磐坂神社。
三好市池田町シンヤマに鎮座。
式内社 倭大国玉神大国敷神社二座の論社である医家神社の旧鎮座地とされる場所にある神社。
境内
調整池横の道を登ります、が…
途中草ぼうぼうのところがあります
短いので気にならない程度ですが、西側から民家横を巻いて登る道もあるのでそちらの方がいいかも…
登りきったところ
手前の木々と廃屋で隠れてわかりづらいのですが、この奥に神社があります(左奥の方に入っていきます)。
境内
手水舎
鳥居
社殿
拝殿
扁額
本殿
境内社等
境内社
御神木?
由緒
主祭神石凝姥命(伊斯許理度売命)は天抜戸命の子で鏡作の祖とされている。現在も神殿には御鏡が奉詞されている。(旧無格社)
天文年間(一五三二~一五五五)の創建と伝える。口伝によれば往古に磐坂大権現と称した。磐坂日子神を奉りし故に名付け奉りしお名なりと、その訳は出雲風土記に佐能孚命、お子磐坂日子命とあり。出雲意宇郡磐坂神社がある。佐能孚命は素戔嗚尊である。その子、大国主命。その子事代主命である。後祭神、山を下り給う。此の宮、今の医家神社なりという。
その社地跡に元亀年間(一五七〇~一五七七)高井萬太夫、石凝姥神を奉祠せしが、社名は変えることなく磐坂の神としてまつり、広く産婦等の悩めるを治し給い、又蜂須賀公の崇教厚く、家臣権現氏に神社の周囲八丁四方をあたえ守り役を命ぜらたという。
一、祭神 石凝姥命(伊斯許理度売命)
二、境内 四百三十七坪
三、位置 池田町字シンヤマ三九五九番地
四、徳島県庁 十九里十丁
当地に神社が創建されたのは天文年間(1532~55)。
当初鎮座していた神社は磐坂大権現と称し、磐坂日子神を祀っていたとも。
その祭神は後に山を下り、医家神社に祀られたとされており、よって当地は医家神社の旧鎮座地ということになります。
その後元亀年間(1570~73)、当地に石凝姥命が祀られたといい、これが現在当地に鎮座する神社の創祀。社名はそれまで鎮座した社と変わらず、磐坂の神として祀られ現在に至るようです。
医家神社は延喜式神名帳にみえる「阿波国美馬郡 倭大国玉神大国敷神社二座」の論社ですが、そうだとすると天文年間の創建というのは時代が合いません。
また現在の医家神社祭神は大国主神と少彦名神であり、磐坂日子神は祀られていません。天明2年(1782)の成立とされる(?)『阿府志』に「祭神二座大己貴尊、少彦名命」とあるので、もし祭神が変更されたならばそれ以前でしょうが、不明。
創建後50年も経たぬ内に山を下りたというのも何らかの理由がありそうですが、謎。
御朱印
御朱印の有無は不明。
アクセス
阿波池田駅の東、杉尾神社前の踏切(位置)を渡ります。
杉尾神社の石段前から、左手の道を登っていきます。この道が狭い上に薄暗く、山道苦手な人は要注意。途中の蓮華寺(新四国曼荼羅霊場の一つ)への分岐より先はさらにレベルが上がります。
上に数軒ですが民家があり、それなりに対向車が来る可能性も。離合できる場所はわずかしかありません。
駐車場はありません。
神社概要
社名 | 磐坂神社(いわさかじんじゃ) |
---|---|
通称 | – |
旧称 | 磐坂大権現 |
住所 | 徳島県三好市池田町シンヤマ3959 |
祭神 | 石凝姥神 |
社格等 | 式内社 阿波国美馬郡 倭大国玉神大国敷神社二座(旧地) 旧無格社 |
札所等 | – |
御朱印 | 不明 |
御朱印帳 | – |
駐車場 | なし |
公式Webサイト | – |
備考 | 当地は医家神社の旧社地とされる |
参考文献
- 「磐坂神社」, 神社本庁教学研究所研究室編『平成「祭」データ(CD-ROM)』全国神社祭祀祭礼総合調査本庁委員会, 1995
- 徳島県神社庁教化委員会編『改訂 徳島県神社誌』徳島県神社庁, 2019