白峰宮(坂出市西庄町)

白峰宮。

坂出市西庄町に鎮座。

讃岐に流された第75代崇徳天皇を祀った神社。

広告

境内

一の鳥居

 

社号標

 

一の鳥居から神社までの参道脇に御旅所

 

三ツ鳥居

 

扁額

 

社号看板

 

さぬき十五社第九番 白峯宮

 

注連柱

 

手水舎

 

御神木 楠木

 

狛犬

 

御神木 榊

社殿

拝殿

 

扁額

 

本殿

境内社

境内社

香川県神社誌によれば、境内社として幸神社が挙げられているので、おそらくこちらが幸神社かと思われます。

 

境内社本殿

 

天満宮

 

八十蘇場の清水

なお社殿右後方の道を少し行くと八十蘇場(弥蘇場、八十場)の清水があります。別名を野澤井。

景行天皇の命を受け悪魚を退治した讃留霊王(神櫛王または武殻王)が88人の兵士とともに悪魚の毒に昏倒。そこに現れた童子がこの泉の水を捧げると皆蘇生。ここから「八十蘇場の清水」といわれるようになりました。 この童子は横潮明神の顕現とされています。

 

八十蘇場の清水

泉の横にところてん屋さんがあるので、みんな涼みつつところてんを食べていました。

 

崇徳天皇御殯殮御遺跡碑

 

八十蘇場の清水

やそばの水はドンドン落ちる つるべでくんで ヤッコでかやせ

むかしから讃岐のわらべたちに唱われたこの泉は、いかなる旱天にも涸れることなく、今も清冽に流れている。

景行天皇の御代、南海に征して悪魚の毒に悩んだ讃留霊皇子とその軍兵八十八人は童子の捧げるこの水によって蘇ったがゆえに、八十蘇場の水との伝説を持ち、芳甘清碧な水は古くより薬水として尊ばれ、茶人にも愛されて、遠くは阿波山中より求め来る人も多いという。

八百年のむかし、保元の乱によって綾北に配流された崇徳上皇が南狩9年にして鼓岡行在所に崩ぜられるや御殯殮の地となり、御尊体をこの霊水にひたして損腐を防いだ聖地でもある。

老杉は天を覆って森厳の気を生じ、清水は滔々として行人の心を濯ぐ、やそばはまごとに霊泉の聖地である。

由緒

保元元年(1156)、保元の乱に敗れた崇徳上皇は讃岐に流され、雲井御所に3年仮住まいの後、国衙(坂出市府中町)近くの鼓岡に行宮を造営。

 

配流から8年後の長寛2年(1164)8月崩御し、御所からの返事を待つ間、当社裏手にある弥蘇場の霊泉に玉体を安置。

同年9月に宣下により白峰山に白峰陵を築き、荼毘に付されました。

 

上皇の遺体が霊泉に浸されてから白峰山にて荼毘に付されるまでの間、毎夜付近の霊木に神光があったといい、同年10月に二条天皇の命により社殿を造営し上皇の霊を奉斎したのが当社の創祀とされます(別名の明ノ宮はここに由来するそうです)。

 

高倉天皇は当国の稲税千束を納め、土御門天皇は当宮を勅願所とし、後嵯峨天皇は社殿を再建し御宸筆の願文に手形の朱印を加え荘園を寄進と、歴代天皇の尊崇が篤かったようです。

明治以前は崇徳天皇社野沢井宮、崇徳天皇明の宮と称されていましたが、明治5年に県社に列格、白峰宮と改称されました。

 

なお、別当を務めた金華山摩尼珠院妙成就寺(四国八十八ヶ所霊場第79番札所)は明治の神仏分離令により廃寺。

近隣の林田町にあった高照院が移転して第79番札所を引き継いでいます(金華山高照院天皇寺)。

境内は白峰宮と天皇寺で一体化しており、参道奥が白峰宮、参道左右に天皇寺という配置。

厳密にはどこで区分けしているのでしょうか、気になります。

御朱印

御朱印はあります。

参拝時、拝殿脇にある授与所は閉まっていましたが宮司さん宅までの略図が出ていたため訪問。

社殿右手の道を奥に行けばすぐです。そちらで拝受可。

白峯陵

当社の東にある五色台の白峰に白峯寺があり、その境内に崇徳院の陵、白峯陵があります。直線距離で4.8kmほど離れています。

 

