敢國神社(伊賀市一之宮)

敢国神社。

伊賀一之宮ICの南500mほどに鎮座。

式内大社 敢國神社に比定され、また元伊勢敢都美恵宮の比定地の一つでもある神社。

伊賀国一宮であり、現在は神社本庁の別表神社。

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境内

社号標

 

列格88年記念碑

 

鳥居

 

扁額

 

手水舎

 

敢国神社御神水について

この手水舎の水は、社殿脇より湧く水を用いております。

この水は、諸々の病に良いと謂われ、伊賀市内はもとより、市外県外と遠方より汲みに来られています。

お水を汲まれる方は、まず御参拝頂きました後に、心静かにお汲み下さい。

尚、容器をお持ちでない方は、社務所にてお頒けしております。

 

御神水井戸

 

燈籠か何かの基礎?

 

拝殿への石段

 

狛犬

社殿

拝殿

 

祝詞殿

 

本殿は玉垣と木々に覆われ、よく見えず

境内社

本殿右手の六所社

本殿を挟んで反対側に同規模の九所社があるのですが、位置的に写すことができません(玉垣右手からがんばれば写せるかもしれませんが…)。

 

神饌所

 

御輿蔵

 

若宮八幡宮

 

子さずけの神

 

むすび社と楠社の鳥居

 

石段途中に楠社

 

石段上にむすび社

 

神明社

 

大石社鳥居

 

大石社

 

大石社の手前には鯱?がいます

 

大石社について

御祭神

須佐之男命 金山比古命

大山祇命 大日靈命

大物主命

由緒

伊賀一宮敢國神社の末社として鎮座創立年代は未祥である一之宮より中瀬字寺田に至る道路の左傍に大池あり池の東方山麓に岩石ありてこれを黒岩といふ大石の社名はこの岩石よりつけられたものであろう大石社獨立時代の祭神は文献なく知る由もない明治四十三年三重県の指令により村内にある津島神社と琴平社を大石社に合祀した社殿は明治四十四年の暴風雨により倒潰したが大正二年に再建された

津島神社は元村社で当時来迎寺の南五十米のところ(現在民有地の畑)に鎮座され境内も広く大鳥居御社殿参集殿など建立されていた尚愛知県津島市に鎮座する本宮津島神社を崇敬する人々が徳川時代中期より津島講を結成しその講員は来迎寺の檀家衆及び敢國神社の氏子によってその年長者より十一名と定められその活動を現在も存続している

琴平社は妙慶寺東百五十米東山の上平地に鎮座され津島神社と同じやうに鳥居御社殿参集殿なども建立されていたが両社ともその思影は殆ど見当らない香川県のこんぴらさんを崇敬する妙慶寺住職を始め九人の講員が現在講を持続している

御祭典日

元始祭 一月三日

春祭 四月二十四日

祇園夏祭 七月二十八日

秋祭 十月十五日

 

市杵島姫社(弁天社)

 

芭蕉句碑

 

案内板

手ばなかむおとさへ梅のにほひかな ばせを

元禄元年(一六八八)芭蕉四十五歳の作。季語「梅」で春。『笈の小文』の旅で伊賀上野に帰郷中の芭蕉が、梅の咲く頃の爽やかな山里の趣を詠んだ句で、『卯辰集』(北枝編)に収められている。土芳の『蕉翁句集草稿』には、「伊賀の山家に有て」の前書があり、下五を「さかり哉」とする。「手鼻かむ音」は、紙を使わず手で鼻をかむしぐさ。この語などは、和歌の観念では生かされそうにない素材であるが、芭蕉は和歌・連歌で詠み残した世界を広く俳諧の世界に生かし新境地としている。この句も高雅で伝統的歌題である「梅」の情趣に、いかにも卑俗な「手鼻かむ音」を配して、寒さの残る山里の野趣を表現しているところは、和歌の伝統などには見られない俳味である。

句意は、「早春のこととて、梅の花が今盛りを迎えている。その匂いの中に立っていると、傍らでふと手鼻をかむ音がした。そんなはしたない音さえも、田舎らしい趣が感じられてくる。」

 

桃太郎岩

古伝によりこの桃太郎岩は今を去る五百五十年前南宮山頂(前方に聳える山)からお遷し申し上げ、安産及び子授けの守護の霊岩として全国各地より信仰をあつめて居ります。

御祈願を社務所の方におこし下されば岩田帯及びお守りを授与いたします。

 

神璽と彫られた石

南宮山

神社の南東に南宮山が聳えています。

 

登山口は鳥居から東100mほどのところ(写真の少し先)

 

南宮山の登山口

NHK伊賀TV中継所登山口の標柱が建っています。

 

登山道

段々と傾斜がきつくなっていきます。

 

途中に標識が建っています

 

途中に岩がごろごろしているところあり

 

さらに登ります

 

この標識が見えたらもうちょっと

 

山頂手前のNHK中継施設

 

鳥居

 

山頂の浅間社

 

石仏?

