飽富神社。
袖ケ浦市飯富、袖ケ浦公園のすぐ西に鎮座。
式内社 飫富神社に比定される神社。
境内
社頭
鳥居
扁額
式内縣社の標
手水舎
灯籠
中程と下に狛犬がいます。
左の灯籠の狛犬
右の灯籠の狛犬
狛犬
参道
2019年の台風15号の被害で石畳が一部損壊していました。鎮守の森の木々も多数倒れ、氏子の方達が片付けをされていました。この状態にするのにもかなりの日数がかかったそうで、業者も呼んで進めるとのこと。
2015年に参拝した時の参道
社殿
拝殿
扁額
本殿
本殿(2015)
後述の通り境内社や神輿庫が倒木の被害を受けた中、社殿への被害は避けられたのが不幸中の幸いと言ったところでしょうか…
境内社等
御末社は、古来より七十五末社と稱せられ、神域内に齋き祀る。
三百年前の神社々記市正傅記より。(祭神名等の記述は省略する)
◇御本殿の後 東之方御末社 五社 一~五座
◇御本殿の後 西之方御末社 五社 六~十座
◇御本殿 東之方御末社 二十社 十一~三十座
◇御本殿 西之方御末社 十三社 三一~四三座
◇亥之方(北北西) 御末社 九社 四四~五二座
◇南方 御末社 三社 五三~五五座
◇寅之方(東北東) 御末社 四社 五六~五九座
◇卯之方(東) 御末社 二社 六〇~六一座
◇北方 御末社 十社 六二~七一座
◇丑之方(北北東) 御末社 二社 七二~七三座
◇申之方(西南西) 御末社 二社 七四~七五座
御末社合わせて七十五社なり。(成立年代不明)
市正傅記とは、当社祠官深河市正秀豊、天和年間(一六八〇年)に著せし社記にて、元禄四年地頭天野佐左衛門雄正の助力により、現社殿再建修復時の神主なり。境内に「本殿再建の人」といふ碑あり。
古語に「七五の御代」なる語あり。七は、神代系図天神七代の國常立尊から、七代の数の七で、五は地神五代の神・天照大御神より五代で、即ち、皇統の祖神にあらせらるる五柱の神也。七と五の数字は聖数として、七福神、七五三、七権現、七賢、五穀、五言、五山、五事、五常、五霊等あり。当社の七十五末社は、この七と五の数字をとり、制定せしものと思わる。しからば制定の年次は…元禄十五年正月記(一七〇二年)寄進帳に「上総國望陀郡一宮」、また、寛政八年正月記(一七九八年)由緒書に「上総一國の総社、望陀郡一郡の惣鎮守」と記述あり。この二文は共に、当社神主より天野地頭所宛に提出せし文書なり。十世紀頃、一宮、二宮、三宮等の社格の制起り、続いて粗同じ頃総社の制起る。依って当社七十五末社の制定の年次は、十世紀近くまで遡るものかと推測するものなり。
この案内にある通り、社殿周囲に境内社が多数あります。
社殿周囲の末社殿に73社が確認できました。他2社は他の境内社なのか、あるいは確認・カウント漏れがあるかはわかりません。
社殿左手前の石祠群
社殿左手の名称不明社
社殿左手の子育て弁天宮淡島神社
社殿左手の境内社
左から木花浅間宮、軻遇突智社、初杉大明神、花輪之大明神、??取大明神、木(本?)??神社、清北大神宮、飯森大明神、広田大権言、??大権言、飯岡大権言、秋口大権言、米倉大権言、玄畑大権言、高原大権言、金山彦大神
社殿後方の境内社
左から見通大明神、飯粥大明神、第五太神宮、第四太神宮、第二太神宮、服部大明神、飯取大明神、茅輪大明神、天雲神社、??鬼大明神、高之宮、海神之宮、岐大明神、萱姫大明神、罔象大明神、菅苞大明神
社殿後方の境内社2
左から不明、不明、(神納)卒土神社、月山神社、(庚申)猿田彦太神、疱瘡神、(蔵波)八幡神社、稲荷大明神
社殿後方の境内社3
左から住吉太明神、少名彦太神、大己貴太神、(???)若宮八幡神社、伊邪那岐伊邪那美神社、野田神社、(三ツ作)三輪大明神、(久保田)八幡神社
