冠嶺神社(南相馬市原町区信田沢字戸ノ内)

冠嶺神社。

原町区信田沢字戸ノ内に鎮座。

式内社 冠嶺神社の論社。

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境内

鳥居

 

扁額

 

社号標

 

参道の石段

けっこう長い階段です。

 

途中一旦平坦に

 

そして2つ目の石段

上の鳥居が見えています。

 

石段登り切ったところに鳥居

社殿

拝殿

 

扁額

 

本殿

由緒

八社の一社 冠嶺神社

延喜式神名帳に載する所の行方八社の一社で安政年中に行方八社の一社であることが明らかとなり万延元庚年春始めて官祠再興の事藩主より命ずとある。

創建時期不詳。

延喜式神名帳に「陸奥国行方郡 冠嶺神社」とみえる式内社の論社とされていますが、それ以外に古記録がありません。

 

中世頃には衰微し、小祠を残すのみとなっていました。

さらに野火に罹り焼失、その後は叢祠を建て、太田九太夫という祠官が祀っていたといいます。

寛永・正徳(1704~15)頃に九太夫の家が絶えたため、羽黒派修験山覚院が代わって祀ったものの、山覚院もまた絶えました。

さらに天明年間(1781~88)から村民が減り、文化年間(1804~18)には村は荒廃するに至りました。

 

とある農夫が邸内の祠に御神体を遷して秘し、本山派修験大学院がこれを祀りましたが、村人は信田沢に冠嶺の神が祀られていることを知らないという状態でした。

その農夫の家が絶えた後、他村から佐藤氏という者が移ってきてその農夫の家に住み、坂嶺の祠を修理し祀りました。

 

文化12年(1815)、藩主の命で渡辺美綱が行方八社の調査をした際には、冠嶺神社・益多嶺神社を特定することはできませんでした。

文政2年(1819)再び調査がされた際、当地に冠嶺の神が祀られているという話を聞いて、郡官が調査をするものの、村人はこれに疑惑を抱き敢えて祀っている家のことを言わず(なんで疑惑を抱いたのかはわかりません)、冠嶺神社はますます忘れ去られていきました。

 

安政年間(1854~1860)、二宮尊徳の興国安民法(相馬では御仕法といわれた)を弟子の富田高慶が導入・指導し、財政窮乏し農村荒廃していた相馬藩は復興。

万延元年(1860)には宮祠再興が命じられ、匠人上杉主殿頭が社殿造営。

 

『奥相志』が当社を式内社 冠嶺神社に比定しています。

この書は安政4年(1857)から15年をかけて編纂された物なので、この社殿造営前後で当社は式内社と認識されたことになります。

4,50年前まで忘れ去られている程だったにも関わらず、急に式内社とされたのは、復興に際し再度の調査でもあったからなのでしょうか。

御朱印

御朱印の有無は不明。

ネット上では、本務は相馬太田神社で、御朱印はなしという情報が見受けられました。

アクセス

原ノ町駅西側から県道12号を北西へ。

南相馬ICの前を過ぎ、常磐自動車道の下を潜って300mほど先の十字路(位置)を左へ。

そのまま500mほど行き、常磐自動車道を潜る手前(位置)で西側の細い道へ入ります。

その道を進むとすぐ先、右手に鳥居が見えてきます。

駐車場はありませんが、参道下は割と広めなので脇に停めることはできます。

神社概要

社名冠嶺神社(さかみねじんじゃ)
通称
旧称
住所福島県南相馬市原町区信田沢字戸ノ内194
祭神少彦名命
社格等

式内社 陸奥国行方郡 冠嶺神社

旧村社

札所等
御朱印不明(なし?)
御朱印帳
駐車場なし
公式Webサイト
備考

参考文献

  • 「信田沢村」, 『日本歴史地名大系』(データベース「JapanKnowledge」)
  • 「冠嶺神社」, 神社本庁教学研究所研究室編『平成「祭」データ(CD-ROM)』全国神社祭祀祭礼総合調査本庁委員会, 1995
  • 式内社研究会編『式内社調査報告 第十四巻 東山道3』皇學館大学出版部, 1987