志磨神社。
和歌山市中之島、紀和駅の南200mほどの場所に鎮座。
式内名神大社 志磨神社に比定される神社。
境内
一の鳥居
社号標
狛犬
神門
手水舎
社殿左手前に建つ鳥居
狛犬
参道
社殿
拝殿
扁額
本殿
境内社等
天照皇大神宮
久嶋神社
天満神社
稲荷神社
境内社
大銀杏跡
先の昭和の大戦において和歌山でも空襲があり、神社近くに焼夷弾が落ちました。
その際この大銀杏が御本殿をお守りする様に三日三晩、燃え続けたと伝え聞いております。
今は大銀杏跡としての姿しかありませんが、内側には炭となった部分が残っており、当時の様子を伺い知ることが出来ます。
在りし日の大銀杏は、和歌山市駅からもひときわ目立ち、その姿は中之島の目印となっていたそうです。
由緒
御祭神 中津島姫命
配祀 生國魂神
御創建は悠久の昔今より約千八百年前神功皇后三韓征伐の?神助を厚く?謝され凱旋後武内宿禰を奉斎せしめられた
御社格 延喜式名神大社 縣社 御神階正一位
大同元年朝廷より神領七戸を寄せられた志磨神戸(???)と云う
古来朝野の信仰厚く神域広大社殿??を誇ったが南北朝時代神職領民等吉野朝に味方した為神領封戸の没収に遭ひ其の後足利義満公再興 更に天正年間豊臣秀吉紀州征伐の時郷党郷土防衛の為応戦兵火に罹って焼亡した 紀伊國名所圖繪にこの事??じて「今の結構は古の五ヶ一にも足らず」と有る 徳川時代に入り藩公の崇敬有り特に明治以降一般の崇敬厚く社運勃興の途についた
生成発展縁結びの神として尊崇をあつむ
創建時期は不詳。
『住吉大社神代記』に、三韓征伐の際に使った船を武内宿禰をして祀らせたのが志麻、静火、伊達の三社とする記述があり、上掲由緒の創建もそれに倣っているようです。
『式内社調査報告』は、古代はこのあたりは中州であり、当社創建以前からそれが神聖視され神の住む島「中津島」として尊崇されるに至った、とします。
新抄格勅符抄 神事諸家封戸 大同元年牒(806)に見える「嶋神 七戸 紀伊国」、和名抄 紀伊国名草郡に見える「島神戸」は当社の神戸のこととされるようです。
続日本後紀 承和11年(844)11月辛亥(3日)条に「奉授紀伊国従五位下志摩神。伊達神。静火神並正五位下」とあり、この後も当社と伊達・静火の三社は六国史上では必ず同時かつ同位に昇階しています。この三社は紀三所の神・紀三所社と称されたといいます。
文徳実録 嘉祥3年(850)10月乙丑(21日)条に「紀伊国伊達神。志摩神。静火神。並加従四位下」、三代実録 貞観元年(859)正月27日甲申条に「紀伊国従四位下伊達神。志摩神。静火神並正四位下」、同貞観17年(875)10月17日丙寅条に「紀伊国正四位上伊達神。志摩神。静火神並授従三位」と見え、延喜式神名帳では「紀伊国名草郡 志磨神社 名神大」として名神大社に列せられています。
『紀伊国神名帳』では正一位とされていますが、昇叙の時期は不明。
南北朝時代に南朝側に味方したため神領封土を没収された後、足利義満により再興。
天正年間(1585か)、秀吉の紀州攻めの兵火で焼失。
その後10回も火災に遭ったようです(10枚の棟札が残るという)。
慶長以前は社領田畑5段が残っていたものの、慶長検地(1601)の際にそれも没収。
元和年間(1615~24)に、九頭明神と称される小祠であった当社が所在不明であった志磨神社に比定された、と『紀伊続風土記』にあります。10年程前までわずかでも社領があったのに所在不明というのもわからない話ですが、既にその頃には「志磨神社」としては認識されていなかったということでしょうか。
大国主神を合祀したので国津明神→九頭明神と称された模様。
おそらく明治期に村社列格(『特選神名牒』の社格表記から)。
昭和17年県社列格。
祭神は中津島姫命(亦名市杵島姫命)。
『紀伊続風土記』は紀三所神を三神一連の神社として、須佐之男命の御子神の五十猛命・大屋津比売命・都麻都比売命を祀るものとし、当社には大屋津比売命をあてていますが(実際のところ志磨・静火は大屋津比売命・都麻都比売命いずれか決めかねていますが)、『日本の神々』は中洲が発達した川中島という立地条件から考えて、中津島姫命が妥当とします。
紀伊続風土記 巻之八雑賀荘中野島村
