玉若酢命神社(隠岐の島町下西)

玉若酢命神社。

西郷港の西北西約2kmの場所に鎮座。

式内社 玉若酢命神社に比定される神社。

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境内

鳥居

 

社号標

 

手水鉢

 

神門

 

文化財案内

一 重要文化財 玉若酢命神社三棟

  〔本殿・随神門・社家億岐家住宅・土地〕

  附(本殿棟札・普請文書・随神門棟札・旧拝殿一棟・家相図・社家億岐家住宅福神社一基・宅地〕

(本殿)天明七年(一七八七)棟梁鈴木儀八以下一三人の隠岐の工匠を中心に本建設を開始し、翌八年に概ね完成した。二年の中断後寛政三年(一七九一)に工事を再開し、寛政五年(一七九三)に上棟したと普請文書が伝えている。隠岐造りとも呼ばれている。

(随神門)嘉永五年(一八五二)の建設である。

(億岐家住宅)享和元年(一八〇一)の建設であり、社家住宅の特徴ある形式を伝えている。

一 重要文化財 隠岐国駅鈴(附 光格天皇御下賜唐櫃)

一 重要文化財 銅印「隠伎倉印」

一 国指定 天然記念物 八百杉

  根もとの周囲約二〇m、胸高周囲約九.九m、高さ約三〇m

むかし数百年生きながらえたと伝えられる八百比丘尼が若狭より隠岐に渡り、当社に参拝した記念に植えた杉なので「八百杉」と云う。また、この杉の根元に大蛇が生息していたが、この蛇は寝たままついに根に包まれてしまい今でも周囲が静かなときには、大蛇のいびきの音が聞こえてくると。

いろふりて雲をぞさそう仙人の植えて幾世か杉の一本 (宝永二年 日置風水記)

一 県指定史跡 玉若酢命神社古墳群

一 県指定無形民俗文化財

  玉若酢命神社御霊会風流(六月五日祭礼…馬入れ神事)

社殿

拝殿

 

扁額

 

本殿

 

旧拝殿

境内社等

(おそらく)若宮

 

(おそらく)池宮

 

八百杉。国指定天然記念物。『隠岐古記集』によれば、元は3本あり、1本は天明に、1本は幕末頃に倒れたとされます。

 

総社の八百杉

昔々、若狭の国(福井県)から渡ってきた八百比丘尼は、この社にお参りし、記念に杉を植えました。八百年後に再び訪れることを約束したので、八百杉と呼ばれるようになったと伝えています。この杉に耳を当てて心を潜めると、寝ている間に閉じこめられた大蛇のいびきが聞こえると言われます。

玉若酢命神社古墳群

神社の右手から右後方にかけて、玉若酢命神社古墳群があります。

 

史跡 玉若酢命神社古墳群

玉若酢命神社の北西側の丘陵には、大小十五基から成る古墳群があります。古墳の形は、十四基(そのうち一基は消滅)は円墳ですが、丘陵頂部の一基は前方後円墳です。円墳は直径十メートル前後、高さ一メートル程度です。内部構造は未発掘で詳細は分かりませんが、横穴式石室と考えられています。前方後円墳は、保存状態が大変良くて、墳形が分かりやすいものです。大きさは全長三十二メートル、後円部は直径十九メートル高さ二.六メートル、前方部は幅十五メートル高さ二.三メートルで、やや前方部が開いた、比較的古い形の前方後円墳です。後円部の頂上には、石室の蓋石と思われる板石が露出しています。この前方後円墳の築かれた年代は、墳形、消滅した三号墳の副葬品、古墳群全体の状態などから、六世紀後半頃と考えられます。

隠岐島内では、前方後円墳を含むこれだけの群集墳は例がなく、非常に貴重な古墳群です。

 

県指定史跡 玉若酢命神社古墳群(西郷町下西)

この古墳群は玉若酢命神社の北西側の丘陵上に位置し、ここ頂上にある前方後円墳1基(8号墳)のほか、神社脇からの登り道沿いに円墳14基が確認されている。隠岐島では最も残りが良く、数多くの古墳からなっている。

前方後円墳の8号墳は尾根頂部を造成して造られており、全長33.2m、後円部径19m、高さ2mを測る。墳丘は極めて残りが良好である。その他の古墳はいずれも10~15m前後の円墳と考えられ、3、4基がひとつのまとまりを持ち、4群に分けることが可能である。これらの円墳は墳丘盛土が流失して埋まっているが、本来は墳丘のまわりに半円形の溝をめぐらしていたものと推定される。また、最も下方にある3号墳は牛突き場を造るときに横穴式石室が露出し、内部から太刀や須恵器が発見されている。

古墳群が造られた時期や内部の施設は未調査のため不明であるが、唯一内容のわかる3号墳が古墳時代後期(6世紀後半頃)と考えられることから、この時期を前後する頃と推定される。

 

境内からの登り道

 

11号墳

 

13号墳

 

14号墳

 

