多和神社(さぬき市志度)

多和神社。

さぬき市志度に鎮座。

式内社 多和神社の論社で、讃岐国三宮とも言われる神社。

境内

一の鳥居

 

ユーモアある立札

 

階段上りきると二の鳥居

 

文化財の表示。こちらの神社には、かつて宮司を務めた松岡調氏による多和文庫という文庫があります(非公開)。文化財はこちらに収められているようです。

 

神門

 

狛犬

 

神門をくぐり右手に三の鳥居

 

注連石

社殿

階段を上りきると拝殿。紋は「志度」を崩した文字?

 

拝殿内、八幡宮の扁額。

 

拝殿奥に中門

 

さらに奥に本殿

 

神饌所

境内社

参道脇

神門手前の祓戸神社

 

神紋後ろの建物

 

三の鳥居から社殿までの間には参道の左右に境内社が並んでいます。

厳島神社

 

中野神社

 

山田神社

 

事平神社

 

名称不明社

 

春日神社

 

松尾神社

本殿脇

高良神社

 

連岳神社

多和神社が遷ってくる以前から当地に鎮座していたとされる神社。かつては山王権現と称されていたようです。

『香川県神社誌』は、当社を日本紀略 延喜6年(906)2月7日条にみえる「授…讃岐国…連岳神…従五位下」の連岳神とする説をあげています。また『大日本史神祇志』に「連岳神社今在寒川郡在多和神社域内称山王権現旧号連岳明神蓋是」とあります。

 

社日塔

由緒

境内由緒板

延喜式内社 讃岐三ノ宮 多和神社

鎮座地 香川県さぬき市志度一二六

正殿御祭神 速秋津姫命

相殿御祭神 大鞆和気命 帯仲津彦命 息長帯姫命 天照大日売命 大雀尊 倭武尊

本殿 流れ造 割り拝殿

御由緒

当社の創始は太古とありまして不詳ですが、社伝によりますと、「神代のむかし、速秋津姫命が多和の郷に来たりまして、この水門は潮いと深くして我が心澄みと宣い、とどまり給う。去るに及んで土人大久支、子久支、古老に真澄の鏡を授け給いて、これを我が御魂と取り託して多和の水門を祓戸と定め、国人ここに集いて祓いせば、犯せる罪もおのずから失わせむ。また朝夕に沖行く五百船、千船を守らむと宣いき。ここにその御鏡を御霊代として多和大神と鎮めましき。」とあり、祓いの神として現在に至っています。

相殿については、寛平元年己酉(八八九)冬十二月に、大祝正六位讃岐朝臣春雄が神明の託宣によって前記六柱の神を勧請して多和八幡宮と称え、産土神として尊崇してきました。延喜式内社であり、元慶元年(八七七)には従五位のうえに叙せられました。当時の鎮座地は現在の志度寺の境内にありまして、社頭は志度寺伽藍とともに度々の荒廃があり、殊に戦国時代の文明十一年(一四七九)の兵火かかってからは小社でありましたが慶長十九年(一六一四)に当時の領主である生駒近矩により再興され、社頭も寄進されました。

寛文十一年(一六七一)六月に当時の讃岐国高松藩主松平頼重が志度寺再興に際しまして、今の鎮座地に社殿を新営いたしまして遷宮されたのが現在の本殿であります。その後、明治にいたっては郷社讃岐三ノ宮として広くあがめられています。

祭典日

歳旦祭 一月一日 秋季例大祭 十一月第二土・日

節分祭 二月三日 新嘗祭 十一月二十三日

建国祭 二月十一日 大祓祭 十二月三十一日

祈年祭 二月十八日

夏越大祓祭 七月三十一日

創建時期は不詳ですが、『讃岐國官社考證』は「神代に速秋津姫尊、多和鄕の渚に來まして、此水門は、甚深くて、よき須美戸なりと宣ひて、鎭座るを、後世に、鄕名を以て、多和神社と稱奉りて」とし、神代の鎮座とします。

また同書に、「然るに寛平元年(889)に、八幡大神を、相殿に勸請奉りて、土人、多和八幡宮と稱りて産土神と崇奉れり云々」とあり、寛平元年に八幡神を勧請した旨もみえます。

 

なお、『讃岐國官社考證』は当社祀官の松岡調による書です。

松岡調は、多和郷は中古、名を志度郷と改めたこと。当社は相殿に八幡大神を祀るようになってから多和神社の名が廃れたしまったこと。当社の旧鎮座地の辺りに「多和」という地名が残っていること。この浦の一名を「玉の浦」というが、それは「たわの浦」の転訛であること…等を述べた上で当社を延喜式神名帳にみえる「讃岐国寒川郡 多和神社」であると主張します(ただし異説も多い)。

 

