小野神社(大津市小野)

小野神社。

大津市小野に鎮座。

式内名神大社 小野神社二座の論社。

広告

境内

社号標

 

小野周辺史跡案内図

当社と道風神社の間に、石神古墳群があるのですが未訪(本来4基のところ案内図では3基。1号墳は石棺だけを残す状態だそうなので、そのためか)。

 

ムクロジ

 

ムクロジ

茨城県・新潟県から四国・九州地方、沖縄県にわたり自生する落葉高木。庭園木として植栽されるが、特に社寺によく植えられる。種子は、数珠や羽などに使われる。

このムクロジは、胸高周囲4.19mを測り県下最大の大樹である。

 

社頭

 

鳥居

 

手水舎

 

パワーの木

 

夫婦円満の木

 

「わたの原 八十島かけて 漕ぎ出でぬと 人には告げよ 海人の釣船」の歌碑

 

篁卿の御歌 百人一首十一番

文科功労者・芸術院会員、日比野光鳳書 和歌山県近藤清一氏寄贈

承和六年正月「京なる人につかはしける」小野篁(三十八才)

『わたの原 八十島かけて漕ぎ出でぬと 人には告げよ 海人の釣船』

※大海原に隠岐島へ配流されるが、私は晴天白日であるから漁師の釣り船の如く悠然として身も心も達者であることを都の人々に伝えよ。

研究家によると、小町は父である篁に次の答歌をしている。

小野小町の答歌

承和六年正月「おきのみやこでしま」小野小町(十五才)

『おきをいて みをやくよりも わびしきは みやこでしまの わかれなりけり』

※燠火で(隠岐と燠の懸詞)身を焼くように悲しく、侘しく心細く、不安であるのは都と島の別れです。

この贈答歌は文学的手法を超えた切実さがあり和歌史上の傑作で小町においては歌壇でのデビュー作であろうか。

 

参道正面に小野篁神社への石段があるのですが…

 

左手、小野神社への道が順路のようです

 

参道

 

小野小町の塔(小野小町供養塔)

 

小野小町

小町は平安前期の女流歌人で史料の乏しさと伝承の混乱があるが本名は小野吉子とする研究家がある。

系図によれば小野篁の孫とされるが年齢的に篁の娘とする学者もある。

生没年は天長三年(826年)~昌泰三年(900年)年頃と考えられるが詳しいことは不明。

篁が隠岐島配流から召還され本位に復した承和九年(842年)十七歳で宮中に入り、文徳天皇の更衣であったとする説がある。当時の有名歌人らと親交があり上級女官として長年宮中に仕えたとされる。

寛平八年(896年)七十一歳で正四位上に叙任し昌泰元年(898年)5月七十三歳の時に醍醐天皇の宣旨により雨乞い歌を献歌した二年後に没したとされる。

彼女の歌は後の紫式部ら王朝女流文学の草分けとなった。

小町はこの歌からも美女であった事がうかがえる

『花の色は移りにけりないたづらに我が身世にふるながめせしまに』

 

鳥居

社殿

中門

 

狛犬

 

祭神が餅作りの祖といわれているためか、社殿前にお餅が飾られています

ネットの情報によれば、鏡餅灯籠というのだそうです。

 

本殿

境内社等

小野篁神社

境内社なのですが、本社よりも大きい上に重文にも指定されています。

 

扁額

 

学問・使節の神 小野篁神社(祭神・参議小野篁命)

平安前期(西暦八〇二年~八五二年)、参議岑守の子、漢学者、歌人。西暦八三四年遣唐副使を命じられ、八三六年に出発。しかしこの度は暴風雨にあって遣唐使の目的を断念する。八三八年再度、遣唐副使に任じられたが大使藤原常嗣との折合いが悪くなり渡唐をとりやめる。この時「西道謡」を作って遣唐の役を風刺した為、嵯峨上皇によって篁は隠岐島へちっ居される。三年後許されて帰京、昇進を重ねて参議、従三位となる。「参議」は太政官の官名、政務審議の構成員で大、中納言につぐ要職である。

篁は漢詩文にすぐれ勅を奉じて「令義解」の撰進に参加している。篁の詩は「経国集」「和漢朗詠集」「扶桑集」「本朝文粋」に収められ、和歌は「古今集」に六首、「篁日記」は後人の作で、篁の歌を中心とした歌物語である。野相公、野宰相ともよばれている。

百人一首に『わたの原八十島かけてこぎいでぬと人には告げよあまのつりぶね』の歌がある。

社殿は祭神の古墳上にある。建物は旧国宝、現在重要文化財である。

 

重要文化財建造物 小野神社境内社篁神社本殿

重要文化財 小野神社境内社篁神社本殿 1棟

明治40年8月28日指定

構造・形式

桁行三間、梁間二間、一重、切妻造、向拝一間、檜皮葺

時代

南北朝時代 暦応年間(1338~42)

