野間神社(今治市神宮)

野間神社。

今治ICの西1.5kmほど、神宮に鎮座。

式内名神大社 野間神社に比定される神社。

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参道

社頭

 

鳥居

 

扁額

 

鳥居手前の手書きっぽい看板

 

看板後ろに社号標

 

注連柱

 

神門

 

神門の中には神直日神・豊磐間戸神・櫛磐間戸神・大直日神の神像が鎮座

 

神門先の参道

石段上に社殿。

 

階段上の狛犬

ちょっと珍しい造型。

 

手水舎

社殿

 

拝殿

 

扁額

 

拝殿内の藁みこし

藁みこし

野間神社の藁神輿は五体新調 子供が舁ぎます 終ると境内で焼却、そのあかりで相撲を奉納する昔からの神事で市の文化財

 

本殿

 

社殿全景

重要文化財「野間神社宝篋印塔」

本殿後方に重文の宝篋印塔

 

神宮野間神社宝篋印塔

(国指定重要文化財・昭和29年3月20日指定)

鎌倉時代末期の作で、総高317cmの宝篋印塔。九輪や宝珠は一回り小さい江戸時代の後補であるものの、全体としては大変重厚な安定感を与えている。基礎と塔身の間に請座を設ける意匠は「越智式」と呼ばれる、現在のしまなみ海道周辺地域にみられる独特の形式。塔身の各面には金剛界四仏の種字が配され、阿閦如来の面に(「右志者奉為神前法楽/別爲紀有春並藤原氏/徐病延命乃□法界/平等利益也/元亨二年十二月十六日/大願主 紀有春/藤原氏 敬白」という刻銘がある(元亨二年は1322年)が、現在は風化しており判読は難しい。以前は下方の谷間にあったが、昭和10(1935)年に現在の位置に移された。

参考

●獅子舞(県指定無形民俗文化財・平成12年4月18日指定)

毎年5月3日の春祭りには、野間神社の境内で伝統芸能❝継獅子舞❞が奉納され、大勢の見物客でにぎわう。

●藁みこし(市指定無形民俗文化財・昭和46年4月6日指定)

野間神社に伝わる年中行事で、10月中旬に行われる。❝藁神輿❞は、新しいわらで作った直径70cmくらいの丸い胴体に、上部に鳳凰が羽をひろげた形のものをつけ、榊が立てられる。少年たちがこれを担いで、各小部落を戸別に一巡し、野間神社に奉納する。

この他に、平安時代後期作とされる十一面の和鏡も当社で所蔵しており、こちらは県指定有形文化財となっています。

境内社

猿田彦大神社

鳥居脇に鎮座。

 

厳島神社

参道途中に鎮座。

 

宝篋印塔の隣に九社権現十二社権現

愛媛県神道青年会のサイトによれば「御祭神不詳、以前は瓦のヤブ神であったが平成17年の式年祭にあたり現在の地に移転新築す」とのこと。

由緒

野間神社御由緒

祭神 飽速玉命 若彌尾命 須佐之男命 野間姫命

堂社は上皇室の御尊崇も厚く、天平神護二年從五位下を授けられ神戸(御神領)二烟を充てられました。それは今から千二百年も前の事です。平安時代には神戸も增され承和四年には名神に預りました。神階も度々御進みになり、天慶三烟には正二位に、永治元年には正一位となられました。鎌倉時代以後は武将の崇敬が厚く源賴朝を始め、河野家が代々神領を寄進し、足利尊氏も教書を二度も捧げてゐます。又後醍醐天皇は特に當社を御尊崇あらせられ両度御綸旨を賜はられました。明治になりましては、四年に郷社、同二十八年縣社に昇格せられました。しかし既に延喜式内の國幣の大社で、當國の總社ですから官社にも列せられる御資格が十分あります。

飽速玉命は安藝の國造で、其の三世の御孫が若彌尾命です。この命は神功皇后の三韓征伐に大功を建てられ、後野間の國造として此の地方を開拓して下さつた御方で、野間姫命はこの命の御妃です。

當社は古來疫病除開運農業の神として靈驗があらたかであり、又松山藩主の雨乞の祈願所として度々神異を顯はされてゐます。重なる祭祀は、正月の一日から七日迄開運並に惡病除け、五月十九日は例大祭、土用の入りから二夜三日は惡病除け、六月の丑の日には牛馬の祈禱を致します。何れも參詣人が多く、特に大祭は古式の行列が澤山あつて賑やかです。

此の様な尊い神様ですから、益々神社の發展と神威の發揚を計つて有難い御神徳を一層感謝せねばなりません。

創建時期は不詳。

社記の断簡によれば、社殿創設は大宝元年(701)。

『式内社の研究』によれば大昔(延喜式成立以前の上代)には五町西方の川上の「上」という十五戸程の村にあったそうです。

 