社殿右手に東照宮
社殿右手前の境内社
子安大明神、東鎮神社、白狐大明神、柳葉大明神、石凝姥神社、壹(?)宇加大明神、酒解大明神、大将軍神、白鳥太神宮、鹿嶋大神宮(?)、香取太神宮、澳津姫神、澳津彦神、福王神社、稚彦大明神、深(?)?大明神、三之宮太神、牛頭天王宮、太田命宮、東明大明神、姫龍大明神、彦龍大明神、龍田太神宮、大山祇神社、太王大明神
石祠
危ういところで木が止まっていました。
金刀毘羅宮 琴平神社
神輿庫
倒木が当たったようで、屋根が破損し傾いていました。
在りし日の神輿庫
これも神輿庫のようです
御神木
当社は國家の鎮護、殊に福神五穀成就の神霊故に、社中に源家の大将鎌倉の右大臣頼朝公を、白幡権現として勧請し奉つり、又新田義貞公を新田八幡として勧請し奉つる。(二座共に勧請年月明日ならず)
降りて、元禄年間飯富村の領主天野地頭所より、古例に准じ、勧化の儀、お尋ね有り、其節二座の後ろに、御領主天野佐京雄良御鎮座木として、父之木を御植になり、父之木の如く千々に御栄え永く変らぬようにと祈誓し、祝ひ壽ぎ御勧請したる由、申し傳えあり。
御鎮座木の父之木、年々相榮え数十本競ひ生し、寛政八年正月には、本株は逞しく成長して三抱程になり、以来、子、孫と成長を続けて、現在の御神木は三代目を数えるなり。
但し、当社にて父之木と申すは、銀杏の木の事で、御神木を植えてより、年暦久しくして、今を遡ること凡そ三百年前のことに属す。
石祠と木の植えられた一角
台風後に訪れた時にはなかったような…
遥拝所
飽富神社一之○○(読めず)の碑
この天神七福神像は今から二百五年前「明和五年」飽富神社神主深河常陸介喬栄により画かれたものです。今日の七福神像は大黒様と戎様以外はインドや中国の神様・高僧にて構成されており、この様に日本の神様のみの七福神像は大変珍しく飽富神社以外では兵庫県の西ノ宮神社にあるのみで資料的にも貴重なものです。
稲の豊作を祈る神事で4月上旬に行われます。この神事の世話人は高橋孫右衛門宅が世襲で行っています。当日は、氏子総代が刈ってきた葭と楢の小枝を、おばあさん達が苗結びに仕立て、約700本作って神前に供えます。関係者一同が祈願の後、稲籠に入れた葭苗を鳥居の前に運び、すげ笠にたすき姿の「早乙女」が石段下に集まった氏子たちに向かって、この葭苗を投げるという神事です。氏子は、この葭苗を田植えまで神棚に供え、田植えの時に水口に立てて豊作を祈願します。
伝承地 飽富神社
指定年月日 昭和六十三年三月三十日
飽富神社の筒粥とは、米粉を溶いた粥に束ねた葦の筒を入れて煮詰め、葦の仲に入る粥の量で作物の豊凶を占う神事であり、市内岩井の国勝神社の筒粥と同様、毎年一月十四日の深夜から十五日の未明にかけて行われる。
古くから役割が家ごとに定まっており、地元飯富の中山市左衛門家がいろりの鉤と箸を、隣接する神納の多田兵庫家が粥の米と占いの結果を印刷する版木を用意する。十四日の夜には氏子が七十五本の葦筒を作り編んで束ねる。
十四日の深夜、数人の若者が裸で水を浴びて身を清め、ヒノキの板ときりで火をおこし、粥を煮る。粥に葦筒を入れてかきまぜ、神前での儀式の後に、葦筒の中に入った粥の分量で、大麦、小麦麻布、早稲、中稲、晩稲、稗、粟、大豆の作柄を占う。地元の人々は、その結果を見に来るとともに、牛王串を受けて帰り、苗代の水口に立て、苗の成長を祈る。
この神事は、作物の作柄を占うとともに一年の豊穣を祈る農耕儀礼であり、旧家の役割が守られる中で深夜に行われるなど、古来からの祭祀の姿を色濃く残すものである。
これがひしゃげてるのもおそらく倒木のせい。
由緒
指定年月日 昭和五十三年四月一日