祭神 小野篁

寸法

母屋

正面柱間 5.02メートル

側面柱間 3.06メートル

棟高 6.12メートル

軒高 3.42メートル

向拝

正面柱間 2.15メートル

側面柱間 2.48メートル

軒高 3.00メートル

 

神社本殿は流造の形式が多い中、小野神社境内社篁神社本殿は全国的にも稀な切妻造、平入の本殿で、県内の重要文化財では、小野神社飛地境内社道風神社本殿と近隣の天皇神社本殿を合わせて3棟を数えるにすぎません。

建物の規模は、正面(桁行)三間、側面(梁間)二間で、前面に一間の庇(向拝)を付けますが、3棟の中でも最も大きく、木割が太く量感豊かです。

小野神社は『延喜式』に名神大社として記載されますが、篁神社は小野神社境内社として本殿の前面に位置します。建築年代を示す史料はありませんが、様式から道風神社本殿と同じく暦応年間(1338~42)の建築と考えられます。

平面は、前方一間を外陣、後方一間を内陣とし、内陣は3室に区切り、中央間はさらに前後に区切って内々陣とします。軒の茅負、向拝廻りの部材と縁、脇障子廻、外陣正面の建具等は後世の改造を受けていますが、内部は当初の姿をとどめています。

祭神の小野篁(802~852)は、平安時代初期の公卿。遣唐副使を拒否して左遷されるような反骨の人物で、学者・漢詩人・歌人としても知られています。

 

重要文化財 小野神社境内社篁神社本殿

明治四十年八月二十八日指定

小野神社は、小野妹子の出生地とみられ、篁神社は小野篁を祀る。

現在の本殿は、室町時代前期に建てられ、形式は三間社の切妻造に一間の向拝が付く。切妻造平入りの本殿は遺構が少なく貴重な建物である。

 

八幡神社・松尾神社

 

左側は神饌所、右は神輿庫か神楽殿か…

 

社務所

由緒

小野神社

祭神 天足彦国押人命 米餅搗大使主命

由緒

小野神社は小野一族の祖であると共に餅及菓子の匠・司の始祖である第五代孝昭天皇の第一皇子天足彦国押人命と同命から数えて七代目の米餅搗大使主命の二神を祀る。

今から一千年前の延喜式の神名帖に滋賀郡大三座の内小野神社二座、名神大社(官幣大社の意)とある古社である。

古事記によれば天足彦国押人命は孝昭天皇と尾張国の連の娘余曽多木比売との間にお生れなった第一皇子で春日、大宅、栗田、小野、栃木、大坂、安濃、多岐、羽栗、都怒山、伊勢、飯南、一志、近江、の国造の祖であると記されている。

又、日本書紀には大和和邇の祖であるとも記されている。

大和朝廷成立以前この地において、今の大阪府、京都府、奈良県、三重県、愛知県、滋賀県の広い地域を統治されていた王族であり、諸国に多い小野の地名、氏族の発生地、祖神でもある。

後裔の小野道風が菓子業の功績者に匠、司の称号を授与する事を勅許されていた事を知る人は少ない。

菓子の匠、司の免許の授与は現在は絶えているが、老舗の屋号に匠、司が使用される事は現在もその名残りとして受け継がれてきている。

遠く祭神が餐をつくられ、小野一族からの継承が窺える。

創建時期は不詳ですが、4~6世紀頃の発足とみられ、小野氏の祖神、あるいは小野氏が奉祀した神社であったようです。

 

延喜式神名帳にみえる「近江国滋賀郡 小野神社二座 名神大」の論社の一つ。

また国史においては、続日本紀 宝亀3年(772)4月己卯(29日)条に「震西大寺西塔、卜之、採近江国滋賀郡小野社木、搆塔為祟、充当郡戸二煙」続日本後紀 承和元年(834)2月辛丑(20日条に「小野氏神社在近江国滋賀郡、勅聴彼氏五位已上、毎至春秋之祭、不待官符。永以往還」同書 承和3年(836)5月庚子(2日)条に「授无位小野神従五位下、依遣唐副使小野朝臣篁申也」日本三代実録 貞観4年(862)12月22日丙辰条に「近江国正五位上小野神…授従四位下」とみえています。

『式内社調査報告』は式内 小野神社について、小野神社を中心に道風、天皇の二社を含め一つの神社圏と考えるべきという旨を述べています。

 

 

その後も鎌倉時代まで小野氏の末裔が奉祀したものの、建武3年(1336)神主小野好行が南朝に加担したため足利氏に家職を奪われ小野氏は衰滅、神領も没収(『日本の神々』『日本歴史地名大系』による。『式内社調査報告』は元亀(1570~73)争乱(比叡山焼き討ち?)の影響で神領を没収され、比叡山再興と共に神領回復とする)。

延元2年(1337)に近江国守護佐々木高頼が摂社を設け篁・道風を祭祀することを意図し、篁神社を「大宮」として本社の前面に、道風神社を「岡宮」として飛地境内の丘上に配置。いずれも暦応年間(1338~42)造営とみられ、社殿は現在重要文化財に指定されています。