村中にあり続日本後紀承和十一年奉授紀伊国従五位下伊達神志摩神静火神正五位下文徳実録嘉祥三年三神加従四位下三代実録貞観元年奉授三神正四位下同十七年奉授三神従三位とあり其後三神とも正一位を授け奉らる志摩の御名は当村に鎮座の御神なれはなり当社又伊達社貴志庄園部村静火社神宮下郷和田村と三神一連の神なれは紀三所の神といふ紀三所の名は三社を合せ称する名なれとも後には其称転て又各社をも皆紀三所と称せしと見ゆ祀神は即伊太祁曽神大屋津姫神妻津姫神三神なり然れとも伊達の一社は伊太祁曽神を祭れる証あれとも志曽静火に至ては何れを大屋津姫とも何れを妻津姫とも定むへき証なし事は詳に貴志庄園部村伊達神社の条に弁せり此地紀川の下流にありて地形変遷せし事なれは当社も亦屡移転して往古より今の地に座するにはあらしと思はる当社土人に相伝えて九頭明神といふ是は後世大国主神を合せ祀りて後には専ら合せ祀れる神名を唱へて通称とはなれるなるへし刺田彦神社に大国主神を合せ祀りて後世は唯九頭明神と唱へ伊達神社に素盞烏尊を合せ祀りて後世は唯祇園牛頭天王と唱へしと同じ例なりかし当社古は今の当荘の地を以て神戸を寄られ島神戸といふ当社もと伊達静火と三社一連の神なれとも殊更に神戸を寄られしを見れは朝廷の御崇敬格別なる神と見えたり後世戦争の世となり神戸没収せられ古の姿は失ひたれとも慶長以前は猶社領田畑五段あり慶長検地のとき其地没収せらる社殿旧紀天正の兵燹に悉く烏有となり其詳なる事知るへからす元和の後名祠の廃絶を起され新に社殿を再創し漸々旧観に復し給へり神宮上郷新在家村の伝に志摩神社は旧は新在家にあり後に中野島に移すといふ其説証拠なし伝聞の誤なるへし古き石燈籠一基あり銘に応永六年とあり神主島氏なり
紀伊続風土記 巻之十六 神社考定之部上 名草郡
右雑賀荘中野島村にあり延喜式神名帳志摩神社名神大本国神名帳正一位志摩大神即此神なり此大神今民屋の間に挟まりて宮地も広からす喬木古樹の森なとも無く全て神さひたる状も見えす尊き神の旧く鎮まり座る地とも思はれさるはいかなる故と思ふに此中野島村は往古は東南に野広徳勒津の二郷ありて紀川の支流是を隔てゝ南の方に流れ北は紀川の海口に臨み唯西の方一面宇治に接して地続きなれは中島の名あり神宮郷黒田村黒田堂乾元年間勧進帳の文に孤島西に峙つとあるも此村をさしていへりと聞ゆ古の地形察すへし紀川の流れ或は南の方に倚り或は北の方に転し野広徳勒津なとの郷村も水の為に一旦流亡して旧地の跡たに定かならすまして中野島村は其下流の衝にありて三面に水を受けし地なれは亡失はせされともさまさまに変遷せし事は想ひやらる今紀川は北を流れて海口も遥に西の方に遷り古流亡せし野広徳勒津の故地皆田畑となりて中野島村と平衍の地続きとはなれり此村かく変遷を歴し事なれは古の形は失せたるならむ元和の後官命ありて志摩神社の在所を求めらるゝに村中に小き神祠四天王社東天王社八幡宮猿田彦社祇園社九頭神社六箇所ありて其内に九頭明神は一村の産土神にて社地も勝れて大に社領も田畑五段ありけれは志摩神社なるへしと定められしとなり一説に九頭明神の宮地旧は新在家村の中にありしといふ然れは今の地を去る事十余町東の方にあり何れにも今の宮地は古の宮地とは転移あるへし九頭明神の東の方五町許に西天王森あり此は九頭明神の神幸所なれは此地にも九頭明神を祀れり志摩神社は式に載する所の神名なれとも後世大国主の神を合せ祀りて後には専合せ祀れる神名を唱へて通称とはなれるなるへし刺田彦神社に大国主神を合せ祀りて後世は唯九頭明神と唱へ伊達神社に素盞嗚尊を合せ祀りて後世は唯祇園牛頭天王と唱へしと同し例なり志摩の御名は旧神名にはあらて中野島に在せるを以て地名に因りて志摩神社と称ふるなるへし和名抄郷名に志摩神戸あり当社の神戸なるへし今其地を考ふるに今の松島村なるへし其地に島大神の祠あり神戸の地なれは同神を祀り奉れるなり本国神名帳従四位上島大神とあるは是なり然らは志摩神社島大神同神にて志摩の称地名に因りて出たる事明なり松島村は後世開発する所にして古神戸の村には非るへし古神戸の村名今知りかたし詳に松島村の条下に見ゆ是を推していふに静火神社も地名を以て称せりと思はる静火の地名なる事は和田村静火神社の条下に論せり志摩の地名に因りて起る所なれは其祀る神は大屋津姫妻津姫の二神の内なるへきか其義は式及本国神名帳に伊達志摩静火の三神を相並へて書し又承和以後授位の時は三神同時にありて然も同じ位階を授けらる是を以て三神一連の神なる事を知るなり因りて卜部兼倶か神名式頭注に此三神を挙けて紀三所の神といへり紀三所の称暦応三年国造親分譲補記に経紀三所渡被召御船といふ文あり又栗栖荘紀実俊承安四年の解状に松島村の地形を書して西則紀三所神宮の文あり解文曰然則自往古以来東則田井田屋南則栗栖湯橋西則紀三所神宮北則園部六十谷為如此等四隣云々右の文の紀三所は何れも志摩神社を斥していへる事明なり紀三所の