天健金草神社(隠岐の島町都万)

天健金草神社。

島後の南西、都万に鎮座。

式内社 天健金草神社に比定される神社。

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境内

鳥居

 

二の鳥居

 

神門

 

石段

 

狛犬

社殿

拝殿

 

扁額

 

本殿

 

社殿全景

境内社等

武内社

 

境内社か神輿庫か…

 

牛突場

由緒

案内板

天健金草神社は、延長5年(927)成立の延喜式神名帳に記載されている古い神社です。強い神威を持つとされる神社で、神功皇后が三韓出兵時、暴風を避けた際に参拝した伝説があるほか、新羅船を大風で退かせたという託宣(平安時代の歴史書『扶桑略記』に記載)により朝廷から数度にわたって神階が上げられました。また、元弘の乱で隠岐へ配流になっていた後醍醐天皇は、この神社に脱出祈願を行い、それがかなった後に正一位を贈っています。

本殿は、元治元年(1863)の建築で、形式は流造です。平面プランは、玉若酢神社や水若酢神社とほぼ同じで、屋根の形式の相違はありますが、隠岐造三間社の成立と関係があると考えられています。主祭神である抓津媛命、大屋津媛命の神名は「都万」や「大屋」など地名となっていて、古くは都万、那久、油井、津戸、蛸木の5か村で造営する大きな神社でした。毎年の例祭は、以前は大規模なもので、玉若酢神社御霊会風流のように神馬八頭を神社境内へ馳せ入れたり、流鏑馬なども行われていたようです。

 

天健金草神社由緒略記

一.社格、社號、鎮座地

村社 天健金草神社 穏地郡都万村大字都万霊亀山鎮座

二.祭神

大屋津媛命 抓津媛命 應神天皇 息長帯姫命 玉依姫命 塩土老翁 建御名方命

三.由緒沿革

當社ハ延喜式神名帳に隠岐國穏地郡三座を列記せられたる中の天健金草神社として人皇四十六代孝謙天皇天平勝寶七年八幡原に神社を建立す今より一千貮百有余年是則ち本社の創立なり祭神大屋津媛、抓津媛二神ハ素盞鳴尊乃御女にして御兄五十猛命と共に八十木種を植ゐしめて此國土を開拓し給ひて終ゐ大屋津媛命は大屋仙洞に座し抓津媛命は狭山涌泉に座すと依りて地號を都萬院と稱す、且狭山涌泉わ神仙院霊沰と號し毎年幣帛を奉る流水漲漾りて大屋の仙洞に通ふと神代より今日に逮んで未だ不乾國土旱すれば必ず神仙院に祈る有霊験土俗呼んで幣の御池と云ふ

四.神階

人皇五十六代清和天皇貞観十三年閏八月二十九日授隠岐國従五位上天健金草神従四位下

人皇五十八代光孝天皇仁和元年授隠岐國従四位下天健金草神従四位上

光厳院御宇正慶二年癸酉後醍醐天皇御座當嶋時依還幸丹祈祷、當社〇禱、于當社而女神二座〇贈正一位

五.祭祀、祭日

古来より當社恒例の最も重き祭祀ハ御幸祭、百手的祭、放生會、の三大祭にして御幸祭は往古の寛弘三年三月に始まりしも一時中絶せしを明治維新の際再興し本村大字蛸木津戸都万那久油井の五大字にて擧行せしも其後分離して現今大字都万崇敬者にて執行せり放生會は明治初年〇〇秋祭と改稱し今尚続行せり

祈年祭 三月一日 例祭 四月十五日

秋祭 九月十五日 新嘗祭 十二月一日

※〇は解読不可字

創建時期は不詳。

祭神の抓津姫命は当初狭山涌泉に鎮座したとされます。

狭山涌泉は現社地の東北北約2kmのところにある幣池と『式内社調査報告』にあります。しかし、北北東3km弱のところに幣池神社という神社(祠)があり、実際はそちらを指すのではと思われます。

