鸕宮神社。
京都・志賀との県境にあたる伊賀市島ヶ原に鎮座。
式内社 鳥坂神社の論社。
境内
社頭
社号標
石燈籠
天保十四年(一八四三)建立
重さ一四四七〇貫(約58t)
天保年間の八ヶ年に渡り実施された一筆調査の水帳名寄帳の完了を記念し建設された石燈籠である
鳥居
石段
二の鳥居
狛犬
四角燈籠
寛文六年(一六六六)五月菅公のために建てた銘があり天正十一年(一五八三)三月伊賀川洪水の際川南地区上川原の梅樹に流留給うにより之を鵜宮神社に合祀したもので御神体は菅公御自作の木像とのことである それを記念して後日この灯籠を奉造建立したものである
社殿
拝殿
祭神を記した額
本殿
境内社等
神宮遥拝所
忠魂碑
由緒
当社の祭神は、事代主命外十四柱で創立由来は、天平勝宝四年(七五二)奈良東大寺の実忠和尚が開創された村内にある正月堂との関係が深い。
南都に於いて、二月三月両堂を開基され、二月堂での修二会の行法に全国一万三千七百余所の神々を勧請の際、釣りをしており遅参した若狭国遠敷明神が後悔され、実忠和尚の夢枕に立って、若狭の清水を毎年修二会行法中観世音に献ずる旨伝えたところ、二月堂参道下の岩石が裂け、白黒二羽の鸕(う)が裂け目から飛び立ち、清水がこんこんと湧き出したという。
このことから修二会の行法が「お水取り」の名で有名になり、実忠が感銘して遠敷明神を良弁杉の下に祀り、鸕に因んで「鸕宮社」と称し衆庶大いに尊敬した。是に於いて正月堂の修正会と二月堂の修二会が略同じ行法を勧修する関係で、二月堂の鸕宮社を正月堂東南の地(現在地)に奉祀したら神妙なるべし、又南都と相似たりと勧請したのである。
菅原道真公を奉祀した由来は、天正十一年二月廿五日の洪水の際流れ来て、上川原の梅樹に止まられたのを里人邸内社に合祀したが、夢のお告げにより、雷除天神として鸕宮神社に合祀し、雷除の霊験あらたかにして、寛文六年五月神恩奉謝の意をこめ奉献した、四角灯籠が拝殿左裏に建てられている。
表参道口左側の巨大な石灯籠は、高さ五、二メートル、重さは五四、二トン、建立は天保十四年で、田畑、山林が混雑し相続にも困る状態で、八ヶ年掛けて畝高を改め、無事終わったのを記念し、村人が木津川から運び米俵を持寄り積み上げたと伝えられている。
この四角灯籠と石灯籠は村指定文化財である。
当社の祭神は、事代主命外14柱で、創立由来は、天平勝宝3年(751年)、奈良東大寺の実忠和尚が開創された村内にある正月堂との関係が深い。
村の中央の小高い丘陵の南端に位置し、125段の高い石段を登ったところに南面して鎮座している。石段下には天保14年、自然石の大石燈籠を寄進し併せて水帳の取調帳を神社に寄進した。この石燈籠の高さは5.28メートル、重さは54.2トンである。
創建時期は不詳。神護景雲年間(767~770)という説もあるようです。
伝承によれば、当社は奈良の東大寺にある鸕宮社からの勧請とされています。内容は以下のようなもの。
二月堂での修二会の行法に全国一万三千七百余所の神々を勧請の際、若狭国遠敷明神(おにゅうみょうじん)は釣りをしていて遅参。後悔した遠敷明神は実忠和尚の夢枕に立ち、若狭の清水を毎年修二会行法中観世音に献ずる旨を伝えると、二月堂参道下の岩石が裂け、白黒二羽の鸕が裂け目から飛び立ち、清水がこんこんと湧き出したといいます。
ここから修二会の行法が「お水取り」の名で有名になり、実忠和尚は感銘して遠敷明神を良弁杉の下に祀り、鸕に因んで「鸕宮社」と称したとされています。この鸕宮社は現在も東大寺二月堂の鎮守社の一社である興成神社を指すようです。
その後、当地島ヶ原には実忠和尚の開創とされる観菩提寺(通称・正月堂)があり(位置)、正月堂の修正会と二月堂の修二会がほぼ同じ行法を勧修する関係から、二月堂の鸕宮社を正月堂東南にあたる現社地に勧請したとされます(なぜ東南なのかは不明。由緒書には「南都と相似たり」とありますが、興成神社は二月堂の西側にある)。
なお遠敷明神とは若狭国一宮に祀られる若狭彦神・若狭姫神を指します。
『平成祭データ』に載る由緒は上記とやや異なり、以下の内容となります。これによると、東大寺にあった鸕宮神社に事代主之神が祀られていたことになっていますが…
