白河神社。
白河駅の南約9km、国指定史跡である白河関跡に鎮座。
式内社 白河神社の論社。
境内
社頭
社号標
白河関は、古くよりみちのくの関門として歴史にその名を刻み、また文学の世界では歌枕として数多くの古歌に詠まれた場所である。
関の位置については久しく不明であったが、江戸時代後期、時の白河藩主松平定信の考証により、この地が白河関跡であると断定され、寛政十二年(一八〇〇)に「古関蹟」の碑が建てられ、今日に至っている。
関が置かれた年代については不明であるが、延暦十八年(七九九)、承和二年(八三五)の太政官符には「白河剗」の名が認められることや歴史的な背景からみて、大化の改新以後の7・8世紀頃には存在していたものと考えられる。
昭和三十四年から三十八年までに実施された発掘調査では、竪穴式住居跡や掘立柱建物跡、空堀、土塁、柵列などの古代から中世にいたる遺構が発見され、縄文土器、土師器・須恵器・灰釉陶器、鉄製品などの古代から中世にいたる遺物が出土している。出土した土師器の中には、「門、大室、□舟」などの墨書土器がみられる。
白河関の全体像についてはまだ未解明な点もあるが、現在も奥州三関の一つとして多くの人々に親しまれ、歴史のひとこまに触れることができる場となっている。
また、春には藤やかたくりの花が咲き、訪れる人々の心を和ませている。
史跡 白河関跡の碑
狛犬
手水舎
白河藩主松平定信(楽翁)が寛政十二年(一八〇〇)年八月、ここが白河関跡であることを断定し、建立した碑である。
源義家が安部貞任攻め(前九年の役)のため白河関を通過する際、この楓に幌をかけて休息したと伝えられる。
さすがにそこまで古い木には見えません…
仮に源義家が実際にここで楓に幌を掛けていたとしても、当時あった別の木でしょう。
鳥居
参道
治承四年(一一八〇)、源義経が平家追討のため平泉を発し、この社前に戦勝を祈願、この松に矢を射立てたと伝えられる。現在は、少量の根株を残すのみである。
根株なんてあったかな…
狛犬
社殿
拝殿
扁額
本殿
本殿の扁額
境内社
八雲神社
稲荷神社
国津神社
大山祇神社
須美能榮神社
左から雷神社、若木神社、愛宕神社、神明神社、大山祇神社、熊野神社、天神神社
石祠
石祠
石祠と燈籠
石祠群
碑や巨木
古歌碑
ちょっと読めません。
が、案内板があるので内容がわかります
「白河関」に題材をとる平安時代の著名な和歌三首を歌碑としたものである。
平兼盛(?~九九〇)
「便りあらば いかで都へつげやらむ 今日白河の関は越えぬと」(『拾遺和歌集』)
三十六歌仙の一人、平兼盛が奥州に下り歌枕の白河関を越えた感激を都の知人にどうやって知らせようかと詠んでいる。
能因法師(九八八~?)
「都をば 霞とともに立ちしかど 秋風ぞふく白河の関」(『後拾遺和歌集』)
風狂数奇の歌人、能因法師が奥州に旅した際、白河関で詠んだ歌。都と白河関の距離・時間を詠みこんだ著名な歌である。
梶原景季(一一六二~一二〇〇)
「秋風に 草木の露をはらわせて 君が越ゆれば関守もなし」(『吾妻鏡』)
源頼朝(一一四七~九九)が、文治五年(一一八九)七月二十九日、奥州平泉の藤原氏を攻める途上、側近の梶原景季が、白河関の社殿で詠んだものである。
能因法師の和歌に関しては、実際には白河関を訪れず都で詠んだもの、なんて話もあります。
石碑
治承四年(一一八〇)、源義経が平家追討のため平泉を発し、この神社に戦勝を祈願するため旗揃えをした際に、この桜に源氏の旗を立てたと伝えられている。
おそらく写真左側の曲がった木?
