立鉾鹿島神社。
いわき駅東約3.5km、常磐線沿いの農地の中に鎮座。
三代実録 貞観8年(866)正月20日丁酉条に見える「(鹿島)大神之苗裔神卅八社」の一つと見られる神社。
境内
境内左手(西側)が現在の参道なのですが、かつては社殿正面(南側)の道が表参道で、常磐線の線路が参道を横切る形で通ってしまったため現在の西参道が使われるようになったようです。
鳥居
ここから南に300mほど行くと社号標があります(位置)。
かつての参道
参道を分断する常磐線
神社側から
線路への立入は禁止され、踏切もないため、表参道を通っての参拝はできません。
旧参道の両部鳥居
現参道からだとこの鳥居をくぐらず参拝となるのですが、せっかくなので旧参道の線路手前まで行きこの鳥居をくぐって参拝しました。
現在の参道である西参道
鳥居に支えがあります。地震で被害を受けたのでしょうか。
社殿
扁額
屋根に幣が立っていました
本殿
境内社
菅原神社
社殿横~後方には岩山があり、岩山を挟んで左の方に鳥居と石段があります
伏見稲荷神社
西参道の鳥居脇に鎮座。
立鉾稲荷神社
参道脇の石段を登った先に鎮座。鳥居から祠まで真っ赤です。
山倉神社
立鉾稲荷神社の横に鎮座。
参道脇にあったこちらは詳細不明
由緒
立鉾(たてほこ)とは武甕槌神が東北平定の際この地に至り山に登り鉾を立て、これから進攻する東方を眺望したことから立鉾の名で呼ばれるようになった。
社伝によると、平城天皇朝大同二年(西暦八〇七年)魍魎が現われ神職藤原朝臣信次が辻に鉾を立て殿内に籠もり祈願し、退治したと伝えられる。
社殿は当初山頂に建立されたが、その後天暦三年(西暦九四九年)領主赤目崎住前出羽守平朝臣則重により山下東北隅の地を卜し遷座された。天正元年(西暦一五七三年)焼失し、同五年領主岩城左京太夫平親隆により現在の地に造営された。以後歴代の領主の信仰篤く社殿修復・社参祈願・奉納品(神輿・纏等)と多くの寄進がなされた。中でも「猿田彦(さるたひこ)」面は、いわき市の有形文化財に指定されている。江戸時代には正一位立鉾大明神と称された。
創建時期は不詳。
社伝に、大同2年(807)魍魎が現われた際、当時の神職藤原朝臣信次が辻々に「鉾」を立て、社内に籠もり祈願し、退治したという伝えがあり、これ以前には創祀されていたとみられます。
立鉾という名の由来は、武甕槌神が東北を平定するためこの地に来た際、当時「塩干山」と呼ばれていた山に登り「鉾」を立て、これから進む東方を眺めたことから。…というのですが、上記の神職が鉾を立てた伝承が由来になっているようにも思えます。
三代実録 貞観8年(866)正月に「常陸國鹿嶋神宮司言、大神之苗裔神卅八社在陸奥國。菊多郡一。磐城郡十一。云々」とあり、当社は鹿島大神苗裔神の磐城郡11社の一つと見られています。
社殿はかつて山頂にあり、天暦3年(949)に山の下東北隅に移転。天正元年(1573)焼失し同5年現在地に移転と伝えられます。
旧地の山頂とは現社殿裏の山の上を指すのか、違うのか。普通に考えれば塩干山=旧地=現社殿裏の山なのでしょうが。
御朱印
御朱印はあります。
社殿向かいに社務所らしき建物があったのですが無人だったため、社殿右手のご自宅へ。そちらで頂けました。
アクセス
いわき駅の方から国道399号を東に向かい、平塩交差点(位置)で左の脇道へ。
900mほど先(位置)で左に折れます。以前はここに出羽神社(立鉾鹿島神社の北西にある神社。未訪)の案内板が立っていてわかりやすかったのですがなくなってしまったようです。
踏切を渡った先、右手に参道(入口位置)があります。
境内に駐車可能です。
神社概要
社名 | 立鉾鹿島神社(たてほこかしまじんじゃ) |
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通称 | – |
旧称 | 立鉾大明神 |
住所 | 福島県いわき市平中神谷字立鉾33 |
祭神 | 武甕槌神 |
社格等 | 日本三代実録 貞観八年正月廿日丁酉 (鹿島)大神之苗裔神卅八社(磐城郡十一) 旧郷社 |
札所等 | – |
御朱印 | あり |
御朱印帳 | – |
駐車場 | あり |
公式Webサイト | http://www.tatehoko.com/ |
備考 | – |
参考文献
- 「立鉾鹿島神社」, 神社本庁教学研究所研究室編『平成「祭」データ(CD-ROM)』全国神社祭祀祭礼総合調査本庁委員会, 1995