忌部神社。
眉山の一部をなす、勢見山に鎮座。
式内名神大社 忌部神社の後継社。
境内
参道起点の社号標
一の鳥居
参道石段下から
手水舎
境内
二の鳥居
狛犬
社殿
拝殿
明治に建てられた社殿は戦災で焼失してしまったため、現在の社殿は戦後再建されたものです(再建年は上記の境内由緒書では昭和42年、『平成祭データ』や徳島県神社庁のWebサイトでは同43年)。
扁額
本殿
こちらは昭和28年再建のもの。
境内社
手水舎そばの境内社
左手の赤い社はお稲荷さん
右手の社名不詳の境内社
手前に建つ碑によれば「元満州開拓青年義勇隊現地死亡者の御霊を拓魂碑より移し当社に合祀す」とのこと。
参道石段下の祇園神社
祇園神社狛犬
裏参道(車道)途中にある霊神社
眉山には眉山新四国八十八ヶ所霊場と眉山西国三十三ヶ所霊場があり、当社の裏参道にその一部があります
由緒
御祭神 天日鷲命
太古、天日鷲命は殻麻を植え製紙、製麻、紡織の諸業を創始され、特に天照大神が天の岩戸にお隠れになった時白幣を作り、神々と共に祈祷られ、天の岩戸開きに大きな功績を挙げられた。
その子孫は忌部と称して国家祭祀の礼典を掌どり神武天皇の御代阿波国へ下り代々朝廷に麁服御衣(あらたえのみそ)を貢上した。斯く天日鷲命を奉祭する。
徳島県民の祖神を祭り阿波国總鎮守の神社として古来朝野の尊崇篤く、後、官幣大社に列せられ四国一の宮とも称せられた。
明治四年国幣中社に列せられ明治七年所在地を麻植郡山崎村と決定されたが同十四年美馬郡西端山村遷祀、更に、明治二十年徳島市の現在地に新社殿を奉遷鎮祭し奉る。
昭和二十年大東亜戦争の為、焼失したが崇敬者の尊い浄財により、本殿は昭和二十八年に、拝殿は昭和四十二年に復興された。
例祭 十月十九日
式内 忌部神社の由緒については 山崎忌部神社の記事をご参照ください。
正蹟争いの末に妥協案として遷座されたのが当地になります。
正確には、明治18年に隣接する金刀比羅神社に仮遷座、同25年5月社殿竣工し現社地へ遷座とのこと。当地が選ばれたことに何らかの理由があるかは不明。
なお移転に伴い、 吉良の御所神社は当社の摂社とされています。
御朱印
御朱印はあります。
境内の社務所で拝受可。
アクセス
国道438号沿い、金刀比羅神社の少し南辺りに表参道の入口があります(位置)。
また金刀比羅神社裏手に裏参道があります。
金刀比羅神社の向かいにコインパーキングはありますが神社用の駐車場はなし。金刀比羅神社は市中五社の一社で参拝者も多そうなんですが、みんな徒歩でくるのかしら。
忌部神社の境内北側に駐車スペースがあるのですが、表参道側からは車道がなく、西に回り込む必要があります。
まず表参道入口から300mほど南の十字路(位置)まで行き、西に折れます。
600mほど行くとY字路があるので(位置)、右手の道へ(青看に「眉山山頂」の表示がある方)。
100mほど先の分岐(位置)を右へ。300mほど先の分岐(位置)を右へ。
800mほど行くと、分岐(位置)に「忌部神社→」の看板が出ているので右へ。
そのすぐ先、また忌部神社の案内が出ているので、それに従い正面やや右に下る道に入り道なりに行くと境内に出ます(最後の分岐から神社までの道は狭いです)。
こんなルートです。ルート直リンク
カーナビに神社の住所を入れればここまで案内してくれると思いますが、割とわかりづらいルートなのでご注意。
神社概要
社名 | 忌部神社(いんべじんじゃ) |
---|---|
通称 | – |
旧称 | – |
住所 | 徳島県徳島市二軒屋町2-48 |
祭神 | 天日鷲命 |
社格等 | 式内社 阿波国麻殖郡 忌部神社 名神大 月次新嘗 或号麻殖神 或号天日鷲神 続日本後紀 嘉祥二年四月乙酉(二) 天日鷲神 従五位下 日本三代実録 貞観元年正月廿七日甲申 忌部天日鷲神 従五位上 日本三代実録 元慶二年四月十四日己卯 天日鷲神 正五位下 日本三代実録 元慶七年十二月廿八日庚申 天日鷲神 従四位下 旧国幣中社 別表神社 |
札所等 | – |
御朱印 | あり |
御朱印帳 | – |
駐車場 | あり(国道沿いにはなし) |
公式Webサイト | – |
備考 | – |
参考文献
- 「忌部神社」, 『日本歴史地名大系』(データベース「JapanKnowledge」)
- 「忌部神社」, 神社本庁教学研究所研究室編『平成「祭」データ(CD-ROM)』全国神社祭祀祭礼総合調査本庁委員会, 1995
- 式内社研究会編『式内社調査報告 第二十三巻 南海道』皇學館大学出版部, 1987
- 徳島県神社庁教化委員会編『改訂 徳島県神社誌』徳島県神社庁, 2019