 

 

 

場所はこの辺り(位置

 

また大屋津姫命は当初大屋仙洞に鎮座したとされます。

大屋仙洞は現社地の西南西約2kmの海に接した断崖の下、大屋のワンド(湾戸)だとされます。

大屋のワンドはシーカヤックで潜るツアーが行われているようです。

 

そして、この二神を合わせ祀り、そこへ天健淵(幣池の南約1.5km)に降臨した正八幡宮を合祀したといい、その地を八幡原と呼んだといいます(八幡原の場所は不明)。

その後現在地へ遷座したようで、明治の神社取調帳に「是ハ天平勝寶7年乙未2月八幡原ト云處ニ鎮座アリシヲ、寛弘3丙午年此處ニ移シ、同殿ニ合祭レリト申傳フ」とあることから遷座は寛弘3年(1006)とみられます。

 

国史においては、三代実録 貞観13年(871)閏8月29日壬申条に「隠伎国従五位上天健金草神従四位下」とみえるのを初見として、同仁和元年(885)閏3月10日乙未条に「隠岐国従四位下天健金草明神従四位上」、日本紀略 寛平3年(891)4月11日庚寅条に「隠岐国従四位上健金萱神正四位下」(この条では「健金萱神」表記)、同天慶3年(940)9月4日丙寅条に「隠岐国正四位上天健金草神…従三位」とみえます。

延喜式神名帳においては「隠岐国穏地郡 天健金草神社」とみえています。

 

『扶桑略記』に「延喜6年(906)7月13日隱岐國言。従坤方猛風高吹、天健金草命託宣、新羅賊船數艘浮居北海、我爲追退彼賊令大風者、如帆柱木等流着、是新羅賊船帆柱木者、神名告其徴如此」とあります(新羅の賊船が北の海にいたので、我は追い払うために大風を吹かせたという天健金草命の託宣があり、その後実際に新羅船の帆柱等が流れ着いた、というような意味)。

 

中世以降は衰微したようで、社領は3石、しかも八幡宮のものという状態になってしまいました。

明治5年村社に列格、昭和9年県社に昇格。

御朱印

御朱印はあります。

宮司さん宅で拝受可。事前連絡があった方が良いようです。

私は船の関係で時間があまりなかったため未拝受。

アクセス

まずは隠岐、島後の西郷港までフェリーで行きます。

港から国道485号を西へ。

2kmほど行ったところ、玉若酢神社の南辺りで県道44号との分岐があるので県道の方へ。

 

そのまま道なりにずっと進み、13kmほど先(位置)で右折。

150mほど行くと参道入口。駐車場はありません。

神社概要

社名天健金草神社(あまたけかなかやじんじゃ)
通称
旧称八幡宮
住所島根県隠岐郡隠岐の島町都万砂子谷霊亀山4243
祭神

大屋津姫命

抓津姫命

誉田別尊

配祀

息長足帯姫命

玉依姫命

鹽土翁

建御名方命

社格等

式内社 隠岐国穏地郡 天健金草神社

日本三代実録 貞観十三年閏八月廿九日壬申 天健金草神 従四位下

日本三代実録 仁和元年閏三月十日乙未 天健金草明神 従四位上

日本紀略 寛平三年四月十一日庚寅 健金萱神 正四位下

日本紀略 天慶三年九月四日丙寅 天建金草神 従三位

旧県社

札所等
御朱印あり
御朱印帳
駐車場なし
公式Webサイト
備考

参考文献

  • 「天健金草神社」, 『日本歴史地名大系』(データベース「JapanKnowledge」)
  • 「天健金草神社」, 神社本庁教学研究所研究室編『平成「祭」データ(CD-ROM)』全国神社祭祀祭礼総合調査本庁委員会, 1995
  • 式内社研究会編『式内社調査報告 第二十一巻 山陰道4』皇學館大学出版部, 1983