壇鏡神社。
島後の西の那久、壇鏡の滝の袂に鎮座する神社。
境内
道の分岐点(アクセス項参照)に建つ鳥居
狛犬
二の鳥居
この写真を撮っている位置の後方が駐車場です。
鳥居の前に建つ二本の杉
松尾山光山寺の二代目住職の慶安が夢のお告げを受けて二つの滝を見つけ、源来の滝のそばで発見した神鏡を祀ったのが、壇鏡神社の始まりです。
昔、壇鏡神社に出雲大社の神殿修理に協力するよう文書が送られてきて、境内の杉の木を要求されました。出雲大社の横暴に村人は腹を立てたものの仕方なく、境内の杉の木を伐り出しましたが、その時神社の鳥居を本殿の方へ動かす者がいました。
男は、「こうしておけば、鳥居の外の杉は壇鏡神社の所有でないことになる。」というので一同は感心して手伝って鳥居を動かしました。
それで今でも、この神社の鳥居の外には二本の杉の大木が残っています。
社号標と壇鏡の滝碑
参道
滝から流れてくる川
橋
「捨身とは天より瀧の落つること」
山口誓子の句碑だそうです。
手水舎
鳥居
神門
狛犬
狛犬
神門と社殿
社殿
拝殿
扁額
拝殿と本殿
仮殿
社殿が平成11年(1999)に火災で焼失し、こちらが仮殿とされていたそうです。
平成15年(2003)に社殿は再建されました。
境内社として弁財天社があるそうなのですが、見当たらず。
壇鏡の滝
神社を挟んで左右に壇鏡の滝、雄滝・雌滝があります。
日本の滝百選に選ばれている滝であり、また壇鏡の滝湧水は名水百選に選ばれています。
さらに、雄滝は滝の裏側に回れる「裏見の滝」となっています。
雌滝
雄滝
雄滝裏側
滝の裏には虚空蔵菩薩が祀られています
元は光山寺にあり、廃仏により野ざらしになっていたのを大正時代にここに祀ったそうです。
都万村那久横尾山の下に松尾山光山寺(承和5年、もと遣唐副使で嵯峨上皇の忌諱に触れ、隠岐に流された小野篁の住みし所である。また、小野篁は、赦免となって帰京できるよう壇鏡の滝に打たれ、一心不乱祈願したと伝えられる。)という古い寺があるが、そこの二代目慶安という僧侶が夢の告げを受けて、険しい横尾山中をさまよっていると、目前に大きな滝が二つ現れたと伝えられる。これがここの壇鏡の滝である。
この滝の上を少し登ると、もう一つの源来の滝があり、この滝の上に一個の神鏡を発見し、これを祀ったのが壇鏡神社である。
ここの水は、環境庁の選定した「全国の名水百選」のひとつであり、流域にはオキサンショウウオが生息しているが、勝者(女神)の水、火難防止の水としても有名で、七五〇年の歴史ある島の闘牛大会や、隠岐古典相撲大会には出場する関係者は必ずこの水を大会前日(深夜)先を競って迎え、清めて大会に望む慣習が今もなお続いている。
また、島民が山焼き等火入れの際には必ずこの水で清め御守として利用するとともに、島内でも長寿者が多いところから長寿の水(万病に効く水)としても重宝がられている。
光山寺跡
県道から滝に至る道の途中に光山寺跡があります。
入口
跡地に建つお堂
宝亀年間(770~780年)の創建とされ、小野篁が隠岐へ流罪となっていた間の数ヶ月間、この光山寺で過ごしたといわれている。
明治の廃仏毀釈により、本堂は焼失し礎石のみが残る状態となったが、昭和初期に檀家により現在の小堂が再建されている。
創建は、宝亀年間(770-780)といわれ、平安時代に遠流となった小野篁が過ごした場所といわれています。
篁は、承和元年(834)遣唐副使となるものの、渡航しなかったことなどの罪により、承和5年(838)に隠岐への遠流の刑に処せられました。配所は、当初島前の海士町豊田でしたが、その後島後に渡りこの光山寺に移ったとされています。その後、承和7年(840)に許されて帰京するまで、ここから小路の願満寺へ仏像を彫るために通う途中、その途中の都万目の里のあこなという女性と恋仲になるなどの悲恋伝説を残しています。平安時代の勅撰和歌集「古今和歌集」には、篁が隠岐への船出の際に詠んだとされる和歌「わたの原 やそしまかけて こぎいでぬと 人にはつげよ あまのつり舟」と、隠岐に流されていたときに詠んだといわれる歌「おもひきや ひなのわかれに おとろへて あまのなはたき いさりせんとは」が収められています。古い堂宇は、明治の廃仏毀釈で焼失し、往時を偲ばせるものは礎石のみとなっています。大正9年(1920)、檀家により小堂が建立され、本尊と小野篁作と伝えられている焼け残った仏像が安置されています。また、境内には江戸時代に那久村に配流となった流人の墓があります。
