琴弾八幡宮(観音寺市八幡町)

琴弾八幡宮。

観音寺市の琴弾山に鎮座。

元四国八十八ヶ所の六十八番札所で、現在は新四国曼荼羅霊場の二十三番札所およびさぬき十五社の十四番札所。

境内

一の鳥居

 

社号標。一の鳥居を潜ると、右手に山頂社殿への参道階段があります。

 

二の鳥居。承応2年(1653)丸亀藩主山崎虎之助治によって寄進。

 

焼き物の狛犬

 

随神門

 

狛犬

 

参道。山頂の社殿まで378段の階段を登ります。参道には複数の境内社があります。

 

三の鳥居

 

狛犬

 

木の鳥居。元暦2年(1185)源義経屋島合戦勝利の後平家追討を祈願して奉納。

 

木の鳥居脇の狛犬

 

手水舎

 

青銅鳥居。この先が山頂です。

 

階段上の狛犬

参道境内社

鹿嶋神社

 

船霊大神

 

須賀神社

 

稲荷神社

 

宮阪天神

 

高良神社・松童神社

 

脇道に産巣日神社の鳥居、立札

 

産巣日神社、横に岩と石柱

 

五所神社

 

風之神社

 

蔵谷神社

 

青丹神社

 

昔の狛犬?吽形だけ。

社殿

拝殿

 

本殿

山頂境内社

武内神社

 

住吉神社

 

若宮

社殿後方

境内後方の階段を下りると車道に出ます。(車道側からの写真)

 

海に向こうに見えるのは伊吹島か。ここからもう数十m歩いたら、下に広がる銭形砂絵を見られたのですが、当時は知らなかったため見落としていました。

麓境内

階段下には神幸殿と社務所、また境内社があります。

一の鳥居脇の祠

 

早苗塚

 

庚申神社

 

琴弾女神之像

 

山之神神社

 

琴弾戎社

 

名称不明社

 

祠と石仏がひっそり。神恵院と一緒だったときの名残?

 

赤い橋

 

 

神幸殿。左の見切れている建物が社務所

由緒

源平屋島合戦の由来

源平屋島合戦は「吾妻鏡」によると寿永四年(一一八五年)二月十九日から三日間の戦いだったとされている。ここ琴弾山がこの合戦で源氏の勝利にゆかりの地であることを知る人は少ない。

屋島での戦いは源氏が優勢のうちに進められていた。平家水軍の総大将、能登守教経は、起死回生の作戦として伊予大洲城主、田口佐衛門教能が伊予路の源氏勢を平定したあと一千騎をひき連れての到着を待って、屋島沖から手勢を加えて一挙に源氏勢をはさみ討ちにすることを考えていた。

この作戦は順調に進んだかに見えたが、知将義経は夢の中に見た教経の幻影からこの作戦を見破っていた。

屋島の源氏勢二百五十騎にとって敵一千騎の援軍では勝ちめのないことを知った義経は、腹心伊勢三郎義盛に命じ、田口勢が到着する前に説得によって食い止めることをはかった。

源氏興亡を双肩にした義盛は、手勢十六騎とともに、万一のときは討ち死を覚悟でよろいの下に白装束を着込んで浜辺伝いに西にとんだ。

義盛が田口勢と出あったのがこの琴弾山だった。二十騎足らずの敵に気をゆるした大将田口佐衛門教能は、義盛の申し入れに応じ、太刀をはずして十王堂の一隅で相対した。義盛の言葉は、屋島の合戦が源氏に勝運がほほえみ平家方の多くが討ち死にするか捕われの身となったこと。そのなかで教能の父阿部民部重能も武運を察して降参したということだった。

義盛の命がけの熱弁にまどわされた教能は「父捕わる」に心は大きく動揺した。「一門ことごとく打ち破られてはこのうえ戦っても無益なこと、屋島の戦いに間に合わなかったのが武運のつき…」と田口一千騎はこの地で源氏の軍門に降った。

まもなく敗れた平家の残党は屋島から海路、新三位中納言知盛の待つ長門彦島(下関市)に向って落ちて行った。ときに二十一日の夕暮れだったという。

琴弾八幡宮にいまも残っている「木の鳥居」は、屋島戦勝のしるしとしてその後源氏の側近が義経に代って奉納したとも伝えられる。

創建は伝承によれば大宝3年(703)。

『七宝山八幡琴弾宮縁起』〔応永23年(1416)権中納言藤原実秋が書記し、将軍足利義持の花押がある〕に「大宝3年3月西方の空俄に鳴動し、黒雲天を覆って日月光を失うこと三ヶ日夜、時に海浜に一艘の船が現れて船中より高妙神秘な琴の音が発せられ、万民が近づくと『我は是八幡大菩薩なり』の御託宣と百皇鎮護、異敵降伏の本誓を垂れ給うた。止住する日証上人が『迷乱の凡夫、その言信じ難し』と証を求めたところ、その夜これまで海水の湛えていたところが竹林と変じ、夜明け前には砂浜が蒼松の林と化した。そして、その夜再び海上の船中より琴の音が響き渡って聞く者に回心を起こさしめた。奇瑞の霊験に驚いた上人は、童男童女数百人を集めお船を山上に引上げ、御神体に琴を添え神殿を造営、琴弾八幡宮と称して奉祀したのが当社の始まりである」と記されています。

また徳治2年(1307)の「七宝山縁起」によると、大宝3年に神宮寺宝光院が建立されたといいます。

 

