須佐神社(有田市千田)

須佐神社。

有田市千田に鎮座。

式内名神大社 須佐神社に比定される神社。

境内

一の鳥居

社前から北に300mほどの場所に建っています

 

社頭

 

社号標

 

手水舎

 

二の鳥居

 

三の鳥居

 

絵馬堂

 

裏参道側の門

 

鈴門

 

鈴門の鈴緒。かなりの太さ。

 

狛犬

 

境内図

社殿

拝殿

 

扁額

 

祝詞殿(写真中央)

 

本殿

境内社等

本殿左手、伊弉諾社

 

本殿右手、皇大神宮社

 

住吉社

 

厳島社

 

神光谷社

 

稲荷社・五ヶ庄社

 

燈籠舎

 

神馬舎

 

夫婦白鹿像

 

釜殿

 

神楽殿

 

神輿蔵

 

伊太祁曽(遥拝)社

 

金比羅社

 

子安社

 

湊川社(左)、南龍社(右)

 

儀式殿

 

砲弾

 

本居宣長の歌碑

「いたけるの神のしきます紀の国といはふかぶろの神の宮これ」

 

石碑

寛政六年十一月、本居宣長が須佐神社に詣でて

いたけるの神のしきます紀の国といはふかぶろの神の宮これ

と詠まれた

紀の国を治めた五十猛命の親神素戔嗚尊を祀っているのはこの宮であるの意味

「かぶろ」とは御親のこと

筆跡は宣長の真筆による

 

国指定重要文化財 因州住景長拵糸巻太刀

身長六八・二cm 反り一・八cm

須佐神社の祭神は素戔嗚尊であり、社伝によると和銅六年(七一三)の鎮座とある。

この祭神にちなむ須佐のち名は萬葉集にみえるが、延喜式神名帳に須佐大社とあり、有田地方唯一の式内社であり、木国神名帳には従一位に叙せられている。

古来より朝廷をはじめ武家や一般の信仰が篤く、紀州徳川家藩祖徳川頼宣は当社を武神として尊信し、自らも参詣している。

須佐神社に伝えられるこの太刀は江戸幕府八大将軍徳川吉宗が武運長久を祈って当神社に寄進したものである。

刀身は室町時代の名工因幡国景長の作、拵は武田菱紋散らしの華麗な糸巻太刀拵で、江戸時代の作である。

 

元宮跡へ続く石段。ここから徒歩20分ほど。

元宮跡については別記事にて。

由緒

『紀伊続風土記』によれば、創建は和銅6年(713)10月初亥日で、大和国吉野郡西川峯(吉野山を指すらしいが詳細不明)からの勧請とされます(この日付は、伊太祁曽神社が現在地に遷座した日と一致する)。

当初は中雄山(当社南側の山)の山頂に鎮座したものの、海上往来の船舶が恭謹しないと難破したために、元明天皇の勅命で現在地に遷座。

一説には、出雲ではなく当地がスサノオ信仰の原郷であるとも。

 

延喜式神名帳にみえる「紀伊国在田郡 須佐神社 名神大 月次新嘗」、三代実録貞観元年正月27日甲申条にみえる「紀伊国…従五位下須佐神…従五位上」、紀伊国神名帳にみえる「従一位 須佐大神」は当社に比定されます。

 

当社は祭神の御子神にあたる五十猛命を祀る伊太祁曽神社とは関係が深く、当社の神戸が伊太祁曽神社の神戸に接した位置にあったり、天正頃までは毎年9月初寅の日に伊太祁曽神社から神馬12騎が出て、当社で神事を行ったりしていたようです。

 

天正7年(1579)秀吉が当地を攻めた際、地頭の白樫左衛門尉実房により当社は損壊されたといいます(天正13年の間違いではないかと思いますが)。

この時、社家の大江重正が神器霊宝や記録などを唐櫃に収め、神社後方の神光谷に隠したものの、実房が探し出して燃やしたり海に捨てたりして失われてしまいました。

その後慶長6年(1601)に浅野幸長が神田14丁3反を寄進し再興され、江戸時代には紀州徳川家からの崇敬を受け、造営修復などは藩費で行われました。

 

明治4年県社列格。

御朱印

御朱印はあります。

社務所で拝受可。

アクセス

和歌山市街地から国道42号を南下。

有田川を渡った先、宮崎交差点で東へ(左折)。

約1.5km先、野交差点(下図)で南へ(右折)。

 

道なりに1.5kmほど南下すれば神社前へ。

参道入口の手前(北側)に駐車場あり。

神社概要

社名須佐神社(すさじんじゃ)
別称千田神社
住所和歌山県有田市千田1641
祭神素戔嗚尊
社格等

式内社 紀伊国在田郡 須佐神社(名神大 月次新嘗)

日本三代実録 貞観元年正月廿七日甲申 須佐神 従五位上

旧県社

御朱印あり
駐車場あり

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