 

三角点

 

『日本の神々』によれば、中腹に宮跡(遥拝殿であった可能性がある)があるとのことですが、見当たりませんでした。上掲の岩がごろごろしているあたりは平坦で広めだったので、そのあたりを指すのかも知れません。

元は山頂に金山比咩命が祀られており、後に山麓の敢國神社に合祀したという説もあります。

いつから浅間社があるのかは不明。

登りの所要時間は大体20分くらいです。

由緒

創建時期は不詳。

社伝によれば創建は斉明天皇4年(658)とされます。

 

創建以前から南宮山山頂に祀られていた、ということですが、神社でいただける紙の由緒書と公式サイトの由緒で相違があります。

紙の方には「もとは南宮山の頂上に祀られていました。その後、山麓に降ろしてお祭りするようになった(中略)斉明天皇4年(658)には、社殿が現在地に創建」とあります。

公式サイトには「古代伊賀地方には外来民族である秦(はた)族が伊賀地方に住んでおり彼らが信仰する神が当社の配神(はいしん)である少彦名命でありました。当時は現在の南宮山山頂付近にお祀りしていましたが、神社創建時には南宮山より現在地に遷してお祀りしています」とあります。

南宮山上に敢国神社があり遷座したのか、山麓に創建した敢国神社に山上の少彦名命を合祀したのか、どちらの見解をとっているのか上記からは判断しかねます。

その後南宮山山頂には金山比咩命が祀られました。

しかしある日、社殿前の御神木に「興阿倍久爾神同殿」の文字が現れたことから、貞元2年(977)に敢國神社の本殿に合祀されたとされます(ただしこの話は現存が確認できない書からの引用のようで、確証がない模様。祭神項参照)。

 

当社手前の県道676号を参道入口から南に行ったところに大石明神(大岩明神)の跡地があります(『日本歴史地名大系』では200m、『日本の神々』では400mとしますが、『日本の神々』に掲載されている跡地の写真を見るに、参道入口から360mほど、道路の西に大きめの池があり、道路挟んで向かいの南宮山の麓にそこと思しき場所がGoogleストリートビューで確認できるため、『日本の神々』の方が正確といえます。実際に跡地を見ていないので、本当にそこなのか断定はできませんが。大体の位置)。

ここにかつて大岩(通称黒岩)があり、弥勒の像が刻まれ大石明神と呼ばれていました。また、池の東南に大岩古墳という古墳もあったそうです。この場所からは古墳時代の祭祀用土器等が発見され、磐座祭祀が行われたと考えられています。

上記のGooglemapのリンクからストリートビューを見ていただくと、道の南宮山側、石垣の一部に大石があるのがわかります。どうやらこれが黒岩の一部ではないかとのこと。ツイッターで報告していた方がおり、石神・磐座・磐境・奇岩・巨石と呼ばれるものの研究さんで紹介されています。

 

 

円錐状の南宮山を神奈備として、大石明神を祭祀場とする説もあります(『三国地誌』)。

『日本歴史地名大系』は、当社が神体山とおぼしき南宮山と向き合う変則的な形をとっていることから、大石明神の地が当社の創祀とつながる可能性は否定しきれない、とします。

また『兼右卿記』には、中世に敢國神社が諏訪明神を勧請するまで、大石明神が一宮の根本だったとする旨が述べられています。

なお大岩(黒岩)は明治末から大正初期に採石で消滅、大岩古墳は昭和初期の県道開削工事でやはり消滅しています。

現在、大石明神は敢國神社の境内に大石社として祀られています。

 

文徳実録 嘉祥3年(850)6月4日条に「伊賀国…津神…従五位下」と見える伊賀国津神を当社に比定する説があります。

三代実録 貞観6年(864)10月15日条に「伊賀国正六位上安部神…従五位下」とみえる安部神を当社に当てる説もありますが、こちらについては伊賀市上野下幸坂町に鎮座の安部神社とする説もあります。

 

 

三代実録 貞観9年(867)10月5日条に「伊賀国従五位下敢国津神…従五位上」と昇叙されたことが記され、同貞観15年(873)9月27日条には伊賀国敢国津大社神が正五位下に、日本紀略 寛平3年(891)4月28日には正五位上に昇叙されたことが記されます。

延喜式神名帳では「伊賀国阿拝郡 敢國神社 大」と伊賀国唯一の大社として登載。

平安末頃には、南宮と称されるようになったといいます。

 

天正9年(1581)の天正伊賀の乱で社殿、社記などを焼失。

文禄2年(1593)には猪田郷山出村の修験者、小天狗清蔵が社殿再建。さらに湯釜も寄進しています。

その後、藤堂高虎が伊賀入封の翌年の慶長14年(1609)に本殿再興、3年をかけて全体を整備。上野城の鬼門鎮守として崇敬されました。

 

明治4年国幣中社に列格。

なお、元伊勢・敢都美恵宮に比定されるそうなのですが、論拠となる資料が見当たらず。

 

