須智荒木神社。
名阪国道中瀬ICの東1kmほどに鎮座。
式内社 須智荒木神社に比定される神社。
境内
社頭
社号標
社号標2
字が「周」智荒木
巨大な燈籠
鳥居
狛犬
記念碑
手水舎
池
石段
社殿
これは神門?
神門?の扁額
拝殿?
拝殿?の祭神が記された額
神門内から拝殿
本殿
屋根しか見えません。右手には覆いがしてあります
境内社等
鎮霊社
注連縄を掛けられた岩と、小さな祠
芭蕉句碑
元禄三年三月十一日
畠うつ音やあらしのさくら麻 ばせを
荒木村白髭社にて
元禄三年(一六九〇)芭蕉四十七歳の作。季語「畑打つ」で春。『芭蕉句選拾遺』(井筒屋寛治編)に、「元三(元禄三年)、此句木白興行二一折有。三月十一日、荒木白髭にての事也。」とする。「白髭」は白髭神社のこと。木白は伊賀藤堂藩士岡本治右衛門政次で、瓢竹庵主。後に苔蘇と改号している。前日の三月十日付、江戸の杉風宛芭蕉書簡には、中七を「あらしの音や」と報じていることから書簡の句が初案で、翌十一日、白髭神社における木白主催の俳席に改案し臨んだことになる。「あらし」が「荒し」と「嵐」の掛詞となり、繊細な詩情をもって春らしい郊外の野良風景を詠んでいる。「さくら麻」は麻の雄株。「桜ノ咲ク頃、蒔クモノナル故ニ云フトモ云ヘリ」(『万葉集古義』)とも、麻の花が桜に似ているからともいわれている。
句意は、「春になって畑を打つ音がしきりにする。傍らの畑には桜麻が可憐な芽を出し、双葉が風にそよいでいる。麻の芽にとって、あの畑打つ音が荒々しい嵐のように聞こえるであろう。」
由緒
創建時期は不詳。
『神名帳考証』は、古事記の安寧天皇条に「師木津日子命の子二の王坐す。一の子の孫は、伊賀の須知之稲置、那婆理之稲置、三野之稲置が祖。」とあることを挙げ、名張郡にあった周知郷に居住していたのが須知稲置で、その一族の一部がこの地を新たに開墾し、祀ったのが当社だとする説を挙げます。この説は「荒木」を新墾の意とします。
しかし『日本歴史地名大系』は、当社南東の山中にある荒木車塚古墳(4世紀後半築造とされる前方後円墳、県指定史跡)に葬られた開発豪族(後の阿閇族に連なる)を祀った殯宮という説もあります。この説では、周知郷より早くに開けたと思われる当地を、須知稲置による新墾とするのは不合理で、「荒木」は荒城・殯(あらき)、荒木の宮は殯の宮の意とします。
「須智」については明らかでないとした上で、かつて須知の大宮と称されたという、京都府船井郡京丹波町上野北垣内に鎮座の能満神社(位置)の明治28年(1895)祭祀帳に、「伊賀国荒木山の須知大明神をこの地の須智一族が勧請し、享禄2年(1529)に新殿が作られた」という旨が記されていることを付記しています。
「須智」の語義については以下のような説もあります。
谷川健一氏は『青銅の神の足跡』において、続日本紀 延暦3年(784)条に「武蔵介従五位上建部朝臣人上等言ふ。臣等の始祖息速別皇子伊賀国阿保村に就きて居る焉。遠明日香朝廷(允恭朝)に逮び、皇子四世の孫須珍都計王に詔し地により阿保君の姓を賜ふ」等を引き、「ここにいう須珍都計王の名は伊賀の周知郷および柘植のあたりから出たと『地名辞書』は言っている。(中略)須珍は古代朝鮮の人名で須智、叱智、設智、臣智などとも記され、『魏志』「東夷伝」に「各長師あり。大なる物自らの名を臣智となす」とある。そこでこの須珍都計王なる者も渡来人であったと推定される」と述べています。
『大山田村史』は先述の荒木車塚古墳、その東に存在する寺垣内古墳、寺音寺古墳、鳴塚古墳が一つのグループを形成するものとし、鳴塚古墳の出土品に朝鮮渡来系氏族の存在を示す装飾付須恵器子持台付𤭯があり、この地は和名抄の山田郡竹原郷に当たることから、新撰姓氏録に「新羅国阿羅々国主弟伊賀都君之後也」とある竹原連の居住地と推定します。