県道180号で山を登ります。白峯寺の案内が随所にあるのでわかりやすいはず。

 

白峯寺の駐車場前の道を降ります

 

西行法師のみち

思ひやれ都はるかに沖つ波 立ちへだてたる心細さを

このお歌は保元の乱に敗れ遠く讃岐の国松山の地に配流され再び都に許されることなく無念のご生涯をこの地に閉じられた崇徳上皇の辞世のお歌である。上皇が亡くなられて間もなく、はるばるこの地松山に杖を引きその亡魂をお慰め申し上げたのが今に歌聖とうたわれる西行法師円位である。

よしや君 昔の玉の床とても かゝらん後は何にかはせん

この歌は西行が上皇のご霊前に捧げた鎮魂絶唱の歌として今に広く知られる歌である。

この坂を約一〇〇米降りると御陵階段下に達するが道は更に山裾の青海神社へと延びている。この道がかって西行が登坂した鎮魂の道「西行法師のみち」といわれる御陵への旧参道である。この旧参道に八十八基の歌碑が立ち並び当時上皇が詠まれたお歌や西行らが詠んだ数々の上皇を慕う痛恨の歌が刻まれている。

この地を訪れる人達の多くがこの道をたどり歌碑群に刻まれたこれらの歌の数々を鑑賞し保元の昔を体感しながら悲劇の帝・崇徳上皇を偲ぶ縁としている。

 

降りたところに階段

 

階段を登ると、白峯御陵

 

白峰御陵と崇徳上皇

白峰御陵は、崇徳上皇の御陵(お墓)です。都から遠く離れたこの地に御陵があるのはなぜでしょう。

崇徳上皇は保元の乱(一一五六年)で武運つたなく敗れ讃岐国に配流されてきました。讃岐在住八年、四十六歳で崩御され、稚児ヶ嶽のがけの上で荼毘に付され、御陵が築かれたのです。

ここ、白峰寺や坂出市府中町、林田町などには上皇にまつわる伝説やゆかりの土地が数多く残っています。

なかでも玉章木の伝説は有名です。この伝説は崇徳上皇とホトトギスの交流を描いたものです。上皇の悲運の生涯に同情し、長い間人々に語りつがれてきたのでしょう。

鳴けば聞く 聞けば都の恋しきに この里過ぎよ 山ほととぎす

 

ふりにける君が御幸の鈴のそうはいかなる世にもたえずきこえん(西行)

 

一たびも聞きし御法を種として佛の身とぞたれもなりぬる(崇徳院)

 

瀬を早み岩にせかるヽ瀧川のわれても末にあはんとぞ思ふ(崇徳院)

 

濵千鳥跡は都へ通へども身は松山に音をのみぞなく(崇徳院)

 

松山の波にながれてこし舟のやがてむなしく成にけるかな(西行)

 

よしや君昔の玉の床とてもかヽらん後は何にかはせん(西行)

 

思ひやれ都はるかに沖つ波立ちへだてたる心細さを(崇徳院)

アクセス

予讃線八十場駅の横、西庄町の交差点(位置)を南へ。

150mほど先の突き当りを右に折れると赤い三ツ鳥居が見えてきます。

鳥居手前まで来たら、右からでも左からでもいいので迂回して境内後方に回り込むと、駐車場があります(位置、住宅を挟んだ南東側にも駐車場あり)。

神社概要

社名白峰宮(しろみねぐう/しらみねぐう)
通称
旧称

明ノ宮

崇徳天皇社野沢井宮

住所香川県坂出市西庄町1719
祭神崇徳天皇
社格等旧県社
札所等さぬき十五社九番
御朱印あり
御朱印帳
駐車場あり
公式Webサイト
備考

参考文献