『平成祭データ』
「明細帳」に「創立由緒不詳ト雖モ延長風土記曰ク嶋ヶ原山出松竹柏有異鳥有神号天王社事代主之垂跡也 土俗伝ニ曰ク人皇四十七代廃帝ノ御宇皇上近江保良都ヨリ南都ヘ御幸ノ際当村ニ御休憩アリテ一ノ堂宇ヲ建設セント良弁僧正ニ命シテ観音堂建築セシメ是ヲ正月堂ト称ス(今ノ観音提寺是ナリ)後南都ニ於テ2月3日ノ両堂ヲ開基セラレタリ而シテ其ノ二月堂ノ香水ノ井辺ニ鸕宮神社アリ事代主之神ヲ祭リ衆庶大ヒニ尊敬スト是ニ於テ里民鸕宮ノ神ヲ迎ヘ正月堂ノ近辺ニ奉祀セハ南都ト相似タリトテ此地ニ勧請スト云フ
延喜式神名帳にみえる「伊賀国山田郡 鳥坂神社」に当社をあてる説があります。
『神名帳考証』に「今云鵜宮天神歟」とあるのがその説なのですが、特に論拠は示されておらず、島ヶ原は山田郡ではなく阿拝郡のため、あまり有力ではないようです。
天正11年(1583)2月25日の洪水で菅原道真公の御神体が流れ着き、里人邸内社に合祀するも、夢のお告げにより雷除天神として当社に合祀。
祭神は事代主命。
境内の由緒碑に記される伝えによれば、勧請元の東大寺鸕宮社は遠敷明神を祀っていたはずなので(現在の興成神社も豊玉媛命=若狭姫神を祀る)、なぜ事代主命に変わったのかは不明です。
『平成祭データ』の由緒では東大寺鸕宮社に事代主之神が祀られていたことになっているので矛盾はなくなりますが、逆に勧請元の祭神が変更されたということになってしまいます。
『三国地志』は「二月堂香水ノ井辺ニ祀ル鵜宮同事ナリト、未ダ実説ヲシラズ」としています。そもそも勧請自体あくまで伝承なので、あまり考えても仕方ない気もします。
配祀神の菅原道真公は上述の流れてきた御神体を祀ったものと思われます。
大那牟遅命、神倭磐余彦命、木花咲夜比売命も配祀されていますが、詳細は不明。
他に10柱が合祀されていますが、明治39~40年に合祀された神社の祭神だそうです。
御朱印
御朱印はあります。
書置きのみのようです。
伊賀忍者回廊という御朱印巡り企画の1社になっています。こちらは専用の御朱印帳に墨書きが印字されており、印のみセルフで押す形式です。帳面は上野公園近くにあるだんじり会館内の伊賀上野観光協会(位置)ほか、いくつかの寺社や施設で販売されています(公式ページに販売所リストあり)。
参拝時はまだ伊賀忍者回廊が始まる前で、御朱印自体授与されていませんでした。
その頃はセルフの記念スタンプのみがあったのですが、これは現在も引き続き置かれているようです。
記念スタンプ
アクセス
伊賀市中心部の小田西交差点(位置)から国道163号を西へ。
4kmほど先の三軒家交差点(位置)で右折し、4kmほど道なりに。
木津川を渡った先の島ヶ原大橋西詰交差点(位置)で右折し北へ。700mほど行くと右斜め前に鳥居が見えてきます。
鳥居の見える右斜め前方向の脇道に入ると、社号標の右手あたりに駐車スペースがあります(島ヶ原運動広場に入る道にもなっているので、道を塞がないように)。
神社概要
社名 | 鸕宮神社(うのみやじんじゃ) |
---|---|
通称 | – |
旧称 | – |
住所 | 三重県伊賀市島ヶ原4689 |
祭神 | 事代主命 |
配祀 | 大那牟遅命 神倭磐余彦命 菅原道真 木花咲夜比売命 |
合祀 | 市杵島姫命 建速須佐之男命 天照大神 豊宇気大神 建御名方神 大物主神 大山祇神 品陀和気神 少那比古神 稲倉魂命 |
社格等 | 式内社 伊賀国山田郡 鳥坂神社 旧村社 |
札所等 | 伊賀忍者回廊第二十七番 |
御朱印 | あり |
御朱印帳 | – |
駐車場 | あり |
公式Webサイト | – |
備考 | – |
参考文献
- 「島ヶ原村」, 『日本歴史地名大系』(データベース「JapanKnowledge」)
- 「鸕宮神社」, 神社本庁教学研究所研究室編『平成「祭」データ(CD-ROM)』全国神社祭祀祭礼総合調査本庁委員会, 1995
- 式内社研究会編『式内社調査報告 第六巻 東海道1』皇學館大学出版部, 1990
- 三重県神職会編『三重県神社誌 第2』三重県神職会,1922(国会図書館デジタルコレクション 176-184コマ)