須賀神社。
新温泉町宮脇に鎮座。
式内社 湏加神社に比定される神社。
境内
境内
鳥居
扁額
本殿横の大ヒノキ
指定対象 ヒノキ 1本
指定年月日 平成7年3月31日
地域の人々の暮らしを永年見守ってきたこのヒノキは、地域のシンボルとして親しまれている。
ヒノキとしては県内第3位の巨木である。
社前を流れる岸田川
社殿
拝殿
本殿覆屋
本殿
由緒
創建時期は不詳。
『但馬神社系譜伝』は大化3年(647)、校尉立身須賀美津男がその祖・須賀狭津男命(宇多上大中彦命)を祀ったのに始まるとします。
三代実録 貞観10年(869※)閏12月21日庚戌条に見える「授…但馬国正六位上…菅神…従五位下」の菅神は当社ではないかとみられています。
(※貞観10年はユリウス暦868年だが12月途中から869年)
延喜式神名帳にみえる「但馬国二方郡 湏加神社」についても、当社に比定されています。
ただし神社明細帳には永久2年(1114)創立とあるそう。『式内社調査報告』はこれを再建の誤伝かもしれないとしています。
二方郡五社の内の一ノ宮として尊崇され、鎌倉時代の『太田文』によれば当時神田六町二八〇歩を所有していたようです。
明治6年(1873)村社列格。
現祭神は道中貴神(みちなかのむちのかみ)。『神名帳考証』『美方郡誌』『兵庫県神社誌』等による説。
道中貴(みちなかむち)とは地祇本紀に見える宗像三女神の別名で(一般には日本書紀に見える「道主貴(みちぬしのむち/ちぬしのむち)」が知られているかと思われる)、『神名帳考証』も「古事記之速須佐之男命白于天照大御神我心晴明故我所生之得手弱女能登国菅忍比咩神社」としているためこの認識だと思われます。
ちなみに、『平成祭データ』では道中貴という名の神を祀っている神社は但馬の足鹿神社のみ(ただし抜け漏れが多いので他にもある可能性大。当社も祭神が空欄になっている)。
そして足鹿神社の由緒書には「御祭神「道中貴命」は、平安時代初期に天皇の命により、都からこの地方に派遣せられ、この地において政務にあたるなど、功績のあった人として祀られたものと伝えられている」とあります。よって、足鹿神社においては宗像三女神ではない神を指すようなのです。宗像大社のサイトの解説によれば、「貴(むち)」とは最も高貴な神に贈られる尊称で、大日靈貴、大己貴、道主貴のみに与えられているそうなのですが、足鹿神社の祭神がなぜこの尊称を賜ったのかは謎。
とは言え、足鹿神社と当社の祭神が関係あるかは不明。そもそも足鹿神社の祭神が当初から上記由緒にある「道中貴命」であったとは考えづらいです(足鹿神社も式内社比定社であり、真に式内社であれば延喜式制定の頃に平安初期の人を祀っているのは無理がある)。
別の祭神説として、素盞嗚尊。かつての神職家であった穂積家に伝わる文書に「祭神素盞嗚尊ニシテ往古出雲ノ素鵝ヨリ勧請セシ神社ナルヲ以テ素鵝大明神ト云フ」との記述があるとのこと。
また『但馬故事記』『但馬神社系譜伝』は須賀狭津男命(宇多上大中彦命)を祭神としています。
御朱印
御朱印の有無は不明。
アクセス
新温泉浜坂ICから県道47号→国道9号のルートで鳥取方面に向かうか、逆に岩美町の方から国道9号を新温泉町の方へ向かいます。
県境から2kmほど、新温泉町千谷の分岐(位置)で南に折れ県道262号へ。
400m程先(位置)で分岐を左に入って橋を渡り、突き当りを右に行けばすぐ神社。
参道脇に駐車スペースがあるのですが、これは隣にある宮脇公民館のものだと思われるので、参拝者が利用してよいかは不明。
神社概要
社名 | 須賀神社(すがじんじゃ) | |
---|---|---|
通称 | – | |
旧称 | – | |
住所 | 兵庫県美方郡新温泉町宮脇193 | |
祭神 | 道中貴神 | 現祭神 |
素盞鳴尊 | 穂積家文書 | |
須賀狭津男命(宇多上大中彦命) | 『但馬故事記』 『但馬神社系譜伝』 | |
社格等 | 式内社 但馬国二方郡 湏加神社 日本三代実録 貞観十年閏十二月廿一日庚戌 菅神 旧村社 | |
札所等 | – | |
御朱印 | 不明 | |
御朱印帳 | – | |
駐車場 | なし | |
公式Webサイト | – | |
備考 | – |
参考文献
- 「須賀神社」, 『日本歴史地名大系』(データベース「JapanKnowledge」)
- 「須賀神社」, 神社本庁教学研究所研究室編『平成「祭」データ(CD-ROM)』全国神社祭祀祭礼総合調査本庁委員会, 1995
- 式内社研究会編『式内社調査報告 第十九巻 山陰道2』皇學館大学出版部, 1984