小野道風神社。
大津市小野に鎮座。
小野神社の飛地境内社で、式内名神大社 小野神社の論社。
境内
社頭
鳥居
手水舎
道風庭園池
柳に飛びつく蛙の話(道風にまつわる有名な逸話、由緒項参照)にちなんで作られた池だそうです(水は張られていませんでした)。真ん中の石の上に蛙がいます。
境内
社殿西側(左手)に古墳があるそうなのですが、参拝時は気づかず。
古代のロマンが眠る歴史の散歩道
社殿
社殿
扁額
重要文化財 小野神社飛地境内社道風神社本殿 1棟
明治40年8月28日指定
構造・形式
桁行三間、梁間二間、一重、切妻造、向拝一間、檜皮葺
時代 南北朝時代 暦応4年(1341)
祭神 小野道風
寸法
母屋
正面柱間 4.42メートル
側面柱間 2.91メートル
棟高 6.47メートル
軒高 3.37メートル
向拝
正面柱間 2.14メートル
側面柱間 2.44メートル
軒高 2.85メートル
神社本殿は流造の形式が多い中、小野神社飛地境内社道風神社本殿は全国的にも稀な切妻造、平入の本殿で、県内の重要文化財では、小野神社境内社篁神社本殿と近隣の天皇神社本殿を合わせて3棟を数えるにすぎません。
建物の規模は、正面(桁行)三間、側面(梁間)二間で、前面に一間の庇(向拝)を付けます。
小野神社は『延喜式』に名神大社として記載されますが、道風神社は小野神社から南に500mほど離れた飛地に鎮座します。棟札の写から、南北朝期の暦応4年(1341)の建築であることがわかります。
平面は、前方一間を外陣、後方一間を内陣と内々陣として3室に区切っています。切妻破風や桁隠の懸魚、軒の茅負、向拝廻りの部材と縁、脇障子廻、外陣正面側の建具等は後世の改造を受けていますが、内部は建立当初の姿をとどめ、唐草彫刻をもつ向拝柱上の手挟も当初の材となります。
祭神の小野道風(894~966)は、平安時代中期の書家で、小野篁の孫にあたります。藤原佐理、藤原行成とあわせて「三蹟」と呼ばれ、和様の書の基礎をきずいた人物として、よく知られています。
明治四十年八月二十八日指定
道風神社は、祭神に小野道風を祀る。現在の本殿は暦応四年(一三四一)に建てられ、形式は三間社の切妻造に一間の向拝が付く。篁神社本殿より規模はやや小さいが、重量感のある優れた本殿である。
境内社等
八坂神社
文殊神社
樹下神社
神輿庫?
由緒
小野道風
小野道風(八九四~九六六)が生きた平安中期は、それまで数世紀にわたって中国文化を摂取し、模倣していた時代に代わって、日本独自の文化を築こうという気運に満ちた時代であった。漢詩に並んで和歌が、唐絵とともに大和絵が盛んになり、漢字をもとに仮名が発明されるなど、文学・絵画・工芸・宗教・建築とあらゆる分野に国風文化が開こうとしていた時期である。
書においても、それまでの空海・嵯峨天皇・橘逸勢の三筆に代表される王羲之・欧陽詢・顔真卿らに強い影響を受けた唐様の書から、和様の書が書かれるようになった。
道風は、王羲之に影響を受けながらも、それをもとにして優麗典雅な日本風の書を書き、その清新な書風は当時から能書の名をほしいままにしたことは、大嘗会の屏風や内裏の額字を書いたことなどからも知られる。和様の書の創始者として、日本書道史上に特筆すべき人物である。
和様の書は、道風とともに三跡と称される藤原佐理(九四四~九九八)に受け継がれ、藤原行成(九七二~一〇二七)によって大成され、その後の日本書道に大きな影響を与えた。
道風の書の源流
道風の書に最も大きな影響を与えているのは王羲之である。道風の書は王羲之の書をおだやかな日本風の書にしたものであるといわれる。
王羲之の書は古くからわが国に将来され、「喪乱帖」「孔侍中帖」などが伝存し、光明皇后は王羲之の「楽毅論」を臨書しているなど、道風以前の書にも影響を与えていることが知られる。
王羲之は、東晋時代(四世紀ころ)にあらわれた中国第一の書人で、古くから「書聖」と称されている。
王羲之の書には、「楽毅論」・「黄庭経」・「東方朔画賛」などの楷書、「蘭亭叙」などの行書のほか、「十七帖」などの行書・草書の尺牘(手紙)があるが、真跡は伝わらず、臨書や模搨されたものが現存するのみである。
王羲之の書は中国でも大いに尊重され、その字を集めて「千字文」・「集字聖教序」などが作られている。
佐理と行成
藤原佐理(九四四~九九八)と藤原行成(九七二~一〇二七)あh、道風の創始した和様の書を継承し、大成した人で、道風とともに三跡と称され、当時の能書として著名である。道風の書を「野跡」、佐理の書を「佐跡」、行成の書を「権跡」という。
佐理は、はじめ道風の書を学んだことは、二十六歳の「詩懐紙」の書風によって明確に知ることができる。しかし、その後の「離洛帖」などに見られる書風は、当時の日本文化全般の潮流に反して、中国の書の影響を残す奔放で力強い書である。
行成は和様の大成者と称される。その書は道風・王羲之を規範としながらも、独自の端正で優麗典雅な書風である。