油井の池
滝から降りて県道を北に行くと油井の池があります。
油井の池
貴重な動植物の生息地だそうです。
由緒
壇鏡神社
主祭神 瀬織津姫命
合祀神 諾浦姫命(峯津神社) 大山咋命(日吉神社) 事代主命(三保神社)
祭日 例祭 四月一日 八朔祭 九月一日
特殊行事 毎年九月一日に八朔祭の神賑行事として隠岐最大の牛突き八朔本場所が行われている。
由緒
壇鏡神社の創立は不詳だがおよそ一二〇〇年前と考えられる。松尾山光山寺の二代目慶安法師が夢のお告げを受けて険しい横尾山中をさまよっていると目前に大きな滝が現れたと伝えられる。それがこの壇鏡の滝である。法師は更に滝の上を少し登ると、もう一つの源来の滝があり、傍の壇の上に一個の神鏡を発見しこの滝の傍に小祠を建てゝ祀ったのが社名の起りであると伝えられている。後世になって今の社地に祀られるようになった。寛永六年(一六二九)の棟札がある。古文書によると勝者(女神)の水、火難防止、家運隆盛、海鳥守護、航海安全の神として古くから崇敬された神社である。
創建時期は不詳。平成15年の由緒書に約1200年前とあるので、800年頃と考えられているようです。
松尾山光山寺の二代目、慶安が夢のお告げを受け、横尾山を彷徨っていた際に2つの滝を発見。これが壇鏡の滝です。
そして慶安がさらに登ると、源来の滝という滝があり、そのそばの壇の上に神鏡を発見。それを滝のそばに祀ったのが壇鏡神社のはじまりとされます。
のちに現社地、壇鏡の滝の間に遷されたと伝えられます。
なお壇鏡神社には隠岐国内神名帳に所載の正四位上阿久姫神が合祀してあると旧記にあるとのこと。
明治4年無格社とされました。
また、当社には峯津神社、日吉神社、三保神社が合祀されています。
峯津神社は元は那久岬に祀られ、後に字杉谷に遷座。祭神は諾浦姫命。
隠岐国内神名帳に所載の正五位上峯津神に比定されています。
また、高尾山の城の鎮護社八幡社を落城後に合祀。
明治4年村社列格。
日吉神社は字中里に鎮座。祭神は大山咋命。
近江国日吉神社を勧請した神社で、正保2年(1645)の棟札がありました。
明治4年村社列格。
三保神社は字泊に鎮座。祭神は事代主命。
隠岐国内神名帳に所載の正五位水祖明神を合祀と旧記にあるとのこと。
寛永17年(1640)の棟札がありました。
明治4年村社列格。
上記3社を明治41年に壇鏡神社に合祀、峯津神社の社殿を遷してきて那久神社と改称。
この時に、浜那久にあり、客社あるいは客大明神といわれた牛頭天王も合祀したともいわれます。
昭和41年に再び壇鏡神社に改称し現在に至ります。
壇鏡の滝は「日本の滝百選」に、また壇鏡の滝湧水は「名水百選(昭和の名水百選)」に選定されており、その水は勝者(女神)の水、火難防止の水、長寿の水とされています。
承和5年(838)に隠岐に流された小野篁は、壇鏡の滝に打たれ帰京の祈願をしたといわれます。
彼が隠岐に流される際に詠んだ歌「わたの原八十島かけて漕ぎ出でぬと人には告げよ海人の釣舟」は古今和歌集、百人一首にも選ばれており有名。
御朱印
御朱印の有無は不明。
アクセス
玉若酢命神社の辺りから県道44号をひたすら島の西側の方に走り、18km弱先(位置、壇鏡の滝の案内あり)で右折します。
そのまま3kmほど行くと、道が二手に分かれ、右側の道に鳥居が建っています。
鳥居を潜ってしばらく行くと駐車場あり。
その先徒歩数分で神社と滝に着きます。
神社概要
社名 | 壇鏡神社(だんぎょうじんじゃ) |
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通称 | – |
旧称 | 那久神社 |
住所 | 島根県隠岐郡隠岐の島町那久中ノ谷1617 |
祭神 | 瀬織津姫命 |
合祀 | 諾浦姫命 大山咋命 事代主命 |
社格等 | 旧村社 |
札所等 | – |
御朱印 | 不明 |
御朱印帳 | – |
駐車場 | あり |
公式Webサイト | – |
備考 | – |
参考文献
- 「那久村」, 『日本歴史地名大系』(データベース「JapanKnowledge」)
- 「壇鏡神社」, 神社本庁教学研究所研究室編『平成「祭」データ(CD-ROM)』全国神社祭祀祭礼総合調査本庁委員会, 1995