鎌倉前期の歌人、従二位藤原宮内卿家隆が手植し、奉納したと伝えられる老木である。
推定樹齢約八百年、周囲約五メートル。
従二位の杉
写真では伝わりづらいですが、かなりの大きさです。そして枝の伸びっぷりがすごい。
関守の宿を水鶏(くいな)に問はふもの 芭蕉
社務所脇にある芭蕉の句碑。
由緒
名称・延喜式内社 白河神社
祭神・白河国造命(鹽伊乃己自直命) 天太玉命 中筒男命 衣通姫命
御利益・道中安全 家内安全 縁結び 安産 勝負開運 諸厄消除
境内社・八雲神社 稲荷神社 国津神社 大山祇神社
第十三代成務天皇五年(一三五年)白河国造命と天太玉命を奉祀し、勅命により鎮座、のち白河の関設置に当たり、関所南方に住吉、玉津島明神を祀る。
延暦十年(七九二年)永承七年(一〇五三年)平兼盛、源頼義・義家等が稲田を奉献し、寿永三年(一一八四年)三月九日源義経、文治五年(一一八九年)源頼朝等が金弊を奉献、元和元年(一六一五年)伊達政宗公社殿を改築奉納(本殿の棟紋に九曜星、縦三引きの紋あり)、享和元年(一八〇一年)に白河城主松平定信公が神庫を奉納。奥の細道曽良日記にも記された二所の関明神として、現在国技である大相撲二所の関部屋の関部屋の発祥地、八月に二所の関古式相撲が嵐祭りとして奉納される。
白河の関を境内とし、境内は昭和四十一年九月十二日付けで文化庁より国指定史跡「白河関跡」に指定された。
社伝によれば、成務天皇5年(135)に白河国造塩伊乃己自直命を祀り国内守護とされ、宝亀2年(771)天太玉命・住吉明神・中筒男命・玉津島明神・衣通姫命を祀ったとされます。
一般的に、当社は延喜式神名帳にみえる「陸奥国白河郡 白河神社」とされていますが、『大日本地名辞書』においては下記のように、同書の「陸奥国白河郡 伊波止和氣神社」であると論じられています。
大日本地名辞書下巻 岩代国西白河郡 伊波止和氣神社
神祇志料に「伊波止別神社は、旧東関山に在しを、後白坂に遷す」と云へる東関山は、即旗宿の古関山に外ならず。然も東関山の旧祠を、又式内白河神社に擬したるは、紛更甚し、白河神社は、蓋白河郷に在りて、今の鹿島神是なり。旗宿の関明神を、白河と相混ぜるは、文化中の古事考己に然り、近時の諸書、皆其誤を承けたり。
大日本地名辞書下巻 岩代国西白河郡 二所関明神社
陸奥の関明神は、即式内伊波止和氣神社にて、初め旗宿に在りしを、後世白坂にも分祀し、二所の名をつたふる者と知るべし。
「白坂に遷す」「白坂に分祀」と言われているのは、国道294号の福島・栃木県境にある境の明神のことを指します。
『吾妻鏡』文治5年(1189)7月29日条や『一遍上人絵伝』にみえる「関明神」、また宗祇の『白河紀行』にみえる「二所明神」は当社のことを指すとみられます。
近世までは住吉・玉津島の2社が祀られていましたが、明治2年(1869)合祀され社号を白河神社に復称。
「白河関跡(関の森遺跡)の発掘調査は、この地が古代の白河関跡であることを実証することを目的として実施されたものです。
昭和34年から5ヶ年にわたり、遺跡を大きくA・B・C地区と分けて行われた調査では、各地点から多くの遺構・遺物の存在が明らかになりました。
A地区・空堀と土塁に囲まれた平坦地を中心に調査が行われ、掘立柱建物跡、奈良・平安時代頃の時が出土しました。
B地区・白河神社の社殿裏側の平坦地を中心に調査が行われ、竪穴住居跡、鍛冶跡、柵列が確認されました。遺物は、墨書土器や鉄製品が多く発見されています。
C地区・遺跡の北側斜面部を中心に調査が行われ、柵列跡、門跡の可能性が考えられる柱穴が確認されています。
この5ヶ年にわたる調査において発見された遺構・遺物の特徴や遺跡の立地条件などを総合的に考察した結果、この地が古代関跡の条件にかなうことが明らかにされ、昭和41年に「白河関跡」として、国の史跡に指定されました。
御朱印
御朱印はあります。
社務所で拝受可。
アクセス
栃木・福島県道76号線沿いにあります。栃木と福島の県境の北2.5kmほどの場所。県道沿いに社務所があり、その向かいに駐車場があります。
駐車場(位置)
10台ほどでいっぱいになってしまうので、もし満車であれば少し南にある白河の関森公園の駐車場を使うといいと思います。
神社概要
社名 | 白河神社(しらかわじんじゃ) |
---|---|
通称 | – |
旧称 | 関の明神 二所関明神 |
住所 | 福島県白河市旗宿関ノ森120 |
祭神 | 白河国造命(鹽伊乃己自直命) 天太玉命 中筒男命 衣通姫命 |
社格等 | 式内社 陸奥国白河郡 白河神社 式内社 陸奥国白河郡 伊波止和氣神社 続日本後紀 承和十年九月庚寅(五) 伊波止和気天神 従五位下 旧村社 |
札所等 | – |
御朱印 | あり |
御朱印帳 | – |
駐車場 | あり |
公式Webサイト | – |
備考 | – |
参考文献
- 「白河神社」「白河関跡」, 『日本歴史地名大系』(データベース「JapanKnowledge」)
- 「白河神社」, 神社本庁教学研究所研究室編『平成「祭」データ(CD-ROM)』全国神社祭祀祭礼総合調査本庁委員会, 1995
- 式内社研究会編『式内社調査報告 第十四巻 東山道3』皇學館大学出版部, 1987