続日本紀 天平神護2年(766)4月甲寅(29日)条に「伊豫国…野間郡野間神…授従五位下。神戸各二煙」とあるのが正史の初見。

続日本後紀 承和4年(837)8月戊戌(7日)条に「伊豫国従四位下大山積神。従五位下野間神。並預名神」として、大山積神(大三島の大山祇神社)とともに南海道初の名神となっています。

 

続いて三代実録 貞観3年(861)5月21日甲午条に「授伊豫国従五位上野間神従四位下」同8年(865)閏3月7日壬子条に「伊豫国従四位上…野間天皇神…授正四位下」同12年(869)8月28日戊申条に「授伊豫国…野間神…正四位上」元慶5年(881)12月28日壬寅条には「授伊豫国正四位上野間天皇神従三位」と昇階を重ねます。

天慶3年(940)には「去承平五年依海賊事被祈申十三社故也」と、藤原純友の乱にかかる海賊平定の祈願もあり正二位に叙せられます(『長寛勘文』)。

 

延喜式神名帳においては「伊豫国野間郡 野間神社 名神大」

 

建長7年(1255)の『伊予国神社仏閣等免田注記』には、封戸田十四町三反百八十歩、講経供料田として金剛般若田三町二反を有するなど、繁栄を誇ったことが伺えます。

また伊予国神名帳に「正一位 濃満天皇神」の記述も。

 

江戸時代には松山藩の雨乞いの祈願所とされました。

しかし社領は中世と比較するとかなり減少していた模様で、享保5年(1720)9月「野間神社天皇神社田覚」によると「総高拾四石六斗五合 合壹町五反九畝拾五歩」。明治維新頃には更に減少したようです。

 

明治に入って旧来の「野間神社」へ社号を戻し、明治4年に郷社、同28年に県社に列格。

 

当社は三代実録に「野間天皇神」、伊予国神名帳に「濃満天皇神」、伊予国神社仏閣等免田注記に「乃萬宮」と記され、その他資料に「乃萬神社」「濃萬神社」などの表記も見えます。

大化以前は怒麻国であったといわれる地に鎮座しているため、社名はそこに由来するのかもしれません。

宝暦10年(1760)の『松山領神社帳』には「牛頭天王宮」とあり、その当時は牛頭天王を祭神としていたようです。「てんのんさん」の俗称があるそうですが、今でもそう呼ばれているかは不明。

他に「乃萬社大梵天王宮」の記録も。

 

祭神は現在、飽速玉命・若弥尾命・須佐之男命・野間姫命とされています。

 

飽速玉命は初代阿岐(安芸)国造。

若弥尾命はその三世孫で、野間姫命は若弥尾命の后神。

飽速玉命を主神として、若弥尾命と野間姫命を配神とする説もあるようです。

『式内社の研究』によれば当社後ろに若弥尾命の古墳があるとのことですが、未確認。

 

 

須佐之男命は中世〜近世にかけて牛頭天王が祭神とされていた時期があったからかとも思えますが、後述のように須佐之男命にまつわる伝承も残っているので、何とも言えません。

奥の院「石神さん」

当社の南西500mほどの所に「石神さん」と呼ばれる巨岩があり、当社の奥の院とされています。

 

『豫陽郡郷俚諺集』には「社の奥に大なる岩あり、彼神の御足跡駒の足跡とてあり、誠に舊地と見へたり」とあります。ただし地元では馬ではなく牛だとされているようです(下記の伝承に基くか)。

伝承によれば、須佐之男命が紀伊から航海してきた時に乗ってきた楠の船が長い年月の間に化石になったもの。かつては、須佐之男命の足跡と、乗ってきた牛のえさおけが残っていたのだとか。

 

石神さん(と思われる岩)

 

場所はこの辺(座標34.047667, 132.953889あたり、直リンク

 

野間神社の宮司さんに神社南西の池の近くとお聞きして探してみたのですが、全く見つからず。

近くのみかん畑にいらした地元の方に案内していただき見つけることができました。

以前は岩の周辺が畑で、東の道から畑の中を通る道があってわかりやすかったそうなのですが、その畑が藪と化しており、枝やロープ(畑だった時に棚として使っていたらしい)を切断しながら進まなければならない状態でした。

岩の南にも道があり、かつては農道として軽トラが通れるしっかりした道だったそうですが、台風被害で崩落しています(歩きなら通れないことはなく、こちらから行く方が楽かも)。

現在は特に祭祀は行われていないようです。

 

絡まった枝をどかして足跡を探そうかとも思いましたが、触るとお腹が痛くなるそうなのでやめておきました。

 

