石土神社(南国市十市)

石土神社。

南国市十市に鎮座。石土池西南、海まで500m程の場所。

式内社 石土神社に比定される神社。

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境内

一の鳥居

 

扁額

 

狛犬

 

二の鳥居

 

手水鉢

 

社号標

社殿

拝殿

 

扁額

 

本殿覆屋

境内社

蔵王権現

石土山と石土洞

境内後方に大きな岩山があって、下が洞窟になっています

この洞窟は石土洞(阿戸の鍾乳洞)と呼ばれる鍾乳洞。東の穴を男蛇(雄蛇・白蛇)の穴、西の穴を毒蛇の穴といい、東の穴では雨乞いが行われたそうです。

この洞窟には、讃岐の大野原、萩原寺地蔵院に通じているという伝説があります。他に、伊予国吉田藩領に続いているという説も。また神社そばの石土池も、讃岐の満濃池に通じていると言われています。

 

鎖が下がっているところもあります

昔の鎖場でしょうか。

 

蔵王権現の右奥あたりから山に登る道があります

 

ちょっと足元が不安定なところもあります

 

登っていくと途中に祠

 

登りきったところに祠が二つ

由緒

延喜式石土神社記

御本殿 伊勢皇大神宮御下賜御料

御祭神 石土毘古命勧請年暦不詳

在十市ノ里池ノ端一日本記二曰伊弉諾ノ尊入レ水ニ吹二生ス磐土命一続日本後紀二曰承和八年八月辛ノ丑以二土佐ノ國石土ノ神ヲ預シム宮ノ社ニ一

五十四代仁明天皇御宇承和八年(千百十年前)

六十代醍醐天皇の延喜五年(千五十二年前)延喜式格制定

延喜式社土佐の國二十一社の其の一にして神明帳に成る日本國内上格の御官社は神祇官より直接幣帛を捧げらる谷重遠先生の土佐の國式社考に詳なり。

御神霊は神秘にして掛巻も畏けれども伊邪那岐の命の御子綿津見の命の次に生れさせ給ひし上筒男の命中筒の男命底筒男の命の御替名が此大神である事は本居宣長先生の古事記伝に明なり。

此大神は海上鎮護の神にして漁業は素より農商業家内安全にも等しく霊徳高く長宗我部山内公歴代崇敬の御神元海南学校教諭寺石正路先生史蹟調査の結果によると三百有余年前修験者此神社より伊豫國新居郡瓶ヶ森に勧請し延喜式社なりと衆人に呼かけても朝庭に於せられては御記録の通りにて此郡此村にして寸分の紛れなしとて御変更なかりしとか其の後伊豫新居周布の境なる伊豫の地高嶺に遷座してより本名高嶺の名は次第に廃れ現在の石鎚山となる石鎚神社は延喜式社に非ず、(中略)石鎚神社は元土佐の國より分霊したるものにして土佐長岡の石土毘古の命と原祠と稱すと記せり(石鎚山先達記に有り)

当石土神社は、夙に太政官符に列し日本有数の神社にも拘らず明治初年より大正の末期迄おろそかとなり誠に恐れ多き次第なりしを竹内丑太郎が再興し横田早馬達の努力により今日の隆盛をみるに至りしは限りなき大神の御威徳と一般信者の奉献の賜として記す。

昭和三十二年丁酉七月吉日

創建時期は不詳。

 

続日本後紀 承和8年(841)8月4日条に「以土左國美良布神。石土神。並預官社。」とみえる石土神、また延喜式神名帳にみえる「土佐国長岡郡 石土神社」に比定されています。

 

中世後期には抗争の場となり荒廃。

元禄7年(1694)に土佐藩士吉田源八郎が参詣の際に衰廃を嘆き、参詣人とともに再興。

元禄16年(1703)には藩主山内豊房が参詣し社殿・鳥居を建立、弘化4年(1847)には山内豊矩が額を奉納するなど藩主一族による営繕修理があった模様。

 

『土佐州郡志』には「石土明神社は土人これを峯寺観音の奥院と謂う」とあるものの、これは禅師峰寺住職の創作とのこと。

また延享4年(1747)の『峯寺因縁由緒書』には当社は八葉山上にあって峯寺観音の奥の院であったとあるものの、これも根拠のないことだそう(いずれも式内社調査報告による)。

 

いくつか旧鎮座地の説があるようです。

  1. 洞窟の穴の入口のところにあったという説『土陽淵岳志』『類聚土佐故事』
  2. 石土山(丸山)の麓の巌窟の中にあったという説『土佐國石土宮記』
  3. 石土池の端にあったという説『土佐國式社考』
  4. 洞の上に鎮座したという説『式内社調査報告』

いずれもにしても現在地とほぼ変わりないようです。

 

社名の読みについていくつか異なる表記が見られ、公式Webサイト等では「いわつち」、南国市のWebサイトでは「いしつち」、『平成祭データ』では「いしづち」。

延喜式神名帳では写本によって「イハツチ」「イシツチ」の訓に分かれます。

祭神から考えれば、「いわつち」が本来の読み…?