本来の祭神は、旧阿拝郡一帯の国津神、「敢国津神」で、この敢国津神は阿閇氏の祖先神と考えられます。

 

中世には、金山比咩命または金山比古命一座を当てる説と、少彦名命を加え、二座とする説が現れました。

『大日本国一宮記』や『延喜式神名帳頭註』に「敢国神社 号南宮 金山姫命 伊賀国阿閇郡」という記述が見られます。

しかし、『永閑伊賀名所記』は敢国大明神を少彦名神、南宮山金山明神を金山比咩之命としており、ここから二神説が生じたとされます。さらに同書は、貞元2年(977)に南宮明神を敢国明神と同所に遷したので南宮山も神体山になったとしますが、所在不明とされる藤原信西の『国分』なる書からの引用のため確証はなし。

『伊水温故』によると金山比咩命は天武の御世に美濃の南宮(南宮大社)より勧請とされるものの、やはり確証はないようです。

また、平安末期の『梁塵秘抄』に「南宮の本山は信濃国とぞうけたばる さぞまうす 美濃国には中の宮 伊賀国にはおさなきちごの宮」とあり、この頃には少彦名命伝承が確立していたと見られます。

 

中世以降は甲賀からの影響を受け、諏訪信仰が中心となります。

『伊水温故』は「本宮三座 少彦名命、南宮金山日売」とした上で「少彦名命ノ神体 仙人ノ影像也、金山比咩ノ神体 蛇形蟠容儀、相殿甲賀三郎霊儀 十一面観音座像」とし、甲賀三郎を加えた三神説を唱えます(甲賀三郎は甲賀の地頭で、諏訪明神になったという伝承が『神道集』の『諏訪縁起事』にあります)。

当社は伊賀の諏訪信仰の中心にあったのではないかとも推測されます。

 

一方で「三国地誌」は「祭神二座、少彦名命、金山比咩命也、敢国ハ社号、南宮ハ地名、分テ云トキハ、敢国津神ハ少彦名命、南宮ハ金山比咩命也」として従来の二神説を採ります。

 

その後正徳3年(1713)に、度会延経が著書『神名帳考証』にて大彦命祭神説を唱えます。これは当社を祀った阿閇氏の祖が大彦命とされるため。

明治7年、宮司が大彦命説に基づいて教部省に伺いを立て、結果、甲賀三郎は祭神から外され、現在の大彦命を主神、金山比咩命と少彦名命を配神とする形になりました。

御朱印

御朱印はあります。

社務所で拝受可。

オリジナル御朱印帳はありませんが、全国一の宮御朱印帳があります。

アクセス

名阪国道の伊賀一之宮ICを降り、すぐ北の千歳交差点(位置)を南西方向へ折れます(ここに敢國神社の案内板が建っています)。

400mほどいくと二又に分岐する(位置)ので左へ。名阪国道の高架を潜って少し行くと神社前。

県道676号沿いに駐車場があります(位置)。

周辺の道は狭くて、本当に一宮があるのかな?と心配になってしまう道ではあります…

神社概要

社名敢國神社(あえくにじんじゃ)
通称
旧称

敢国大明神

一宮大明神

南宮大菩薩

南宮大明神

住所三重県伊賀市一之宮877
祭神

大彦命

現祭神

敢国津神=大彦命

『特選神名牒』

大稲輿命

『大日本史』

金山姫命

『大日本国一宮記』

『延喜式神名帳頭註』

少彦名神

金山比咩之命

『永閑伊賀名所記』

少彦名命

金山比咩命

甲賀三郎

『伊水温故』
配神

少彦名命

金山比咩命

社格等

式内社 伊賀国阿拝郡 敢國神社 大

日本文徳天皇実録 嘉祥三年六月庚戌(四) 津神 従五位下

日本三代実録 貞観六年十月十五日戊辰 安部神 従五位下

日本三代実録 貞観九年十月五日庚午 敢国津神 従五位上

日本三代実録 貞観十五年九月廿七日己丑 敢国津大社神 正五位下

旧国幣中社

伊賀国一宮

元伊勢 敢都美恵宮 伝承地

別表神社

札所等伊賀忍者回廊第七番
御朱印あり
御朱印帳全国一の宮御朱印帳あり
駐車場あり
公式Webサイトhttp://www.aekuni.jp
備考旧地は南宮山山頂?あるいは大石明神跡地?

参考文献

  • 「敢国神社」, 『日本歴史地名大系』(データベース「JapanKnowledge」)
  • 「敢國神社」, 神社本庁教学研究所研究室編『平成「祭」データ(CD-ROM)』全国神社祭祀祭礼総合調査本庁委員会, 1995
  • 式内社研究会編『式内社調査報告 第六巻 東海道1』皇學館大学出版部, 1990
  • 谷川健一編『日本の神々 神社と聖地 第六巻 伊勢・志摩・伊賀・紀伊』白水社, 1986
  • 三重県神職会編『三重県神社誌 第2』三重県神職会,1922(国会図書館デジタルコレクション 7-23コマ