櫛梨神社(琴平町下櫛梨)

櫛梨神社。

善通寺駅の東南約2kmほどの場所に鎮座。

式内社 櫛梨神社に比定される神社。

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境内

社頭

 

鳥居

 

狛犬

 

参道の石柱と石碑のような石

 

案内図

如意山への道を登っていくと途中で櫛梨山山頂(147m)を通るのですが、当社の旧地はそこだといわれています。城跡でもあるようで、現在は城跡を示す碑が建っています。

 

階段上に随神門

 

随神門の先の狛犬

 

注連柱

 

手水鉢

 

合社記念の石

明治43年に多数の社を合祀したそうなので、その記念碑かと思われます。

社殿

拝殿

 

扁額

 

本殿

船磐

当社前から西へ300mほど行ったところにある民家の庭先に、船磐という巨岩があります。

 

ここ。

由緒に見える船磐大明神でしょうか。

 

船磐

 

船磐脇の祠

 

『景行天皇皇子櫛梨神社の祭神神櫛王命昔この地の悪魚征伐の時船を泊らせ給いしと伝えらるる岩はすぐこの左上にあり』

 

船磐上に積まれた石

御旅所

参道を出て南に300m程行くと御旅所があります。

 

御旅所

由緒

櫛梨神社之碑

当社は延喜式神名式讃岐国那珂郡小櫛梨神社とありて延喜式内当国二十四座の一なり景行天皇の二十三年神櫛皇子勅を受けて大魚を討たむとして讃岐国に来り御船を櫛梨山の麓に泊し給い祓戸神を祭り船磐大明神と云う船磐の地名は今も尚残り舟形の大岩あり付近の稍西北の山麓に舟の苫を干したる苫干場櫂屋敷船頭屋敷の地名も今に残れり悪魚征伐後城を城山に築きて留り給い当国の国造に任ぜらる仲哀天皇の八年九月十五日御年百二十歳にて薨し給う国人その遺命を奉じ櫛梨山に葬り廟を建てて奉斎し皇宮大明神と云う往古は社殿壮麗境内は三十六町の社領御旅所は仲南町塩入八町谷七曲りに在り其の間鳥居百七基ありきと天正七年長曽我部元親の兵火に罹り一切烏有に帰す元和元年国主生駒氏社殿造営寛文五年氏子等により再建せらる明治三年随神門同四十三年本殿翌四十四年幣殿を各改築大正六年社務所を新築す

創建時期は不詳。

 

社伝によれば、景行天皇23年(93)に天皇の命を受けた神櫛皇子が悪魚を討つために土佐から讃岐へきた時、雲と雨により何も見えなくなりました。

皇子は小山に登って天に火を乞うと火が降りてきたので、櫛梨山の麓に船を泊める事ができ、その地に祓戸神(船磐大明神)を奉祀(火が降りてきた山を火乞山と名付けたそうですが、どの山なのか不詳。船磐は当社そばにあるので、おそらく櫛梨山を指すとは思われます。現在の櫛梨山の正式名?である如意山とは音の響きが似通っていますが、ひこい→にょいに転じたのでしょうか)。

また、地神を祀ろうとした際に翁(大麻神だとされます)に教えられた大麻神と大歳神、更に山下明神、諏訪明神を奉祀、また士気を上げるため軍神武甕槌神・経津主神を奉祀(赤坂大明神)。

皇子は悪魚を征討平定し、城山に城を築き讃岐国造に任ぜられ、その後仲哀天皇8年(199)に120才で薨去。遺命により櫛梨山に葬られ、皇宮大明神として奉斎された廟が当社の始まりとされます。

 

更に社伝では、神櫛皇子の追号を讃留霊公としています。讃留霊公(讃留霊王・さるれお)とは大魚退治伝説で有名な人物で、神櫛皇子の他、武卵王(日本武尊の子)とする説もあります。

また、神櫛の櫛は許登那具志の具志と同じく酒の意で、櫛梨=酒成の意という、とも。

現祭神は、この神櫛王となっています。

 

往時の境内は広大で、現在の境内南方に宮内という地名があり、そこまでが境内だったといいます。また、古門という地名は神門の跡だといい、上櫛梨の鳥居堂という所は一の鳥居跡と伝わります。

 

延喜式神名帳にみえる「讃岐国那珂郡 櫛梨神社」は当社に比定されています。

 

永万元年(1165)の神祇官諸社年貢注文(永万文書)に「讃岐国 櫛無社」、観応3年(1352)の誕生院宥範譲状(善通寺文書)で宥源に譲られた諸権利に「櫛無社地頭職」とみえます。

天正7年(1579)長宗我部元親と長尾大隅守の戦によって社殿・旧記・宝物等を焼失。

元和3年(1617)国守生駒氏社殿造営、寛文5年(1665)氏子等により修築。

 

明治3年随神門、同43年本殿、同44年幣殿をそれぞれ改築。

明治5年郷社列格。

 