 

祭神については諸説あり。

  1. 石土毘古神 『土佐國石土宮記』(先代旧事本紀による)
  2. 磐土命 『土佐國式社考』(日本書紀による)
  3. 上筒之男命 『土佐國石土神社考』(古事記による)
  4. 主神 磐土命 相殿神 赤土命・底土命『南国市史』
  5. 主神 磐土神 相殿神 石土神・底土神『角川日本地名大辞典』『日本歴史地名大系』

このうち、磐土命と上筒之男命は同神であると言われています(上筒=磐土 音韻変化と考えられることから)。

石鎚神社との関係

『愛媛面影』では以下の通り、当社を伊予の石鎚神社の前神としています。

愛媛面影(国文学研究資料館の古事類苑データベース より引用)

「伊豫高嶺 周敷郡に聳て、東は新居に渡り、西は浮名郡に及べり、今世に石鐵イシツチ山といふ山是なり、此山の東南は土佐國長岡郡にて、神名帳に所謂長岡郡石土神社あり、此社石鐵山の東南の麓にて、俗に是を前神と云、山上の神を奧院と云、此神ノ名は、古事記に次生石土毘古イハツチヒコ神、註訓石云伊波とあると同じ神にて、伊波都知なること、後世誤ていしつちといひけるなりと、土佐高明志といふものにみえたりと、玉井春枝かたりき…」

これについて『式内社調査報告』では以下のように記しています。

式内社調査報告

石土神社の祭神そのものが、傳えによれば石土毘古神から磐土神へ移つたといはれ、石土毘古神は石や土を神格化したものと推察する説があり、上筒男(磐土)の筒は星を意味するとともに、「ツ津」すなはち船の泊まる場所を象徴してゐるともいはれ、星は航海の目標となり、津は船泊りであるところから、航海を掌る神として信仰され、石土は石鎚山の信仰と結びついて修験の場とされるやうになつたといふ。

 

実際のところ、伊予の石鎚神社と土佐の石土神社が結び付けられたのは『愛媛面影』が書かれた幕末頃に始まるらしく、元来両社に関係があったのかどうかは不明。

そもそも『愛媛面影』にて論拠とされている土佐高明志という資料が謎。調べても見つかりません。

御朱印

御朱印の有無は不明。

神社公式Webサイトを見ると近隣の新宮神社、女躰神社と兼務されているようです。

新宮神社は御朱印があるようなので(ネットで見かけました)、もしかすると石土神社もあるかも。

明記はされていませんが新宮神社が本務社っぽいので、新宮神社社務所へ行くか事前連絡がよいかと思います(位置)。

アクセス

高知龍馬空港から県道14号を西に進み、石土池南西の交差点を右折。

するとこんな看板が。

 

このすぐ北に神社へ降りられる車道があります

 

このあたり。

車は鳥居手前あたりに停められます。

神社概要

社名石土神社(いわつちじんじゃ)
旧称

石土大明神

岩土大明神

石土明神

石土宮

住所高知県南国市十市4327
祭神

石土毘古神

『土佐國石土宮記』(先代旧事本紀による)

磐土命

『土佐國式社考』(日本書紀による)

上筒之男命

『土佐國石土神社考』(古事記による)

主神:磐土命

相殿神:赤土命、底土命

『南国市史』

主神:磐土神

相殿神:石土神、底土神

『角川日本地名大辞典』

『日本歴史地名大系』

社格等

式内社 土佐国長岡郡 石土神社

続日本後紀 承和八年八月辛丑(四) 石土神 官社

旧無格社

御朱印不明
駐車場あり
公式Webサイトhttp://www.amy.hi-ho.ne.jp/aicon-m/

(上記、新宮神社サイト内の石土神社お山開きのページ)

参考文献

『式内社調査報告 第二十三巻 南海道』 皇学館大学出版部

 

『日本歴史地名大系 40 高知県の地名』 平凡社


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