愛媛県護国神社(松山市御幸)

愛媛県護国神社。

松山城の北東、道後温泉の西に鎮座。

旧内務大臣指定護国神社で、現在は神社本庁の別表神社。

境内

大鳥居。境内入口から100mほど南にあります。

 

大鳥居脇社号標

 

鳥居

 

社号標

 

手水舎

 

参道

 

狛犬

 

境内右手の鳥居

社殿

神門

この先に拝殿がありますが、柵があって神門より奥へは入れませんでした。

 

神門前から拝殿

 

扁額

 

本殿

境内社等

神楽殿

 

忠魂社

 

忠魂社狛犬

 

案内札

石柱と歩哨舎

松山歩兵㐧22連隊は明治17年2月7日創設以来、最精強とうたわれた この石柱は終戦まで60余年歳月の中に日本の盛衰をみつめながら幾多の将兵を送迎した由緒あるもので陸上自衛隊松山駐屯地にあったが愛媛縣護國神社に移設しその栄光をたたえつつ永久に保存することとなった

 

零戦のプロペラ

 

日本海軍零戦プロペラ

このプロペラは太平洋戦争当時最新鋭戦闘機として活躍した日本海軍の零式戦闘機に使用された可変ピッチ式(恒速プロペラ)のものである。恒速プロペラは発動機の公称回転をたもつように速度の変化に敏速に応じて自動的にプロペラのピッチが調節される仕組になっているもので当時においては最高水準をいくものであった。

昭和43年10月宇和島市神田川原3区加藤勉氏が西宇和海で操魚中網にかかったものを回収し当松山駐とん部隊に寄贈されたものである。(平成13年9月愛媛県護國神社に移転しました)

 

天壤無窮。陸軍大将秋山好古謹書。

 

多数の慰霊碑

由緒

境内由緒板

愛媛縣護國神社御由緒

○御祭神

明治戊辰の役より大東亜戦争に至る迄の国難に殉ぜられた愛媛県出身の英霊

公務殉職者(自衛官・警察官・消防職団員)

又郷土の産業・文化発展の功労者等

松山城初代城主 加藤嘉明命・俳人 正岡子規命

伊予絣の創始者 鍵谷カナ命

四万九千七百余柱を御奉斎

○ご由緒

明治三十二年「私祭招魂社」として創建

大正二年 新立町多賀神社に「愛媛招魂社」と改称移設

昭和十四年 現在地に遷座

社号を「愛媛縣護國神社」と改称

神饌幣帛供進神社県社に指定

昭和二十年七月二十六日 戦災により焼失

仝二十六年から三十年の四年間で現在の社殿を竣工

○皇室の御崇敬

昭和四十一年四月 天皇皇后両陛下御親拝

昭和四十九年七月 皇太子同妃殿下御参拝

昭和二十八年十月 高松宮宣仁親王殿下御参拝

扁額「護國」の御奉納を賜る

昭和五十年十月 常陸宮同妃殿下御参拝

創建は明治32年。当初は私祭招魂社でした。

 

大正2年、愛媛招魂社と改称し、新立町多賀神社(位置)境内に遷座。

昭和14年、現在地に遷座し、愛媛縣護國神社に改称。

 

戦後の一時期、神道指令により御幸神社と改称するも、昭和27年に現社名に復称。

愛媛万葉苑

社地は東西に広く、社殿のあるのは東半分ほどの範囲。

西半分は愛媛万葉苑という公園になっています。元は郷土植物園として作られ、昭和42年に熟田津歌の碑が建立されたのを機に、万葉集に詠まれた植物を集めて翌昭和43年に愛媛万葉苑として開園した、という場所です。

 

愛媛万葉苑

 

愛媛万葉苑

昭和二八(一九五三)年、八木繁一が中心となり、この護国神社境内に、御霊を慰めるために「郷土植物園」として造られたのがはじまりである。

その後、園内に万葉集の傑作「熟田津の歌」の碑が建立され、それを契機として、一帯に万葉歌人の詠んだ植物を蒐集栽培し、昭和四三(一九六八)年に『愛媛万葉苑』として開苑した。

「万葉集」四五一六首の歌のうち約一五〇〇首に約一五〇種の植物が詠まれている。本苑にはムラサキ、フユアオイ等の希少植物や、食用のアワ、薬用のキキョウ、和紙衣料の原料のカジノキ、ミツマタのような日常的に有用な植物など百余種が植えられている。

