八幡神社。
美馬市美馬町八幡、旧重清西小学校の北に鎮座。
境内
参道入口
県道12号から一段あがったところの道の途中、重清西小学校(2018年廃校)の敷地の間。
社号標
狛犬
注連柱
小学校の間の道を抜けると境内前
車はここから入って境内に停められます。
鳥居
扁額
狛犬
2番目の狛犬
3番目の狛犬
参道
注連柱
手水舎
八幡古墳群
八幡1号墳、八幡2号墳、八幡3号墳と大国魂古墳(3基、開口しているのは1基)の6古墳群である。太鼓状に胴の張った形と穹窿式(アーチ型)の天井構造をもつ、段の塚穴型石室分布の西端にあたる。6世紀後半の比較的小規模な円墳で、八幡1号墳と大国魂古墳は石棚をもっている。大国魂古墳は石室が正方形で石棚をもち段の塚穴型石室をもつ古墳の中で最古のものではないかといわれている。
倭大国魂神社 八幡神社の社叢
倭大国魂神社は、延喜式内社の倭大国玉玉神・大国敷神(二座1社)にも比定されている古代からの神社であり、中世には重清城主の小笠原氏に崇敬された。八幡神社は、鎌倉時代末期に小笠原長親が重清城を築いた時に、京都石清水八幡宮の分霊を勧請し、源氏であった小笠原氏の守護神、武神として祭られ、明治には郷社となり、現在も重清の村人たちの氏神、鎮守の神様として崇敬されている。八幡神社と109段の石段で結ばれる大国魂神社の境内は昼なおくらき、うっそうとした森(社叢)である。樹齢数百年、太さ5~6メートルのクスの巨樹をはじめ、ムク、エノキ、カヤ、ケンボナシ、ナギ、ウラジロガシ、コルククヌギ、ヤブツバメ、アカメガシワ、ヒサカキ、シイカシなどの常緑広葉樹と落葉広葉樹が混生し、中間温帯林と暖温帯林の接点をなす樹相をみせていて、樹林の美しさだけでなく学術的にも貴重である。
重清城跡
承久の乱後、阿波に入部した小笠原氏の2代守護長房の孫長親が鎌倉時代末期にこの地にやって来て築いたのが重清城である。前に断崖、背後に讃岐山脈をひかえた大地の上に、北と西を城ヶ谷川でさえぎり、東と南を土堀とその外側の二十堀に守られた約30アールほどの本丸があり、井戸や土塀、二十堀が遺構として残っている。
吉野川上流から下流への交通の要衝にある難攻不落の大城で、戦国時代、土佐の長宗我部元親の阿波侵寇の時は、2度にわたる攻防があり、天正6年、当時の城主小笠原豊後守長政とその長子を謀略にかけ暗殺した。その後一旦は阿波方に戻ったものの再び落城、廃虚の道をたどった。
小学校跡のすぐ北に八幡神社。その裏手、階段を上ると倭大国魂神社。倭大国魂神社から西400m程の場所に重清城址。また、小学校跡周りに八幡古墳群、倭大国魂神社境内に大国魂古墳があります。
社殿
拝殿
本殿
境内社等
猿田彦大神
社日塔
境内社
拝殿脇の巨木
参道脇の巨木
この他にも境内には立派な木が多くありました。
由緒
小笠原長親が鎌倉時代末期(南北朝期)重清城築城の際に、京都石清水八幡宮の分霊を勧請し、城地の守護神として奉祀したことに始まるとされる神社。
『阿波誌』には「八幡祠 重清村に在り源長宗置く時祭料二十ビン田一町八段、今闔村之を祀る(後略)」とあります。
明治6年郷社列格。
祭神は八幡神社なので応神天皇、神功皇后、姫大神の三柱。
御朱印
御朱印の有無は不明。
アクセス
マルナカ美馬店の北に大人の学校悠々大学(重清西小学校跡地のカルチャーセンター?)があり、さらにその北に八幡神社。
県道と参道が交差していない(参道には一段高い道から入る必要がある)のでちょっとわかりづらいかも。マルナカの前(位置)から上ることもできますが、ストリートビューで見てちょっと怖いという方は、東にあるセイムス脇の道(位置)から回り込むといいと思います。
前述の通り境内に駐車可能です。
神社概要
社名 | 八幡神社(はちまんじんじゃ) |
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通称 | 重清八幡神社(しげきよはちまんじんじゃ) |
旧称 | – |
住所 | 徳島県美馬市美馬町八幡15 |
祭神 | 応神天皇 神功皇后 姫大神 |
社格等 | 旧郷社 |
社格等 | – |
御朱印 | 不明 |
御朱印帳 | – |
駐車場 | 境内駐車可 |
公式Webサイト | – |
備考 | 境外に古墳あり |
参考文献
- 「八幡神社」, 『日本歴史地名大系』(データベース「JapanKnowledge」)
- 「八幡神社」, 神社本庁教学研究所研究室編『平成「祭」データ(CD-ROM)』全国神社祭祀祭礼総合調査本庁委員会, 1995
- 徳島県神社庁教化委員会編『改訂 徳島県神社誌』徳島県神社庁, 2019
- 明治神社誌料編纂所編『府県郷社明治神社誌料 下巻』明治神社誌料編纂所, 1912(国会図書館デジタルコレクション 261コマ)