行成の書は、その子孫に代々継承されて「世尊寺流」と称され、その後尊円親王(一二九八~一三五六)によって創始された「青蓮院流」に受け継がれ、江戸時代に庶民の書としてもてはやされた「御家流」となって幕末に至るまで流行した。
柳に跳びつく蛙
小野道風といえば、誰でも柳に跳びつく蛙を傘をさしてじっと見ている姿を思い起こすであろう。
古川柳に「蛙からひょいと悟って書き習い」とうたわれている程有名で、この寓話がいつごろ作られたかは不明であるが、江戸時代の学者、三浦梅園(一七二三~一七八九)の『梅園叢書』に「学に志し、芸に志す者の訓」として記載されている。
小野道風は、本朝名誉の能書なり。わかゝりしとき、手をまなべども、進ざることをいとひ、後園に躊躇けるに、蟇の泉水のほとりの枝垂たる柳にとびあがらんとしけれども、とゞかざりけるが、次第/\に高く飛て、後には終に柳の枝にうつりけり。道風是より芸のつとむるにある事をしり、学てやまず、其名今に高くなりぬ。 三浦梅園『梅園叢書』より
何事も努力すれば成し遂げることができるという話として、戦前の国定教科書にも載せられ、努力家道風の偶像を作り上げた。
小野道風神社(祭神・小野匠守道風命)
西暦八九四年~九六六年、平安中期の書家、小野篁の孫。父は大宰大弐をつとめた葛絃。醍醐、朱雀、村上三朝に歴任。柳に飛び付く蛙の姿を見て発奮努力して、文筆の極地に達せられ、藤原佐理、藤原行成と共に日本三大文筆、三跡の一人として文筆の神として崇められている。六十六歳の時に天徳詩合の清書をして『能書之絶妙也、義之再生』と賞賛されている。
祭神道風の書風はこれ迄の中国の書風を放れ穏やかな整った和様、日本的な書の典型として長く後世迄尊ばれている。
真跡として「屏風土代」「玉泉帖」などがある。
又、祭神は菓子の体型を創造された事により匠守の称号を賜られ、菓子業の功績者に匠、司の称号を授与する事を勅許されていた事を知る人は少ない。
菓子の匠、司の免許の授与は現在は絶えているが、老舗の屋号に匠、司が使用される事は現在もその名残りとして受け継がれてきている。
匠、司の称号が祭神からでている事を鑑みても、遠く祖神が餐をつくられた小野一族からの継承が窺える。
小野神社の祭神が我が国の文化、特に菓道、華道の創生発展に永い歴史の上において、如何に努力されてきたかを知る事ができる。
建物は旧国宝、現在重要文化財。
(社殿前の由緒書を撮影しそこねていたため、Googlemapに上がっている写真を参照・転記)
社伝によれば創建は興国2年=暦応4年(1341)。
建武3年(1336)、小野神社神主小野好行が南朝側に荷担したため家職を奪われ小野氏は衰滅しその神領も大半が没収。
翌延元2年(1337)に近江国守護佐々木高頼が篁・道風を祀る摂社を設けることを意図。その内の道風を祀った方の神社が当社となります。
暦応4年(1341)に建立された社殿が現存しており、重要文化財に指定されています。
延喜式神名帳にみえる「近江国滋賀郡 小野神社二座 名神大」の論社ではありますが、上記の通り創建は延喜式成立よりもだいぶ後で、現祭神小野道風も延喜式成立時は存命の人物。
『式内社調査報告』の記述では、個別に論社扱いではなく、小野神社・天皇神社と合わせて一つの神社圏とする考え方のようです。あるいは道風神社創立以前から、当地に何らかの社があったか祭祀が行われていたかもしれません。
現祭神は小野匠守道風命(小野道風)。三跡(三蹟)の一人。
三跡とは平安時代中期の三人の能書家のことで、道風と藤原佐理、藤原行成を指します。道風の筆跡は「野跡」と呼ばれました。
柳に跳びつく蛙の逸話が有名。
御朱印
御朱印はあります。
小野神社に書置きが用意されています。
アクセス
小野神社前から南に400mほど行ったところ(この辺)で西(右手)に折れ、坂を登ります。
するとすぐに右手に鳥居が現れます。鳥居の向かいに駐車場あり。
神社概要
社名 | 小野道風神社(おののとうふうじんじゃ) |
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別称 | 岡宮 |
旧称 | – |
住所 | 滋賀県大津市小野 |
祭神 | 小野匠守道風命 |
社格等 | 式内社 近江国滋賀郡 小野神社二座 名神大 続日本紀 宝亀三年四月己卯(廿九) 小野社 続日本後紀 承和元年二月辛丑(二十) 小野氏神社 続日本後紀 承和三年五月庚子(二) 小野神 従五位下 日本三代実録 貞観四年十二月廿二日丙辰 小野神 従四位下 小野神社飛地境内社 |
札所等 | – |
御朱印 | あり |
御朱印帳 | – |
駐車場 | あり |
公式Webサイト | https://www.onojinja.com/ |
備考 | 境内に古墳あり |
参考文献
- 式内社研究会編『式内社調査報告 第十二巻 東山道1』皇學館大学出版部, 1981