所在地 袖ケ浦市飯富字東馬場二八六三
この神社は、平安時代初期に編集された「三代実録」という史書や、「延喜式」という法令集の中にすでにその名が記されている式内社で千年以上も前から存在した古社です。
旧称を飫富神社といい、県内では香取神宮・安房神社など十八社ありますが、君津地方では唯一のもので、歴史的価値の高い神社です。
創建は、社殿によると第二代綏靖天皇元年で、天皇の兄「神八井耳命」が創建したと伝えています。祭神の主神は「倉稲魂命」という稲の神、すなわち農業神で、古くから農民の信仰を集めてきました。例祭は七月二十四日に行なわれています。
現存の社殿は、元禄四年(一六九一年)に再建されたもので、全体として権現造りになっている。本殿は流造りで、拝殿は入母屋造りです。
棟札は、杉材を用いてあり、表裏にそれぞれ次の墨書銘があります。
(表)卍奉 新造立大明神大殿一字所
(裏)元禄四辛未歳 卯月二十一日
社伝によれば創建は綏靖天皇元年(BC581)。
皇兄神八井耳命による創建とされます。
縄文時代頃はこの辺りは入海で、神社のある大地は南から伸びた半島となっていたようです(周辺に貝塚が発見されている)。その後隆起等で湿地となり、そこを開墾した集団が氏神を祀ったのが実際の始まりとみられています。
『式内社調査報告』では奉斎した氏族を飫富氏(=多氏。中世に当地を本貫とした飯富氏に繋がるのかは不明)、その居住・開墾時期は大化改新以後としています(当社付近の飫富氏関係とみられる古墳が古墳時代末期の円墳ばかり(現在はほとんど消滅)なこと、馬来田国造が当地を支配していた時期に入り込むことは困難だったと思われることから)。
また同書は飫富氏の移住元として長狭国(現在の鴨川市及び南房総市の一部)を挙げています。古事記で長狭国造は神八井耳命の後裔とされている=同祖の飫富氏も同族、という推測が論拠のようです。
延喜式神名帳の「上総国望陀郡 飫富神社」および、三代実録 元慶8年(884)7月15日癸酉条にみえる「上総国…正五位下勳五等…飯富神…正五位上」は当社に比定されています。
和名抄の上総国望陀郡に「飫富郷」の名が見え、於布の訓注があることから、当初は延喜式の記載通り「飫富神社」であり、読みは「おふ」だったと思われますが、いつの頃からか「飽富(あきとみ)神社」になったようです。なお地名は「飯富(いいとみ)」となっており、なぜこの差異が生じたのかは謎。
『式内社調査報告』は三代実録の「飯富神」も本来は「飫富神」であり写本誤記であろうとします。
当社明細帳には元慶元年(877)に祈雨の勅願があったこと、天慶2年(939)に平将門の乱鎮定の勅願によって神剣が奉納されたことが記されており、神剣は近年まで現存したようです(現在は盗難により行方不明)。
『平成祭データ』によれば、明治5年県社列格。
『式内社調査報告』によれば、明治6年郷社、その後まもなく県社列格。
当社の例祭ではかつて浜降りがあったようで、『日本の神々』に以下のようにあります。
『日本の神々』 かつては年番が神輿の御浜降りに奉仕し、当日は国勝神社の神輿と蔵波の往会原で対輿式を行ない、別れて飯富の神輿は蔵波海岸の芝殿から、国勝の神輿は勝下から、海中より湧き出る「神手洗井」の清泉におもむいて斎祓式を行なった。東京湾埋め立て後は、公園になった神手洗井跡には鳥居が残され、対輿式のために築かれた御塚の跡には往会原の記念碑が建立された。
神手洗井はおそらく埋め立てで消滅したのだと思われます。長浦のちば里山センター(位置)に復元された「御手洗井」があります。御手洗井と神手洗井が同じ泉を指すかわかりませんが、御手洗井を紹介している千葉県観光物産協会のサイトでは「海面下の泉で干潮になると姿を表した」とあるので、同一のように思えます。