その後大同2年(807)に空海が第7世住職として入山。瑠璃、珊瑚、瑪瑙などの七宝を埋め、地鎮をしたことから、寺名の神宮寺を「七宝山観音寺」に改めます。同年、琴弾八幡宮の本地仏である阿弥陀如来を描いて本尊として祀り、寺の名を「琴弾山神恵院」とします。

これらがそれぞれ、現四国八十八ヶ所第69番札所の観音寺と、第68番札所の神恵院の始まり。

 

皇族の崇敬厚く、桓武・平城・亀山・後陽成各天皇の勅願・祈祷所とされました。 後陽成天皇が「八幡大菩薩」の宝号を下賜したといいます。

また、源家との縁深く、源頼義は前九年の役の際に代参を立てて願文を納め、八幡太郎義家は頼義の志を継いで社殿を造営、神馬を奉納(この時初めて絵馬奉納の記録あり)。次いで義経は屋島合戦の後、平家追討を祈って名馬望月と木の鳥居を奉納、頼朝は一千貫文の土地を寄進しています。

 

当社は明治までは四国八十八ヶ所の第68番札所でしたが、神仏分離令により琴弾神社と神恵院に分離。

神恵院は観音寺境内に移転するとともに八幡宮に安置されていた阿弥陀如来像も西金堂に移され、札所も神恵院に移りました。

 

明治維新後郷社に列格、昭和3年県社に昇格。

 

香川県神社誌

大宝三年(紀元一三六三)の鎮座と伝へらる。当社所蔵の縁起(応永二十三年権中納言藤原実秋之を録し、将軍足利義持自ら官職と花押とを記す)によれば、大宝三年三月西方の空俄に鳴動し、黒雲天を覆ふこと三昼夜、時に海浜に一舟ありて琴の音を発す。其の曲高妙神秘にして嶺の松に通ふ。里人近づき見るに、我は八幡大神なり。帝都を守護せむとして宇佐より来り此の地の風光を見て去るに忍びずと託宣あり。茲に於て童男童女数百人を集め、其の舟を山上に引上げ神殿を造営し琴弾八幡宮と奉称すと云へり。三代物語、全讃史等詳さに之を記す。西讃府志に右は貞観元年の事ならむと云へり。

其の後神威愈熾にして、皇室及び武門の崇敬厚く、社記に記されたる主なるものを挙ぐれば、延暦二年八月朔、勅願により修法結願の後封戸三百戸を付せらる。仁和四年国守菅原道真祈雨の為め参拝、永承六年源頼義の代参伊豆守満綱参拝願文を納む。永保三年源義家代参園田右衛門尉時包参詣。嘉保二年源義家本社を造営、同年三月代参として新羅三郎義光参詣供米百石及び幕を奉納す。大治二年義家代参井上三郎太夫勝奥参詣米二十石錦巻物を奉納す。元暦二年源義経参拝願文及び神馬を奉納。同年五月源頼朝より、備中国窪屋郡酒津郷に於て千貫文の地を供米料として寄進せらる。建保元年八月八幡宮の勅額を賜ふ。文永四年八月朔日より二十日に至る間主上宣命により天下安全の祈祷を修す。弘安四年国守より下知ありて敵国降伏の祈祷を行ふ。正慶元年妙法院尊澄法親王御代参願文を納めらる。天文二十年九十九山城(室本)城主伊予守氏頼社殿を再建し社領五百石を奉納す。天正十三年国守仙石秀久参詣、社領五十石及び太刀一振を奉納す。後陽成天皇、八幡大菩薩の神号宸翰を下し給ふ。これより勅願所と云ひ伝ふ。承応二年丸亀藩主山崎虎之助石鳥居を奉納す。貞享元年二品尊澄法親王「琴弾八幡宮」の額字を奉納せらる。延享二年丸亀藩主京極高矩社殿を再建す。大正十一年十一月閑院宮殿下御参拝幣帛料を納め給ふ。右の外国守城主の崇敬厚く、参拝祈願の記事頗る多し。

明治初年までは三郷二十四ヶ村(現今の柞田村、常磐村、高室村、観音寺町)の氏神にして、又四国霊場八十六番の札所たり。明治維新の際郷社に列せられ、同四十年九月二十一日神饌幣帛料供進神社に指定せらる。昭和三年九月二十二日県社に昇格せらる。

当社は琴弾山上に鎮座し、隣接せる琴弾公園は西讃に於ける風光絶佳の名勝にして、燧灘に面して眼下に有明浜を俯瞰し甚だ眺望に富む。

御朱印

御朱印はあります。

神社の御朱印と、新四国曼荼羅霊場の御朱印とがあります。

麓の社務所で拝受可。山上の社殿の方には常駐されていないのでご注意。

アクセス

観音寺駅の北西1km弱のところに三架橋があります。

 

橋を渡ると左手に鳥居が見えますので、そこから境内に入りますと左側が駐車スペースになっています。

山頂まで車で登ることも可能です。

 

ここから一方通行の登り道があります。山頂付近に駐車場あり。長い参道を登るのがつらい方には便利。

神社概要

社名琴弾八幡宮〔琴彈八幡宮〕(ことひきはちまんぐう)
住所香川県観音寺市八幡町1-1-1
祭神

品陀和気尊

息長足姫尊

玉依姫命

合祀

大山咋命

猿田彦命

火須勢理命

社格等旧県社
札所等

新四国曼荼羅霊場二十三番

さぬき十五社十四番

旧四国八十八ヶ所六十八番

御朱印あり
駐車場あり(麓・山頂)

 

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