春(四月第二日曜日)・夏(七月十五日)・秋(十月体育の日)・冬(十二月十五日)

創建時期は不詳。

永享5年(1433)の『高大明神雑掌申状案』(日前国懸神宮と和佐荘との間で起こった水論の際の言上状)によれば、当社は元は現在の日前国懸神宮の地に鎮座し、後に鎮座地を譲り山東へ遷り、更に後に和佐高山(現在地)へ遷ったとされます。

日前宮に鎮座地を譲り山東へ遷ったとする伝承は伊太祁曽神社にもあり、それに基づけば当社は山東へ遷座後の伊太祁曽神社から分祀されたことになります。

続日本紀の大宝2年2月己未(22日)条に「分遷伊太祁曽。大屋都比売。都麻都比売三神社。」の記述があり、上記の分祀はこれを指すと見て、『紀伊続風土記』は当社は伊太祁曽神社から分かれた都麻都比売神社=延喜式神名帳にみえる「紀伊国名草郡 都麻都比売神社」の可能性が高いとします(大屋都比売神社は平田荘にあることに古くから異論がないため)。

 

一方で『紀伊国名所図会』は「高津比古神は山上に斎き奉り、高津比売神は山下に斎き奉りしを、すべての御名を気鎮社と申せしなるを、のちにあやまりつたへて、三座の神のごと斎き祀るなるべし」とし、祭神は高津比古神、高津比売神、気鎮神の三柱とします。

『南紀神社録』も「在和佐山、今以高積彦姫社及気鎮社称高三所神」としており、おそらくこれらの説に基づいて、延喜式神名帳にみえる「紀伊国名草郡 高積比古神社」並びに「紀伊国名草郡 高積比売神社」にも比定されています。

 

中世期は歓喜寺(和歌山市祢宜)が別当寺で、歓喜寺の隆盛に伴い当社も崇敬を集めたといわれます。

その後元和年間(1615~1624)に唯一神道に復したと『紀伊続風土記』にあります。

 

下ノ宮は江戸時代頃には「気鎮神社(気鎮太明神、気鎮社)」と称されたことが各種記録に残ります。

「高三所大明神」「高御前神社」と称された上ノ宮とは密接な関係にあったようで、『式内社調査報告』は、あるいは上ノ宮の里宮として成立した下ノ宮が、後に誤って気鎮神社として別の神社になったのかもしれない、とします。

ただ、明治43年に高積神社(上ノ宮)が気津別神(気鎮神社=下ノ宮)を合祀したと海草郡神社明細帳にあり、里宮奥宮として一体ではなく、別個の神社として扱われていたようで、現在のようになったのは合祀後だとのこと。

なお明治期に九十九王子の一つ、川端王子を合祀しています。第二次大戦中、跡地に小祠が建てられています(位置)。

 

『式内社調査報告』には明治6年村社列格とありますが、これは上ノ宮を指すと思われます。気鎮神社の旧社格は不詳。

 

御朱印

御朱印はあります。

境内左手の社務所(兼ご自宅)で拝受可。

アクセス

JR千旦駅の南東にある井口交差点(位置)へ向かいます。

和歌山市中心部(駅やお城など)から来る場合はいくつかルートあるのでお好きな道を。

和歌山ICからの場合は和歌山市街方面に降ります。降りたところにある、インター南口交差点のすぐ先(位置)で左折。3kmほど行くと井口交差点。

 

井口交差点から700mほど南に行くと、左手前に旧中筋家住宅が見えてくるのですが、その手前の十字路(位置)を左折。ここから細い道。

分岐3回、順に左、右、左。

そのまま道なりに進み鳥居前を過ぎると、宮司さん宅の北側、高積山への登山口に当る場所(位置、忠魂碑の手前)に数台分のスペースがあったのでそこに駐車させていただきました。ここが神社の駐車場なのかは未確認(宮司家の私的な駐車場の可能性も…)。

神社概要

社名高積神社(髙積神社)〔下ノ宮〕(たかつみじんじゃ)
通称
旧称気鎮神社
住所和歌山県和歌山市祢宜1390
祭神

都麻都比売命

五十猛命

大屋津比売命

現祭神

高津比古神

高津比売神

気鎮神

『紀伊国名所図会』
配祀

天照皇大神

須佐男命

八王子神

大山祇神

気津別神

応神天皇

神功皇后

比賣大神

社格等

式内社 紀伊国名草郡 都麻都比売神社 名神大 月次新嘗

日本三代実録 貞観元年正月廿七日甲申 神都摩都比売神 従四位下

式内社 紀伊国名草郡 高積比古神社

式内社 紀伊国名草郡 高積比売神社

旧社格不明

札所等
御朱印あり
御朱印帳
駐車場あり(?)
公式Webサイト
備考高積山山頂に上ノ宮

参考文献

  • 「高積神社」, 『日本歴史地名大系』(データベース「JapanKnowledge」)
  • 「高積神社」, 神社本庁教学研究所研究室編『平成「祭」データ(CD-ROM)』全国神社祭祀祭礼総合調査本庁委員会, 1995
  • 式内社研究会編『式内社調査報告 第二十三巻 南海道』皇學館大学出版部, 1987