また、長浦駅のすぐ西にある自治会館の敷地内に海岸大鳥居跡碑なる石碑が立っています(位置)。碑文を見ると、蔵波八幡神社(位置)の浜降りのための鳥居ということですが…昭和45年の寄進後20年経過し解体とあるので、平成の初めまでは鳥居があったのでしょう。
往会原については全くわからず。
現祭神は倉稲魂命で、大己貴命と少彦名命を配祀。
当初の祭神は別だと考えられ、『特選神名牒』『日本地理志料』は神八井耳命、『神名帳考証』では天富命とします。
神八井耳命説は、当社を奉斎した飫富氏、つまり多氏の祖神であることから。
天富命説は、望陀郡が望陀布(朝廷に献上された特産物の麻織物)の産地であり、天富命が総の国に麻の栽培技術をもたらした神であることから。
御朱印
御朱印はありません。
現在は木更津の八剱八幡神社の兼務社なのですが、そちらで御朱印ないことを確認。
ただ、2018年頃まではインスタだったかに御朱印の画像が上がっていた記憶があります。
もしそれがかつて実際に授与されていたものだとすれば、今後復活する可能性もあるかもしれません。
アクセス
市原市から国道16号を木更津方面へ。
袖ケ浦消防署前交差点(位置)を左折し、突き当りの神納谷ノ台交差点(位置)を右折。
次の神納交差点(位置)を左折して、県道143号へ。1kmほど先、個人商店のあるところで左折(位置、ここから道細い)。
150m先の分岐(位置)で右へ。200mほど先、道沿いの民家が途切れたあたりで、左の森の中への道に入ると駐車場。何も案内はありませんがGooglemapに登録されてるので多分駐車場なんだと思います…(徒歩か自転車でしか行ったことがないのでわからない)。一応境内北東側からも入れる道はあります(位置、氏子さん達はそちらから乗り入れていました)。
日東バスののぞみ野・平岡線で袖ヶ浦駅から飯富まで乗れば、徒歩5分程度です。
ただし日中は2時間に1本程度しか便がありません。
袖ケ浦や木更津の駅前でレンタサイクルが借りられるので、利用すると便利です。どちらも電動で1000円/日(木更津の方は平日だと800円、学生だと500円。全部ビアンキのでアシストなしのクロスバイクもあり)。
神社概要
社名 | 飽富神社(あきとみじんじゃ) | |
---|---|---|
通称 | – | |
旧称 | 飫富神社 飫富宮 | |
住所 | 千葉県袖ケ浦市飯富2863 | |
祭神 | 倉稲魂命 | 現祭神 |
神八井耳命 | 『特選神名牒』 『日本地理志料』 | |
天富命 | 『神名帳考証』 | |
配祀 | 大己貴命 少彦名命 | |
社格等 | 式内社 上総国望陀郡 飫富神社 日本三代実録 元慶八年七月十五日癸酉 飯富神 正五位上 旧県社 | |
札所等 | – | |
御朱印 | なし | |
御朱印帳 | – | |
駐車場 | あり | |
公式Webサイト | – | |
備考 | – |
参考文献
- 「飽富神社」, 『日本歴史地名大系』(データベース「JapanKnowledge」)
- 「飽富神社」, 神社本庁教学研究所研究室編『平成「祭」データ(CD-ROM)』全国神社祭祀祭礼総合調査本庁委員会, 1995
- 式内社研究会編『式内社調査報告 第十一巻 東海道6』皇學館大学出版部, 1976
- 谷川健一編『日本の神々 神社と聖地 第十一巻 関東』白水社, 1984
- 明治神社誌料編纂所編『府県郷社明治神社誌料 上巻』明治神社誌料編纂所, 1912(国会図書館デジタルコレクション 546-547コマ)