また三代実録 元慶元年3月4日乙巳条にみえる「授讃岐国…従五位下多和神従五位上」の多和神であるとも。

 

かつては1.5km程東にある志度寺の境内に鎮座しており、近世初頭に現地へ遷座。

遷座の時期には以下の2説あり。

  • 文明11年(1479)兵火に罹り、元和9年(1623)志度寺住職圓養によって遷座。
  • 寛永21年(1644)志度寺造営の際、高松藩主松平頼重によって遷座。

 

明治4年郷社列格。

 

香川県神社誌

延喜式内讃岐国二十四座の一にして延喜神名式に『讃岐国寒川郡小多和神社』とありて鎮座の年代は遠く神代に属すと云ふ。社記によれば、神代の昔速秋津姫命多和の渚に来りまして、この水門は潮いと深くして我が心須美戸と宣ひ此処に止まり給ふ。去るに及びて土人大久支古に真澄鏡を授け給ひて、こを我が御魂と取託て多和の水門を祓戸と定め、国人此処に集ひて祓せば犯せる罪も自ら失せなむ。又沖行く五百船千船を守らむと宣たまひき。こゝに其の御鏡を御魂実として多和大神と鎮めましきと云ふ。志度の地古くは多和と称し、玉の浦は多和の浦の転訛にして、讃留霊記の付録にも多和神社志度村多和志度旧名なりとあり。讃岐新撰風土記に、古事記垂仁天皇の条に自山多和引越御船云々とあるを引きて多和の名は地形より起れるものなるべしと云ひ、又郡郷疏証に志度浦一名玉浦玉多和一声相近亘志度東末西末三邑称志度郷是古郷域也とあるを引きて一郷の鎮守は多和神社なりと云へり。三代実録に『元慶元年三月四日乙巳授讃岐国従五位下多和神従五位上』とあり。延長元年祝従七位岡田吉守記する所の社記には、仁寿元年始めて正六位上を授けられ、延喜八年に国司の請によって従三位に叙せられ同二十一年明神の列に預らせ給ふとあり。寛平六年大祝讃岐朝臣春雄が信託によりて相殿六柱の神を奉斎してより多和八幡宮と称せらる。

当社は当国三の宮にして土人今尚三の宮と呼ぶ。古くは志度寺の傍に鎮座せしが文明十一年兵火に罹り、元和九年志度寺住職円養これを現今の地に遷座し、百姓彦太夫をして奉仕せしめたることを志度寺文書八幡宮由来之事、志度寺縁起闇推記等に見ゆ。又寛永二十一年国主松平頼重志度寺造営のせつの遷座とも云へり。志度大宮とも称せられ、生駒家分限帳に社領十石志度之宮とあり。慶長年中生駒近規の社殿造営あり、松平頼重の神輿寄進等あり。高松藩家老大久保家の崇敬殊に厚かりき。

明治四年郷社に列せられ、同四十年九月二十一日神饌幣帛料供進神社に指定せらる。

社の杜公園?

ちなみに神門の先を右折せず直進すると道が続いています。

 

境内図によればここは社の杜公園というそうですが…

 

上まで登りきると、鳥居と木の柵に囲われ整然と並んだ多数の祠があります。由緒等全く表示されていないため不明です。

何となく神秘的な雰囲気の空間。もしかして奥都城だったりするのかしらん。鳥居の中は写真は撮りづらい雰囲気でしたので、撮らず。

御朱印

御朱印はあります。

参拝当時(2015年)は宮司さんが香川県神社庁の庁長を務められており、お忙しくご不在にされていることもままあるようでした。2019年現在は既にご退任されているようです。

現状はわかりませんが、御朱印授与品ご希望の方(特に遠方の方)は、念のため事前連絡があった方が無難かもしれません。

アクセス

国道11号を志度駅から少し西に進み、ガソリンスタンド向かいの踏切を渡ると多和神社の社号標と一の鳥居があります。

私はこの一の鳥居手前の駐車場に駐車してしまったのですが、ここは横にある東林寺の駐車場のようで。

ちゃんと多和神社の敷地内に停めるのであれば、一つ東の踏切を渡る、もしくは志度高校の南の道から境内に入り駐車するのが正しいようです。道は狭いですが…

 

ここらが駐車場。

神社概要

社名多和神社(たわじんじゃ)
旧称多和八幡宮
住所香川県さぬき市志度126
祭神速秋津姫命
相殿

大鞆和気命

帯仲津彦命

天照大日孁命

息長帯姫命

大雀命

倭武尊

社格等

式内社 讃岐国寒川郡 多和神社

日本三代実録 元慶元年三月四日乙巳 多和神 従五位上

日本紀略 延喜六年二月七日 連岳神 従五位下 (境内社 連岳神社)

旧郷社

讃岐国三宮

御朱印あり
駐車場あり
備考かつては志度寺に隣接して鎮座

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