八幡神社。
香美町香住区下浜に鎮座。
式内社 法庭神社に比定される法庭神社を合祀した神社。
境内
社頭
社号標
鳥居
扁額
狛犬
参道
手水舎
二の鳥居
狛犬
社殿前の狛犬
神門?
表参道ではない位置に建っていたように思うのですが詳細失念。
社殿
拝殿
本殿覆屋
拝殿中から本殿
枕石
枕石
当社と隣の帝釈寺の参道間に置かれています。
遠く六世紀末、我国では蘇我氏と物部氏との争いの中で、仏教を排斥する物部守屋によって貴重な渡来仏の多くが難波に投棄されたが、その一仏が不思議な漂流を経て当地に漂着し、地元村民によって救い上げられた。人々はその威厳に満ちた尊容に驚覚し、やがて一宇の御堂を建立して海上安全、五穀成就の守護身として敬い、信仰を深めていった。これが帝釈山開山縁起である。この大長石は白鳳四年(西暦六七六年)当山本尊が下の浜枕ヶ崎、一ノ瀬に漂着された時、波打際で枕にして横たはっておられた縁深き浄石である。本尊と共に大多数の村民の合力によって運び上げられたものと伝へられている。
由緒
創建は大宝2年(702)、あるいは貞観18年(876)。
鎌倉時代には社領として10町9段330歩を有していたようです。
明治6年村社列格。
合祀の法庭神社は延喜式神名帳にみえる「但馬国美含郡 法庭神社」に比定されています。
合祀の時期は不詳。『式内社調査報告』は古くに合祀されたとします。
しかし、『兵庫県神社誌』や兵庫県神社庁ページでは法庭神社について個別に立項されており、法人としても八幡神社と法庭神社は別個に登記がされています。
法庭神社の旧地には、今も法庭神社が存在しており、祭礼はそちらで行われるようです(社号標には本宮とあり。法庭神社の登記上の所在地はおそらくこの地)。
なので、古くに合祀→旧地に再興(合祀も存続)だと思われますが、その時期や経緯は不詳。
法庭神社の創建は『法庭神社調書』によると崇神天皇の御代(BC97~BC30)。
同調書によると由緒は以下の通り。
『法庭神社調書』
天照国照天火明饒速日命及び野見宿禰命を祀る抑本社を祀るに饒速日命を以てするものは本社旧記に拠るに上古饒速日命大和国より兵を率いて本国出石郡床尾山に来り給い其大水の国内に洋々たるを見漸く北して来日山に至り遂に其北方の山岳を削開して漲水を北海に決し給う。即ち瀬戸水門なるもの是なり。此に於て平地始めて顕し水道始めて通ずる事たり。命は之より海に航して西に趣き本村の船越山に至り給う。即ち命が船に乗じ給う所の山を相して一社を立て命を奉じて乗場神社と称す。中世之を改めて能理波とし終に法庭と改むるに至ると伝う。
本社は崇神帝の朝鎮座せし所にして醍醐帝延喜年中勅を受けて改造す云々。而るに中世洪水の為めに祠殿廊宇山と共に崩潰して久しく之を興起するものなかりしが宝暦七年村中の豪農浜上太郎左衛門なる者自ら主唱となり村民と共に力を合し小社を旧基に復興し今に之を存せり
祭神が船の乗場としたことから「乗場神社」とされ、そこから「能理波」、「法庭」になったとします。
よって本来の社名読みは「ノリバ」だと思われ、延喜式諸本も「ノリハ」と訓を付しているのですが、現在の読みは「ほうてい」のようです。
『但馬故事記』は法庭神社の創建を慶雲4年(707)とします。
美含大領矢田部連守柄がその祖・大新川命を法庭丘に祀ったのを創祀とします。
また『但馬神社系譜伝』には、延長5年(927)官社に預かったとあります。
御朱印
御朱印の有無は不明。
アクセス
香住ICを下り国道178号を西へ。
下浜地区に入り、下浜交差点の次の角(位置、青葉保育園の看板出ているところ)を右に入ると、帝釈寺と当社の参道前に出ます。
駐車場はありません。帝釈寺には数台の駐車場がある(当社参道から境内に入ったところか、参道横の倉庫前か、どちらかわかりませんが)ようです。
神社概要
社名 | 八幡神社(はちまんじんじゃ) | |
---|---|---|
旧称 | 八幡宮社 | |
住所 | 兵庫県美方郡香美町香住区下浜591-1 | |
祭神 | 応神天皇 | |
祭神(法庭神社) | 武甕槌命 天照国照天火明饒速日命 野見宿禰命 | 『式内社調査報告』 |
天照国照天火明饒速日命 野見宿禰命 | 『神社調書』 | |
武甕槌命 | 『特選神名牒』 『兵庫県神社誌』 | |
社格等 | 式内社 但馬国美含郡 法庭神社(合祀) 旧村社 | |
御朱印 | 不明 | |
駐車場 | なし |
参考文献
- 「下浜村」, 『日本歴史地名大系』(データベース「JapanKnowledge」)
- 「八幡神社」, 神社本庁教学研究所研究室編『平成「祭」データ(CD-ROM)』全国神社祭祀祭礼総合調査本庁委員会, 1995
- 式内社研究会編『式内社調査報告 第十九巻 山陰道2』皇學館大学出版部, 1984