名伊達志摩静火の三社を称する目なれとも其内の一社を指しても紀三所といへりと見ゆ意ふに伊太祁曽三神の例の如く一社ことに左右に二神を従祀せしならんされは和佐荘高三所明神といふと同し類ならんか然れとも後世は其制を失ひしにや三所ともに一社のみを祀れり此等皆此御神紀三所の一にして伊達静火一連の御神なる証とすへし紀三所の神伊達神社を始として五十猛の命を祀るときは次は即志摩神社にして大屋津姫命を祀るへく其次は即静火神社にして妻津姫命を祀るへしかくの如くなれは北より南に連りて土地の次第も宜く適へり因りて是を以て三所の神名を定むへきか伊達の一社はたしかなる証あれとも志摩静火に至りては何れを大屋津姫とも何れを妻津姫とも定むへき証なけれは或は志摩は妻津姫にて静火は大屋津姫ならんも知るへからす且古の事後世の理にて測りかたき事多けれは何れにもさたかにはいひかたく後世の考定を待つ元和の後志摩神社を求めらるゝに其時はいまた神に奉仕せし神職もなけれは土人は唯九頭明神とのみ思ひ其後神職を命せられても猶祀神詳ならさりしより地名に因りて伝会して中津島姫なりといひしは誠に無稽の妄説といふへし
なお、和歌山市松島の十五社神社(位置)の由緒に「当社を十五社と称するのは、後世の事で、本は中の島村に在る、志磨神社と同神にて、此辺皆、志磨神戸の地なれば、志磨神社を両地に祀りしを…」とあります(参考:和歌山県神社庁の十五社神社ページ)。
これを事実とすれば、志磨神社は元々2ヶ所に祀られていたということになります。あるいはいずれかが後の分祀かもしれませんが。
wikipediaの志磨神社項には「十五社神社の社伝では、志磨神社はもとこの地(十五社神社の地)に鎮座したという」とありますが、上記の通り「両地に祀り」とあることから、志磨神社が十五社神社の地から遷されたとはとれません。
仮に遷されたのだとしても、十五社神社由緒には「旧は島神社の森に在り、後此の地に移すという」とあるので、現十五社神社の地は旧来の鎮座地ではないと思われます(「島神社の森」がどこかは不明)。
御朱印
御朱印はあります。
社務所で拝受可。
アクセス
和歌山市駅を出て東に1.5kmほど。大きな通り沿いに行けば左手に鳥居があるのでわかりやすいです。
一応境内に駐車可能らしいです(鳥居をくぐって神門の左裏あたり?)。
参拝時は確証がなかったので、神社南の大門川を渡った先にあるコインパーキング(畑屋敷の信号がある十字路の北あたり)に停めました。一つ日中最大150円のところがあり(位置)、周囲も最大200円が相場のようでした(この辺コインパーキングだらけです)。
その辺りのパーキングなら、いずれも神社から徒歩10分くらいです。
電車なら最寄り駅は紀和駅ですが、本数少ないので和歌山駅か和歌山市駅からの方がいいです(20分くらい)。
神社概要
社名 | 志磨神社(しまじんじゃ) | |
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通称 | – | |
旧称 | 九頭明神 国津大明神 | |
住所 | 和歌山県和歌山市中之島677 | |
祭神 | 中津島姫命 亦名 市杵島姫命 | 現祭神 |
大屋津姫神 | 『紀伊続風土記』 | |
配祀 | 生国魂神 | |
相殿 | 大己貴命 素盞嗚尊 | 志磨神社頭職系 |
社格等 | 式内社 紀伊国名草郡 志磨神社 名神大 続日本後紀 承和十一年十一月辛亥(三) 志摩神 正五位下 日本文徳天皇実録 嘉祥三年十月乙丑(廿一) 志摩神 従四位下 日本三代実録 貞観元年正月廿七日甲申 志摩神 正四位下 日本三代実録 貞観十七年十月十七日丙寅 志摩神 従三位 旧県社 | |
札所等 | – | |
御朱印 | あり | |
御朱印帳 | – | |
駐車場 | あり(境内数台駐車可) | |
公式Webサイト | https://www.facebook.com/SIMA.jinja/ | |
備考 | – |
参考文献
- 「志磨神社」, 『日本歴史地名大系』(データベース「JapanKnowledge」)
- 「志磨神社」, 神社本庁教学研究所研究室編『平成「祭」データ(CD-ROM)』全国神社祭祀祭礼総合調査本庁委員会, 1995
- 式内社研究会編『式内社調査報告 第二十三巻 南海道』皇學館大学出版部, 1987
- 谷川健一編『日本の神々 神社と聖地 第六巻 伊勢・志摩・伊賀・紀伊』白水社, 1986
- 仁井田好古『紀伊続風土記 第1輯』臨川書店, 1990