6号墳

藪に埋もれてどれも形がよくわかりません…

 

頂上部。最大の8号墳も藪の中でよくわからず…

億岐家住宅と宝物殿

神社の左手に社家である億岐家の住宅があります。この億岐家住宅は国指定重要文化財です。

 

億岐家住宅。現在も住宅として使われているため、中は非公開。隠岐騒動の際の弾痕があるそうです。

住宅左手に宝物館があり、こちらは見学可能(有料)。こちらに保管されている隠岐国駅鈴、隠伎倉印も国指定重要文化財。撮影禁止なので写真はありません。

由緒

案内板

【玉若酢命神社】

隠岐の総社として創建された神社で、島の開拓にかかわる神と考えられている玉若酢命を主祭神としています。現在の本殿は、寛政5年(1793)の建築で、様式は隠岐造です。三間社の隠岐造では、水若酢神社、伊勢命神社とともに最大規模です。社伝によると景行天皇が皇子を各国に分置した際に隠岐に遣わされた大酢別命の御子が玉若酢命だと伝えています。宮司を務める億岐家は「隠岐国造(おきのくにみやつこ)」(現在でいう市長)の末裔だといわれており、億岐家に保管されている2つの駅鈴と隠伎倉印は国の重要文化財に指定されています。毎年6月5日に行われる「御霊会風流(ごれえふりゅう)」では馬入れ神事や流鏑馬などの行事がおこなわれ馬付き達の勇壮な姿を見ることができます。

【八百杉】

樹齢1000年以上といわれている杉の巨木で、人魚の肉を食べて800年生きたという八百比丘尼(やおびくに)が若狭から来て植えたという伝説があります。八百比丘尼の伝説から名前をとって八百杉と呼ばれ親しまれています。杉の名前からも当時の隠岐と若狭の国との交流をうかがい知ることができます。また、八百杉の根元に住み着いた大蛇が昼寝をしている間に八百杉の成長により外に出られなくなったため、自らの不甲斐なさから夜な夜な鳴いているという伝説も残っています。

創建時期は不詳。

社伝では応神天皇の御宇勧請としますが、国造本紀に「意岐国造、軽島豊明朝御代、観松彦伊呂止命五世孫十挨彦命定賜国造」とあるのを混同したとも言われます。

『隠州視聴合紀』や『隠州記』は天武天皇の勅命での奉斎とします。

 

三代実録 貞観13年(871)閏8月29日条に隠岐国正六位上蕤若酢神が従五位下を授けられた旨の記述があり、『日本の神々』に「蕤」は花の垂れたる状、または冠・旗などにつける垂れ飾りの意だから「タマ」と読み、玉若酢命神社とみる意見が強いとあります。

延喜式神名帳においては「隠岐国周吉郡 玉若酢命神社」とみえています。

 

国府域にあったことから隠岐国惣社となったとされますが、その時期は不明。

隠岐総社については、元は和気能須神社であったとか、大正期に有木神社に合祀された総神社であったとする説もあります。

 

隠州視聴合紀や隠州神名帳に「正一位玉若酢大明神」とありますが、『式内社調査報告』ではこれを宗源宣旨、『日本の神々』では宗源宣旨あるいは隠岐国造の賢しらであるとみています。

これについて『中世諸国一宮制の基礎的研究』では、水若酢神社が正三位に止まっていたことから、実質的には当社が一宮の機能を兼ね、水若酢神社は名目的な存在になっていたのではないかとしています。

 

明治の『神社取調帳』では、島後2郡の総社であったのが後に周吉郡25ヶ村のみの総社となったとしています。

明治5年県社列格。

 

当社は隠岐国造家の億岐氏が代々社家として宮司を務めてきたとされています。

しかし、『日本歴史地名大系』によれば、総社の宗教的な権威の向上と再編成が推進され、惣社の神官は新しく国造とよばれるようになった、とされ、『左衛門尉義親奉書写』に藤原朝臣義介(隠岐国衙の在庁官人と推定)が「隠岐国惣国造職」に任命されているのがその初見とあります。

また、応安7年(1374)1月17日の玉若酢命神社棟札写から永禄11年(1568)4月15日の玉若酢命神社棟札写に至る惣社国造家の名前が確認できるすべての文書において、国造はいずれも吉田氏を名乗っている、ともあり、このあたりの事情については不明です。

御朱印

御朱印はあります。

宝物殿の受付で拝受可。

アクセス

西郷港から国道485号を西へ2km強。

 

鳥居右手、この辺に駐車場あり。

神社概要

社名玉若酢命神社(たまわかすみことじんじゃ)
旧称惣社
住所島根県隠岐郡隠岐の島町下西703
祭神玉若酢命
配祀

大己貴命

須佐之男命

稲田姫命

事代主命

須世理姫命

社格等

式内社 隠岐国周吉郡 玉若酢命神社

日本三代実録 貞観十三年閏八月廿九日壬申 蕤若酢神 従五位下

隠岐国総社

旧県社

御朱印あり
駐車場あり

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