かつては後方の山上(如意山の西の峰。櫛梨山)に鎮座していたが、火災にあい現地に遷座した、という伝えがあります。

また、かつての御旅所は南方150町の塩入村八町谷七曲にあったといわれ、その間には107基の鳥居があったそうです。仮にまんのう町塩入だとすれば12km以上の渡御がされていたことになります。

 

香川県神社誌

延喜神名式に『讃岐国那珂郡小櫛梨神社』とありて延喜式内当国二十四社の一なり。社伝によれば景行天皇二十三年神櫛皇子勅を受けて大魚を討たむとして土佐国より讃岐国に移り、御船を櫛無山の麓に泊し給ふ。初め讃岐に移ります時、雲闇く雨降りて物の色も弁じ難かりし為め、与北村火乞山に登りて火を乞ひ軻遇突智命を祀る。これに依りて御船を櫛無山麓に泊し、其の所に祓戸神を祭り、船磐大明神と云ふ。船磐の地名今に残れり。其の近傍に舟の苫を干し、苫干場と云ふ所あり。船頭屋敷、梶屋敷等の地名今に残れり。こゝに皇子地神を祭らむとせしに一老翁来りしかば、皇子老翁の教に従ひて大麻神、大歳神を祭る。老翁は即ち大麻神なり。更に山下明神、諏訪明神を祭る。愈軍士を発せむとして軍神武甕槌命、経津主命を祭る。赤坂大明神これなり。悪魚征討の後城を城山に築きて留り給ひ、当国の国造に任ぜらる。仲哀天皇の八年九月十五日御年百二十歳にて薨じ給ふ。国人その遺命を奉じ櫛無山に葬り、廟を建てゝ奉斎し皇宮大明神と云ふ。讃留霊公は神櫛皇子の追号にして、留は奴の訛にて讃岐の霊公の意なり。神櫛の櫛は許登那具志の具志に同じく酒の意にして、郷名櫛無(和名抄に櫛無久之奈之)は酒成の意ならむと云ふ。

当社古くは皇宮大明神、大宮等奉称せられ、文明六年書写の櫛無神社名跡図に皇宮の註に櫛無神社とあり。往古は大社にして、延喜の制官社に列せられ、千手堂神名帳に讃岐国御坐正三位櫛無大明神と見え、永万記、朝野群載等に其の名見え、地名をも亦櫛無と云へり。初め山上本台の地に鎮座せしが火災に罹りて現今の地に遷座せりと伝ふ。

往古は社殿荘麗に、境内三十六町は社領にして今猶近傍に宮内、古門、鳥居の堂等の地名を存す。御祭儀は大歳神社、総社と併せて行はれ、其の御旅所は南方百五十町の汐入村八町谷七曲にありて、其の間鳥居百七基ありき。神輿渡御の際は御旅所に御一泊、翌日還御あるを例とし祭儀厳重を極めたりと。

天正七年長曽我部元親と長尾大隅守と会戦の時兵火に罹り、旧記宝物等一切烏有に帰し為に往昔の事詳なるを得ず。元和三年国主生駒氏社殿を造営せりと伝へ、寛文五年氏子等によりて再建せられ、明治三年随神門を改築、同四十三年本殿を、翌四十四年幣殿を改築、大正六年社務所を新築す。明治四十三年十月神饌幣帛料供進神社に指定せらる。

明治四十三年字丸山総社、字由南堀池神社・若山神社・荒魂神社、字山根天満宮・龍田神社・春日神社・荒魂神社・龗神社・字船磐船磐神社・事比羅神社・八幡神社、字松ノ内吉田神社、字平石奈賀礼神社・森神社、字馬場山神社・塞神社・二宮社、字元日久斯神社を合祀す。

合祀神社総社は神櫛皇子供奉の四十二姓神を奉祀し、文明六年の櫛無神社名跡図にも載せられ、古くは櫛梨、大歳二社と共に櫛無三社大明神と奉称せられ、西讃府志に『境内方十間余社林四段余』と見ゆ。又船磐神社は神櫛王の奉斎し給ひし所と伝へられ、櫛無神社名跡図中の一社なり。

御朱印

御朱印はあります。

大麻神社の兼務社のため、大麻神社の宮司さん宅にて拝受可。

 

アクセス

県道206号から300m程東へ入ったところにあります。

 

鳥居脇のここが少し広くなっており、しかも行き止まりなのでここに駐車。

 

なお参道をずっと南に行ったこのあたりに社号標があります。

神社概要

社名櫛梨神社(くしなしじんじゃ)
通称
旧称

皇宮大明神

大宮

住所香川県仲多度郡琴平町下櫛梨280
祭神

神櫛王命

合祀の七十余柱の神

現祭神

天児屋根命

『三代物語』
社格等

式内社 讃岐国那珂郡 櫛梨神社

旧郷社

札所等
御朱印あり(大麻神社にて拝受可)
御朱印帳
駐車場階段下に駐車スペースあり
公式Webサイト
備考旧地は社殿後方、如意山の西の峰(櫛梨山)

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