社殿が本社のものを凌駕するものだったこともあってか、いつしか篁神社が一ノ宮、本社が二ノ宮と呼ばれるようになったといいます。

 

明治24年郷社列格。

 

現祭神は天足彦国押人命、米餅搗大使主命の二柱。

天足彦国押人命は孝昭天皇の第一皇子、米餅搗大使主命はその七世孫とされ、共に小野氏の祖にあたります。

米餅搗大使主命は餅や菓子の元である餈(しとぎ)を日本で初めて作ったといわれることから、現在ではお菓子の神様とされています。新撰姓氏録では米餅舂大使主命、鏨着大使主とも書かれ、当社由緒記では古事記にみえる丸邇之比布禮能意富美、日本書紀にみえる日觸使主と同一視されていますが、この同一視は確証があるわけではないようです。

『日本古語大辞典』に「ヒは霊能を意味する原語で、之を賦与せられたものをヒフリといい、転じてハフリとも称えた」(ヒフリ(日觸)、ヒフレ(比布禮)項)、「オホミ(意富美、使主)は大忌即ち大司祭の義で、大身の意の臣とは別語であるから、ワニベ(和爾部、丸部)の臣の外に丸邇(和珥)の大忌という神職の門閥があったとせねばならぬ」(ヒフレ(比布禮、日觸)の意富美(使主)項)とあります。

これを受けて『日本の神々』は「鏨着(米餅搗)大使主は小野神と大忌とを不離のものと把えた神名で、それが斧神・鍛冶神に山神・水神・火神・雷神を重層させ、さらに日神にも脈絡した(中略)とすれば、小野神に仕えた巫覡の長はとりもなおさず鏨衝き(鍛冶)の大忌で、同時に日触(日降り)の大忌と受けとめられていたのではなかろうか。そして、日の降臨を祈ぎ祭るとき実際に前述のシトギ(古語でタガネとも)を神饌として用いたため、米餅搗きの大忌とも呼ばれるようになったのではあるまいか。古代においては祀る者が祀られる者となる。すなわち小野神社の二座は、小野氏の祖神と伝説的祭祀者であったかもしれない」とします。「前述のシトギ~」というのは前段で餈(しとぎ)祭に触れているため。

餈祭とは、11月2日に行われる当社の祭礼。その内容は「境内の神田で穫れた新穀の餅米を前日から水に浸して、生のまま木臼で搗き固める。それを藁のツトに包み入れる。納豆のように包まれたこれを「しとぎ」と呼んでいる。そして他の神饌とともに神前に供える。祭典が終わると、注連縄を張り渡した青竹を捧げ持ち、小野地区(神座)を北、中、南の順で廻り、各地点で「しとぎ」を吊り下下げて礼拝し、五穀豊穣・天下泰平を祈念する」(滋賀県神社庁のページより)というもの。

 

『近江国輿地志略』には「土俗相伝、祭所神伊弉諾・伊弉冊尊也。此説信用しがたし」とあり、諾冊二尊を祭神とする伝承もあったようです。

御朱印

御朱印はあります。

社務所前に書置きが用意されています。

小野神社、小野篁神社の他に、小野道風神社と小野妹子神社のものもあります。

アクセス

湖西道路和邇ICを降り、県道311号を東へ。

天皇神社横を過ぎて榎の石碑(位置)の交差点まで来たら南(右手)に折れます。

直進し和邇川を渡ったちょっと先、右手に神社へ入る道があります。

 

神社入口

 

この道の先、鳥居の右手奥に駐車場があります。

神社概要

社名小野神社(おのじんじゃ)
通称二ノ宮
旧称
住所滋賀県大津市小野1961
祭神

天足彦国押人命

米餅搗大使主命

現祭神

伊弉諾尊

伊弉冊尊

『近江国輿地志略』
社格等

式内社 近江国滋賀郡 小野神社二座 名神大

続日本紀 宝亀三年四月己卯(廿九) 小野社

続日本後紀 承和元年二月辛丑(二十) 小野氏神社

続日本後紀 承和三年五月庚子(二) 小野神 従五位下

日本三代実録 貞観四年十二月廿二日丙辰 小野神 従四位下

旧郷社

札所等
御朱印あり
御朱印帳
駐車場あり
公式Webサイトhttps://www.onojinja.com/
備考社地南方、道風神社との間に石神古墳群あり

参考文献

  • 「小野神社」, 『日本歴史地名大系』(データベース「JapanKnowledge」)
  • 「小野神社」, 神社本庁教学研究所研究室編『平成「祭」データ(CD-ROM)』全国神社祭祀祭礼総合調査本庁委員会, 1995
  • 式内社研究会編『式内社調査報告 第十二巻 東山道1』皇學館大学出版部, 1981
  • 谷川健一編『日本の神々 神社と聖地 第五巻 山城・近江』白水社, 1986
  • 明治神社誌料編纂所編『府県郷社明治神社誌料 中巻』明治神社誌料編纂所, 1912(国会図書館デジタルコレクション 83コマ