氏殿神社(大山町名和)

氏殿神社。

大山町名和に鎮座。

名和神社旧地に祀られる、その元宮といえる神社。

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境内

社頭

ここからだと鳥居も見えないので、かなりわかりづらいです。

 

社号標

名和神社奥の宮、とあります。

 

鳥居

 

文化財標

 

石段

 

手水舎

社殿

拝殿

 

本殿

故伯耆守名和君碑

故伯耆守名和君碑

社殿横に建っている、大山町指定文化財の碑です。

 

故伯耆守名和君碑陰記

自古忠臣義士殉節善死者必建祠祭之旦暮致敬使民有勇且知方歳時奉祀教士見危而致命彼張許善死於唐文謝殉節於宋皆享廟食非所以崇徳設教乎故伯耆守名和公源朝臣諱長年者伯州名和荘人也丁於元弘之多難迎

後醍醐帝於舩上遂奉 乗与回復京師其忠義不恥古賢将竹帛所垂可以概見焉不幸而遇延元之変力戦没于敵中嗚呼雖壊形骸於一時而伝名節於百世凛然士気誠可令懦夫知立志矣今名和荘氏殿神祠此其霊也近年 大守羽林池田公択地移祠墾田附之臣大窪友尚奉其事且竭力?興?祠乃?像乃設是祭是饗其詳見于福住道祐所録友尚請尚 為記我水戸相公篤崇

南朝与名和公同志於千載之後尚?事其家?所敢?乎又従而?之以辞曰

舩上迎 駕 佐命忠臣

凌霜気節 貫日精神 氏殿旧址 威徳維新

元禄三年八月日

安政五年五月日 因幡伯耆国主従四位上行左近衛権少将源朝臣慶徳 建

 

大山町指定文化財

故伯耆守名和君碑

正面の碑文は、鳥取藩主池田慶徳の自筆になる。

裏面の元禄三年八月の碑陰記は水戸藩士森尚謙の選並書になるが、これを安政五年藩主池田慶徳の命をうけた正墻薫が建碑したものである。

元禄三年の碑陰記は、水戸光圀による湊川神社のものよりも二年古く、南朝忠臣の顕彰碑文としては、わが国最古のものといえる。

碑は、石質、外観ともに堅密、潤沢、美麗なることで定説がある。

的石

神社南西、的石が置かれている小さな広場があります(位置)。

位置的には境内に隣接しているのですが、間に林があって通れないので迂回して南側から入る必要があります。

 

入口

 

的石

 

的石

昔、名和公の一族が弓矢の修練に使用した的だと言われている。

船上山の合戦に少数の守勢で追手の大軍を撃ち破り、

弓の名人といわれた名和公は、

五人張りの強弓を引き一矢で敵兵二人を射倒されたという。

名和公が武芸の修練に大変力を入れていたことが、うかがわれる。

名和公屋敷跡及び碑

神社の南に名和公屋敷跡及び碑があります(位置)。

 

名和公屋敷跡

 

文化財標

大山町の文化財案内ページだと「名和公屋敷跡」ですがこちらは「名和公跡」になっています。

 

名和神君碑

 

裏面

たぶん無地だと思います。

由緒

創建時期は承応~明暦(1652~58)の頃で、名和長年の屋敷跡(=上掲の名和公屋敷跡?)とされる地に当地の人たちが小祠を建立し、氏殿権現と称したのが始まりとされます。

延宝5年(1677)鳥取藩主池田光仲が、家臣大窪友尚の建言により日吉坂の傍ら(=現在地)に社殿を造営し遷座。

 

明治6年(1873)県社に列格、氏殿神社と改称。

同11年(1878)別格官幣社に列格、名和神社と改称。名和長重ほか一族42柱を配祀。

同16年(1883)氏子らが寄進した長者原の現社地(名和公の米倉跡)に遷座しましたが、旧地にも社祠は残されました。それが当社。

 

御朱印

旧地なのでないと思いますが…

アクセス

山陰自動車道の名和ICを下りたところ、道の駅大山めぐみの里前の交差点から、県道240号を南に進みます。

 

ここで東側(左手)の道に入り150mほどで参道前。

駐車場はありません。

一応神社の裏手に2、3台停められるスペースがありますが、向かいに天理教の教会があるのでそちらで使用している場所かも…

神社概要

社名氏殿神社(うじどのじんじゃ)
通称
旧称氏殿権現
住所鳥取県西伯郡大山町名和
祭神名和長年
配祀名和一族戦没将士四十二柱(改称時に配祀)
社格等

旧県社(改称後:別格官幣社)

名和神社摂社

札所等
御朱印不明
御朱印帳
駐車場なし
公式Webサイト
備考名和神社の旧地

参考文献

『式内社調査報告 第十九巻 山陰道2』 皇学館大学出版部

 

『鳥取県神社誌』 鳥取県神職会


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