蜂神社。
紫波町宮手の陣ヶ岡公園内に鎮座。
坂上田村麻呂、源頼義・義家父子、源頼朝などが陣を敷いたとされる地に建つ神社。
境内
次の社頭の写真の場所から西へ500mほど行ったところに建っている社号標
なお、さらに西、社頭から1kmほど行ったところに一の鳥居があるようです(位置)。
社頭
社号標
社号標
鳥居
字が消えて読めない扁額
陣ヶ岡公園看板
参道
社号標
鳥居
手水舎
狛犬
社殿
拝殿
扁額
本殿
境内社等
御神木殿
扁額
御神木の一部が祀られています
源頼義・義家父子御手植えの杉だったそうです。
この石は昔宮手の人達がみんなで力を合わせて西の山奥から運んだ尊い石です。これは部落民の幸せを祈って神前に捧げたものです。この石の上で祈願すれば必ず成就すると言われています。
御神木殿そばの手水舎
王子(皇子)森古墳
日本武尊の王子古墳標柱
第十二代景行天皇の皇子日本武尊蝦夷征討の時この地に宿営したが、皇子妃御産となり麓の清水を産湯とされ、清水は御子清水と称し高水寺の始りと伝えられている。王子三日にして崩御、ここに奉葬するも以来歴代支配者の崇敬を受けていたが殊に藤原秀衡は廟鑑を置き神田二十町歩を奉納されていた。現在御産と子育ての神として地方民から深く崇拝されている。
御神木
天正十六年八月南部信直が高水寺城攻略のため本陣にしたとき奉植されたと伝えられている
二本杉(夫婦杉)家庭円満祈願
石碑群と鍋
神楽殿
源氏武将櫓
陣ヶ岡陣営跡標柱
安倍の比羅夫野営跡、坂上田村麻呂蝦夷征討の宿営跡、源頼義・義家父子厨川柵進路の本陣跡の標柱
多数の宿営地や本陣となっていたことがわかります。
標高百三十六メートルのこの独立丘は、文治五年(一一八九)の戦役に、源頼朝軍の滞在した旧跡である。すなわち、同年、藤原泰衡を追討するために北上した源頼朝は、九月四日より一週間にわたってこの地に宿営するのである。その率いる軍勢は、二十八万四千騎を数えたという。
これよりさき、泰衡は、家臣の河田次郎をたよって肥内郡贄柵(北秋田郡大館付近か)に潜入したが、しかし、悲運にも次郎の反逆にあって殺害されるところとなった。九月六日、河田次郎は、泰衡の首をこの陣ヶ岡に持参して頼朝のもとに差出した。恩賞がめあてであったことはいうまでもない。ところが、頼朝は、泰衡の首を八寸の鉄くぎではりつけにするとともに、次郎をも斬首の刑に処してしまったのである。譜代の恩を忘れて主人を殺した罪と後輩のみせしめのためにというのがその理由であった。
なお、里伝によると、この地は前九年の役の際にも、源頼義・義家父子が陣営を敷いた跡だといい陣ヶ岡の名はそれに発したものだという。
陣ヶ岡史跡要覧
一.先住民族の住居跡
一.日本武等、蝦夷征討宿営
一.王子森古墳(現)高水寺の祖
一.安倍比羅夫、東北征討宿営
一.道嶋の宿禰、東北征討宿営
一.坂上田村麻呂、東北征討宿営
一.安倍頼時、貞任、陣ヶ岡大遊楽地造成
一.源頼義、義家、前九年の後、本陣
一.月の輪形、日の輪形、奉造御神木奉植
一.義家、八門遁甲の兵法の陣造成修練
一.藤原秀衡、月の輪形、日の輪形修造(現)
一.奥羽一万寺修道淨化の聖地造成
一.源頼朝泰衡追討本陣
一.泰衡首洗い井戸(現)
一.頼朝義家の兵法陣跡調査源氏諸流の祖
一.北條宣時陣ヶ岡再興斯波氏代々奉護
一.南部信直、斯波氏攻略本陣
一.豊臣の先陣蒲生氏郷九戸の乱参陣
一.百姓一揆集会場
一.明治天皇、陣ヶ岡古文書、宝物拝観
平泉関連陣ヶ岡史跡
寿永元年平泉三代藤原秀衡遺跡
一.蜂神社修建御神馬奉納 遠山民部社掌に任命
