大原神社。
倉吉市大原に鎮座。
式内社 波波伎神社の論社。
境内
社頭
社号標
手水鉢
鳥居
扁額
随神門兼神楽殿?
手水鉢
狛犬
境内
社殿
拝殿
扁額
本殿
境内社等
境内社か蔵か…
由緒
倉吉市大原大字宮ノ下鎮座
祭神
正哉吾勝勝速日天忍穂耳神
天穂日神 天津彦根神 活津彦根神 熊野樟日神
素盞嗚神 倉稲魂神 天満天神
旧記によれば大化三年(六四七年)丁未九月山城国宇治郷社許波多(木幡)神社より正哉吾勝勝速日天忍穂耳神を勧請し社殿を創建して崇敬する 明徳二年(一三九一年)祠官村上尚喬国史の命により神殿を再建 同時に四柱の神 天穂日神 天津彦根神 活津彦根神 熊野樟日神をそれぞれ別殿に勧請し本摂とともに五社とし五社大明神と称し崇敬の篤かった神社であった
中世の頃社域の南方に神宮寺を設立して密宗の僧都宥看を社僧として祭儀を掌らしたが大永四年(一五二四年)尼子経久が伯耆の国に乱入の時兵火に遭い神宮寺が焼失 その後は仕える僧侶もなく社殿は年とともに破壊していった 祠官村上氏は憂慮し天文年間(一五三〇年代)五社を合併して一社とし尊厳を保つことができるようになった 明治維新の際大原神社と改称 末社の素盞嗚神 倉稲魂神 天満天神の三神を合祭した
元禄の頃この神社を伯耆式内六社の一つの波々岐神社と言っていたようである
元禄七年(一六九四年)米子の住人で元禄町人文化の代表者竹内自安が著わした「伯耆六社みちの記」に「大原の里に行 中略 第二の宮波々岐ノ神社へ先まうて奉らんといえばあるしともなひ 神司村上氏左内尚重の家に行縁起なと望みて聞に 神は正勝吾勝尊にておはします 其の外の神々も御同殿にあかめ申せば五社大明神ともいひしとなん…」
大原神社本殿に現在棟札が二基保存されている いずれも元禄時代(将軍綱吉)のもとで一基は貞享二年(一六八五年)伯劦河村郡上西江大原村 五社大明神拝殿を建立したときのもの 他の一基は宝永四年(一七〇七年)奥山陰道伯劦河村郡上西郷大原村 五社大明神瑞殿再興のときのもので再興記に「この五社大明神は延喜式神名帳三一三二神中 伯劦河村郡波波伎神社是也」とある
例祭日 毎年十月九日
旧記によれば創建は大化3年(647)。
山城国宇治郡の許波多神社からの勧請創建とされます。
元禄期に著された『伯耆六社みちの記』は、当社を延喜式神名帳にみえる「伯耆国川村郡 波波伎神社」だとしています。その根拠は不明。
明徳(1390)以前は伯耆社を称していたとも。
明徳2年(1391)に社殿を再建、また天穂日神、天津彦根神、活津彦根神、熊野樟日神をそれぞれ別殿に勧請し五社大明神と称したといいます。
中世期に神宮寺を設立、社僧が祭儀を司るも、大永4年(1524)に尼子経久の侵攻により神宮寺は焼失し神社も衰退。
天文年間(1530年代)に祠官村上氏が五社を合併。
明治維新の際に大原神社と改称、末社神の素盞嗚神、倉稲魂神、天満天神を合祀。
御朱印
御朱印の有無は不明。
アクセス
はわいICから国道179号を南下します。
10mほど先の大原橋西交差点(位置)を左折。
橋の東詰を右折し、200mほど先(位置)で左折。
突き当りを左に折れるとすぐに社号標があります。社号標の奥へ入っていくと神社。
鳥居左手に駐車場と思われる空き地があるのですが、隣の民家の敷地かもしれず参拝者が止めていいのかは不明。
神社概要
社名 | 大原神社(おおはらじんじゃ) |
---|---|
通称 | – |
旧称 | 五社大明神 伯耆社 |
住所 | 鳥取県倉吉市大原619 |
祭神 | 正哉吾勝勝速日天忍穂耳神 |
配祀 | 天穂日神 天津彦根神 活津彦根神 熊野樟日神 |
合祀 | 素盞嗚神 倉稲魂神 天満天神 |
社格等 | 式内社 伯耆国川村郡 波波伎神社 続日本後紀 承和四年二月戊戌(五) 伯耆神 従五位下 日本文徳天皇実録 斉衡三年八月乙亥(五) 伯耆神 正五位下 日本三代実録 貞観九年四月八日丁丑 伯耆神 正五位上 伯耆国二宮 旧村社 |
札所等 | – |
御朱印 | 不明 |
御朱印帳 | – |
駐車場 | 有り(?) |
公式Webサイト | – |
備考 | – |
参考文献
- 「大原村」, 『日本歴史地名大系』(データベース「JapanKnowledge」)
- 「大原神社」, 神社本庁教学研究所研究室編『平成「祭」データ(CD-ROM)』全国神社祭祀祭礼総合調査本庁委員会, 1995
- 鳥取県神社誌編纂委員会編『新修鳥取県神社誌 因伯のみやしろ』鳥取県神社庁, 2012
- 鳥取県神職会編『鳥取県神社誌』鳥取県神職会, 1935(国会図書館デジタルコレクション 151-152コマ)