苑内を散策しながら、和歌と植物を鑑賞することで、古人が植物に寄せた関心の深さ、観察眼の確かさ、大宮人の心のゆかしさ、古名と現代名の違いの驚きなど、各季節の味わいの中で、豊かな時間を過ごすことができる。

 

熟田津歌碑

「熟田津尓船乗世武登月待者潮毛可奈比沼今者許藝乞菜」

 

副碑

熟田津に船乗りせむと月待てば潮もかなひぬ今はこぎ出でな

紀元一三二一年 今から一三〇六年の昔 唐と組んだ新羅が百済をくだして日本に向うのを憂えられた斉明天皇は皇太子中大兄皇子(後の天智天皇)とその弟の大海人皇子(後の天武天皇)などとともに百済を助けるため筑紫に軍を進められようとされた その途中熟田津の石湯の行宮に泊らせられて伊予水軍を集結し兵船を整え進発の時を待たれたのである

時は来た!十五夜の月はまさに出でようとし潮は満ちふくらんできた 軍を統率する中大兄皇子のかたわらに侍する額田王の詩情は高まってくる 天皇をようする大軍船団と月の光と満潮とが融合して豊かにたゆたいその大生命が満ちきった一瞬充実しきった額田王の心気は発せられた 「今はこぎ出でな!」 渾身の力をこめて しかも 優容迫らず 清明雄大 緊密なる流動の節奏と磐石の重き格調をもって歌いあげられたのである 天皇の大号令がこの歌にはこもっている

古今の絶唱がここに生まれたのである

この歌は日本女性の詩歌として世界に誇り得るものであり また日本の歴史的意義をもつものである

「今はこぎ出でな」と進発した当時の伊予水軍が武運つたなく白村江の戦いに敗れ国難に殉じたことをしのぶとき哀悼の情切なるものがある しかし潔く山桜のように散った伊予水軍の心気はついに唐 新羅をして日本を侵させなかったのである

この歌碑を仰ぐもの よくこの大生命を感受し雄大清明なる気象を養い「いざ!」の充実した心気に生きられんことを

附記

この歌碑は少年たちの壱円から特別の寄付までまた県内から県外まで数多くの人々の心からなるきょ金によってできたのである

しかしすべてその名をとどめないことにしてただ「熟田津の歌を讃うる会」としゆかしく千載までのこることを願うのである この歌碑の字は元暦本万葉集から採ったものである

なおこの碑は熟田津の場所をここと決定して建てたものではない

熟田津(にきたつ)は道後温泉付近にあった港ですが、その場所にはいくつかの説があり確定していません。

 

解説札

熟田津に船乗りせむと月待てば潮もかなひぬ今はこぎ出でな

額田王(七世紀まで在世)

初期万葉歌人。『日本書紀』によると、斉明天皇の船団は、新羅の侵攻から百済を救援するため、筑紫に向かう途中、伊予の湯に、斉明七(六六一)年一月一四日に立ち寄ったとある。一行はしばらく滞在し、船団を整え出発する時の歌であろうとされている。

額田王が天皇に代わって詠んだ歌といわれ、また、女帝自身の御歌ともいわれる。「にきたつで船出をしようと月の出を待っていると潮も都合のよい高潮になって来た。さあ出かけようよ」の意。文字は最古の元暦本(一一八四)による。昭和四二年建立。

 

華塚

 

土俵

御朱印

御朱印はあります。

社務所で拝受可。

アクセス

伊予鉄の赤十字病院前停留場から北へ500mほど行くと大鳥居があります。そこからさらに直進。駐車場は境内正面にあります。

 

ここ。

ただ、入口に契約者以外進入禁止の札が立っています。公式HPにもここが駐車場と案内あるのに…社務所で聞いたら停めてOKとのことでした(一部契約者専用の区画があるらしい)。

神社概要

社名愛媛県護国神社(えひめけんごこくじんじゃ)
旧称私祭招魂社→愛媛招魂社→御幸神社(戦後一時期)
住所愛媛県松山市御幸1-476
祭神愛媛県出身の護国の英霊・公務殉職者・功労者
社格等

旧内務大臣指定護国神社

旧県社

別表神社

御朱印あり
駐車場あり
公式Webサイトhttp://www.gokoku.org/

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