今治地方の伝説集(今治商工会議所サイト内)から引用

昔、紀伊の国(今の和歌山県)から幾日も航海されて、現在の大西町九王(旧大井村)のあたりにお着きになった須佐之男命は、天の磐く樟船(普通『磐く樟船』と言えば神話に出てくる伊弉諾尊<いざなぎのみこと>、伊弉諾尊の子、蛭児(伊弉諾伊弉冉<いざなぎいざなみ>二神の間に最初に生まれた子)を乗せて流したという、楠の木で造った堅固な船をいいますが、ここではこの船とは関係なしに、同型の楠の木でつくった船だといわれています。)で品部川を上られました。船から降りられた須佐之男命は、更に牛に乗られて、今の宅間、野間、延喜を経て阿方のあたりを通られようとしました。ところが、阿方の村人の中に、随分意地の悪い者がいて不浄物をかけるなど色々と悪だくみをし、わざと須佐之男命の通られるのを邪魔しました。須佐之男命はいたし方なく、矢田の方にまわられ神宮の地にお着きになりました。ご自身が乗って来られた磐く樟船を置かれた神宮の奥の熊野峰というところで、牛に食物を与えてご自身も休まれました。この磐く樟船が、長い年月の間に化石になったといわれており、今は摩滅して跡を見ることは出来ませんが、古老の話では、以前は須佐之男命のご足跡と牛のえさおけの跡が残っていたそうです。-「予陽俚諺集」には駒(馬)の足跡とありますが、この地の人は牛のように語り伝えています。-古老の話では、明治の始めころまでは、野間神社の祭礼の時に、この石の上に神輿を乗せてお祭りをしたということです。野間神社には、御祭神のお一人として須佐之男命をお祭りしておりますが、その元をたぐれば、案外この巨石を対象として発達してきたのかもしれません。一般にこの巨石は磐境<いわさか>とか磐座<いわくら>といって、神がご座されているものだと考えられていたようです。この地の人は、この巨石を「石神さん」と呼んでいます。この「石神さん」は、野間神社から約一キロ足らず離れた向という部落の奥にあります。なお、この阿方と山路を、須佐之男命が通らなかったということから、旧乃万村のうち阿方と山路は、野間神社の氏子に入っていないのだといい伝えられています。

 

石神さんを探している時に見つけた巨岩

石神さんよりも南、砂防ダム沿いに登っていったところの斜面にあります。

他にも巨岩があったのですが、これらもかつては何かしら祀られていた経緯があるのでしょうか。

御朱印

御朱印はあります。

参道途中にある宮司さん宅にて拝受可。

アクセス

県道から少し脇道を入ったところにあります。それほど奥まったところではないですが、道が入り組んでいてわかりづらいかも。

イオンモール今治新都市の北東角から県道を1kmほど北に行ったところ(位置、西明寺と野間神社の案内板あり)で脇道に入り、最初の分岐を左へ。そのまま道なりに進めば着きます。他にも道はありますが、この道が一番通りやすいと思います(どの道も狭いです)。

駐車場は特にありませんが、楼門の手前が広いスペースになっているのでその辺りに停めるのがよいと思います。

神社概要

社名野間神社(のまじんじゃ)
通称てんのんさん
旧称

野間天皇神

濃満天皇神

乃萬宮

乃萬神社

濃萬神社

牛頭天王宮

乃萬社大梵天王宮

住所愛媛県今治市古谷乙47
祭神

飽速玉命

若弥尾命

須佐之男命

野間姫命

配祀

大国主命

大山積命

社格等

式内社 伊豫国野間郡 野間神社 名神大

続日本紀 天平神護二年四月甲辰(十九) 野間神 従五位下

続日本後紀 承和四年八月戊戌(七) 野間神 名神

日本三代実録 貞観三年五月廿一日甲午 野間神 従四位下

日本三代実録 貞観八年閏三月七日壬子 野間天皇神 正四位下

日本三代実録 貞観十二年八月廿八日戊申 野間神 正四位上

日本三代実録 元慶五年十二月廿八日壬寅 野間天皇神 従三位

旧県社

札所等
御朱印あり
御朱印帳
駐車場あり
公式Webサイト
備考南西500mほどに奥の院とされる巨岩「石神さん」あり

参考文献

  • 「野間神社」, 『日本歴史地名大系』(データベース「JapanKnowledge」)
  • 「野間神社」, 神社本庁教学研究所研究室編『平成「祭」データ(CD-ROM)』全国神社祭祀祭礼総合調査本庁委員会, 1995
  • 式内社研究会編『式内社調査報告 第二十三巻 南海道』皇學館大学出版部, 1987
  • 明治神社誌料編纂所編『府県郷社明治神社誌料 下巻』明治神社誌料編纂所, 1912(国会図書館デジタルコレクション 331-332コマ