『日本の神々』はこれらから、「阿羅々国」はのちに新羅に併合される安羅国で、「荒木」は「安羅来」、「須智」は渡来系人名の「スチ・シチ」に通じる可能性を説きます。ただ須智荒木神社は延喜式で阿拝郡に属すること、竹原連が阿拝郡に進出したという証左がないことからあくまで可能性に留め、『神名帳考証』の説を妥当としておくべきか、とします。
延喜式神名帳にみえる「伊賀国阿拝郡 須智荒木神社」は当社に比定されています。
天正伊賀の乱の際、古文書・古記録を焼失。
江戸時代には、当社と敢国神社・菅原神社・愛宕神社・浅宇田神社をあわせて伊賀五大社と称し、領主入国の際には必ず参拝があったといいます。
明治4年村社列格、昭和6年郷社に昇格。
なお、『三重県神社誌』が引用している『伊賀国阿拝郡誌稿本』なる書の波多岐神社の項によれば、「蓋し敢国神社を一宮と称す 須智荒木神社を二宮と称し 而して本社を三宮と称す」とあり、当社を伊賀国二宮とする説もあるようです。ただ、この『伊賀国阿拝郡誌稿本』について調べてみたのですが、全く情報がなく、著者や発行時期も不明。
現在の祭神は猿田彦命、武内宿禰命配祀、葛城襲津彦命配祀。
『伊賀名所記』では祭神を葛木襲津彦、武内宿禰とし、『伊水温故』はそれに猿田彦命を加えます(猿田彦命を祭神に加えた根拠は不明)。
『三国地誌』も上記三神の説をとり、『神社覈録』『大日本史』も同様。
『三重県神社誌』は須知稲置が師木津日子命の子孫という古事記の記述(由緒項にて引用)から、当社祭神を師木津日子命とします。
同書では「『伊賀名所記』に葛城襲津彦と武内宿禰とを祀れりとし『伊水温故』に猿田彦を加え『三国地誌』以下の之に盲従したるは憫笑に堪えたり」と『伊賀名所記』他の説に辛辣な評価をしています。また、万葉集にある「葛城の襲津彦真弓荒木にも頼めや君が我が名告りけむ」という歌を引き、葛城襲津彦命を祭神とするのはこの歌からの付会で、その父、武内宿禰までもそこから引かれたのだろうとしています。
当社はかつて白鬚明神と称されていましたが、これは猿田彦命を祀っているためで、滋賀の白鬚神社と同じ祭神である故の俗称から生じたようです。
御朱印
御朱印の有無は不明。
アクセス
名阪国道中瀬ICを降りて東へ500mほど行き、荒木交差点(位置)を右折して県道154号へ。
最初の丁字路(位置)を左折して600mほど直進すれば神社前へ。
参道の道路挟んで向かいに駐車場(位置)。看板が出てるのですぐわかります。
神社概要
社名 | 須智荒木神社(すちあらきじんじゃ) |
---|---|
通称 | 白鬚明神 |
旧称 | – |
住所 | 三重県伊賀市荒木108 |
祭神 | 猿田彦命 |
配祀 | 武内宿禰命 葛城襲津彦命 |
合祀 | 誉田別命 菅原道真公 火魂日命 大日孁貴命 須佐男命 市杵島姫命 金山彦命 大山祇命 天児屋根命 天万栲幡千幡比売命 宇迦能御魂命 大鷦鷯命 弥都波能比売命 |
社格等 | 式内社 伊賀国阿拝郡 須智荒木神社 旧郷社 伊賀国二宮(?) |
札所等 | – |
御朱印 | 不明 |
御朱印帳 | – |
駐車場 | あり |
公式Webサイト | – |
備考 | – |
参考文献
- 「須智荒木神社」, 『日本歴史地名大系』(データベース「JapanKnowledge」)
- 「須智荒木神社」, 神社本庁教学研究所研究室編『平成「祭」データ(CD-ROM)』全国神社祭祀祭礼総合調査本庁委員会, 1995
- 式内社研究会編『式内社調査報告 第六巻 東海道1』皇學館大学出版部, 1990
- 谷川健一編『日本の神々 神社と聖地 第六巻 伊勢・志摩・伊賀・紀伊』白水社, 1986
- 三重県神職会編『三重県神社誌 第2』三重県神職会,1922(国会図書館デジタルコレクション 237-248コマ)