一.王子御廟神田二十町奉納 須賀川荘司、藤原昌行を廟鑑に任命 東西南北一里に吉野桜を奉植
一.東に萩と蓮池を造成 西に月の輪形・日の輪形を奉造
一.奥州に一万寺の修道浄化の聖地とする
一.高水寺に念仏堂、祈念堂造営(亡霊供養)
一.大坊、小坊八十余僧徒百人余昼夜一千燈 燈油代年に一千石(陣ヶ岡全盛期)
文治五年平泉四代藤原泰衡遺跡
一.源頼朝陣ヶ岡本陣に宿営 泰衡の首検視
一.中尊寺別当心連大法師来陣 泰衡平泉で供養 中尊寺安堵の懇願許可受ける
由緒
里伝によると、康平5年(1062)9月、源頼義、義家父子が厨川柵の安倍貞任と対峙、当地に陣を敷き、戦勝祈願の為建立したのが当社とされます。
なお、典拠資料が不明ですが、紫波町観光交流協会のサイト内、蜂神社の項にて、当社の創建について前九年の役の際の逸話として次のようにあります。
蜂神社(はちじんじゃ) – 紫波町観光交流協会
(前略)厨川柵周辺の藪にたくさんの蜂の巣があり兵が蜂にさされて困っていましたが、それを見た源義家はそれにヒントを得たのか、夜間に蜂の巣を袋にとり、蜂を怒らせてから貞任陣営に投げ込み、蜂が一斉に襲うと同時に攻めかかり勝利をおさめたといわれています。勝利を導いた蜂を祀った社が 蜂神社(後略)
同内容を取り上げているサイトが複数あったため、何らかの形でこの伝承があることは確実だと思われます。
また、文治5年(1189)に源頼朝が逗留した「陣岡蜂社」は、当社を指すとされています。
その後、時が経ち荒廃したようですが、近世初期に宮手村の鎮守社として再興されたとされます。
岩手県神道青年会 神社検索の当社ページに「近世になると、その旧地に八幡堂の勧請されたことが伝えられている」とあるので、伝承が事実であれば荒廃前は純粋に蜂を祀る神社だったのが、近世再興の時に八幡社となった、と考えられます。以降は陣ヶ岡八幡堂と称していたようです。
明治元年(1868)に旧称の蜂神社に復称。
時期不明ですが村社列格。
なお、志賀理和氣神社の宮司さんに伺った話では、当社を延喜式神名帳にみえる「陸奥国斯波郡 志賀理和氣神社」に比定する説もあるそうです。
東北の方言で蜂を「すがり」というそうで(調べると東北以外にもあるみたいです)、「すがり」と「しがり」の音が通じることによる説のようです。
あまり有名あるいは有力な説ではないのか、これを記載している資料は見つかりませんでした。
御朱印
御朱印の有無は不明。
本務社は志和古稲荷神社のようです。
アクセス
盛岡から国道4号を南下、あるいは花巻から北上してきて、古館小学校交差点(位置)を西へ。
2kmほど行くと右手に鳥居と、蜂神社の社号標が建っていますので鳥居を潜ってしばらく進めば神社です。
鳥居からちょっと左手に駐車場あり。
鳥居潜ってしばらく行った境内にも駐車場あったかと思いますが記憶曖昧。
神社概要
社名 | 蜂神社(はちじんじゃ) |
---|---|
通称 | – |
旧称 | 陣ヶ岡八幡堂 |
住所 | 岩手県紫波郡紫波町宮手字陣ヶ岡69 |
祭神 | 誉田別命 |
社格等 | 式内社 陸奥国斯波郡 志賀理和氣神社 日本文徳天皇実録 仁寿二年八月辛丑(七) 志賀理和氣神 正五位下 旧村社 |
札所等 | – |
御朱印 | 不明 |
御朱印帳 | – |
駐車場 | あり |
公式Webサイト | – |
備考 | – |
参考文献
- 「蜂神社」「陣ヶ岡」, 『日本歴史地名大系』(データベース「JapanKnowledge」)
- 「蜂神社」, 神社本庁教学研究所研究室編『平成「祭」データ(CD-ROM)』全国神社祭祀祭礼総合調査本庁委員会, 1995