唐王神社。
大山町の唐王集落西端に鎮座。
スセリヒメ終焉の地との伝承が残る神社。
境内
社頭
手水鉢
鳥居
扁額
松籬社とあります。
『鳥取県神社誌』によれば「菅原道真は古来天満宮と号し壹宮神社の摂社なり、明治元年10月神社改正の際唐王神社の境内に移転し松籬神社と称せしを同12年允許を得て唐王神社と改称合祀せらる。」とのことですので、これは明治初期の扁額かと思われます。
狛犬
狛犬2
狛犬3
手水鉢
社殿
拝殿
本殿
境内社
境内社なのか神輿庫なのか…
なお、『鳥取県神社誌』には建造物として神楽殿が挙げられていますが、それらしき建物は見当たりませんでした。
神社裏手、駐車場横に御神水場
境内にあった解説によれば「如何なる旱魃にも涸れたこともなく、蜂にさされた折等いち速くこのご神水をぬれば忽ち治癒するいわれて居ります」とのこと。
ただ、現在は水脈が変わり水は出なくなったそうです。上の写真で僅かに溜まっているのは雨水でしょうか。
由緒
祭神 須勢理毘売命 菅原道真
創立年月 不詳
須勢理毘売命は須佐之男命の御息女で大国主命の御妃です
御神格と御事蹟は「古事記」に記されています
農業発展病苦救助と毒虫蝮退除の神です
菅原道真公は平安時代の大知識人で農耕の神雷神学問芸術の神です
本来は天満宮として字太郎田(現在道下)の地に祭られ次いで享保五年に字村組の地に遷宮し明治初年に松籬神社として現在の境内に遷宮し唐王松籬神社に合祀されました
唐王御前様ゆかりの地
「マアムシ マアムシ ヨオケヨケ 唐王御前様のお通りだ。」
草の茂みを通るときこう唱えながら通ると、蝮などの蛇はもとより、毒虫などが退散し難を逃れると云われてきました。
唐王御前様は須勢理姫のことで、大国主の命のお妃であられます。須勢理姫は唐の王族で唐の国から渡ってこられ、阿弥陀川河口付近の白川に上陸されたと云われています。(写真①)
この写真は海岸から山に向かって撮った写真です。白いガードレールは9号線です。
始め、国信の「若宮原」(写真②のトウモロコシ畑付近)に居を構え、暫く住んでいられました。今でも、大きな松の木の切り株や土器が出てきます。ここは海辺故波風が立ち、海の音も高いが故に、末吉の「天皇さん」(写真③)に居を移されたと云います。9号線から大山へ行く道路のへりで、ご覧のように今なお神社があり祀られています。
暫く経つとまだ海辺に近いということで、末長の「天皇さん」(写真④)移り住まれたという事です。跡地はこの写真のように今なお神域として大切に維持され、参詣者が絶えません。
この近所に「腰掛け岩」という岩があります。(写真⑤)。このそばで最近まで清水が湧いていました。須勢理姫が唐王に来られるとき、休息をとられるために腰掛けられたと言い伝えられています。その後須勢理姫は唐王に移り住まわれ、此処で崩御されたということです。
文中にある①~⑤の遠景写真
①の写真
さすがこれだけだと位置が特定できず。大山PAの近くだと思いますが…
②の写真
これもまた特定できませんが、國信に「若之宮」なる場所(位置)があるので、そこのような気がします。
③の写真
多分現在末吉神社が建っているところ(位置)だと思いますが…
④の写真
大山町末長41にある末長公民館の隣(位置)だと思います。
⑤の写真
これはわかりません…
当社は、大国主命の妻、須勢理毘売命を御神体とし、唐王御前といわれ『古事記』の神話によって毒虫よけ、マムシよけの神としてあがめられ、玉垣内の砂をいただいて、田畑にまけば毒虫が去り、家屋敷にまけば蟻や百足が退散する御利益があるといわれています。
旧暦八月三日の「虫祭り」には近年にないにぎわいをみせ、カンピョウの市も年ごとに大きくなりました。
例大祭は四月二十五日に執り行われます。
創建時期は不詳。
創祀について、『鳥取県神社誌』に以下のようにあります。
「社伝に曰く、須勢理毘売命は大国主大神と共に夜見の国より帰り座して、土地経営の神功を畢へ、稼穡の道を立て疾苦の患難を救助の神咒の法則を萬世に垂訓し給ひて、大国主大神は永く日隅宮に鎮座し、命は此地に鎮座す」
「往古は此地も出雲の国境なるや詳かならざれども、出雲風土記に”持曳く綱は夜見島是なり云々” 中世海洋を隔つる外国は総て加羅と通称せり、故を以て夜見国より帰り給ひしをも唐土より来り給へるものとし、又大国主大神の后神なるを以て唐王御前神と称へ奉りしなり」
要は夜見国から帰ってきた須勢理比売が鎮座した場所で、昔海の向こうは全て加羅と読んだことから、夜見国から帰ってきたのを唐から来たとして「唐王御前」の名前ができたということ。
不思議なのは大国主神が日隅宮(出雲大社)に鎮座したのに、なぜ須勢理比売が遠く離れたこの地に鎮座したのかという点。
これについては下記サイトで以下のような説が挙げられています。
大国主神が国譲りした後、高皇産霊神が、国津神を妻としていては信用ができないからとして娘の三穂津姫を妻とさせ、結果正妻の座を失った須勢理比売は当地に移った、と。
また、当地は須勢理比売終焉の地で、御陵であるとの伝説もあります。
『鳥取県神社誌』に以下の記述。
- 「社伝口碑に據るに、此の所正しく須勢理毘売の御陵ならむと、太古より一社の伝説あり」
- 「命の御陵と認むる所以は神験不測の神咒方神蹟今猶此地に存在す」
- 「本殿の下に方一間余の石の玉垣あり、其中に高五尺余の古造の碑石あり、中古仏者の為に惑はされ、命の尊陵たるを知らず、往々祭祀を廃絶し社宇衰頽す」
本殿下が御陵(と伝えられる場所)なのでしょうか。
以前は毒虫よけ、マムシよけの神として崇敬されており、崇敬者・参拝者が多かったようですが、現在はそれも減ってしまった様子。
『鳥取県神社誌』によれば、明治元年10月神社改正の際、壹宮神社の摂社天満宮が当社境内に移転し松籬神社と称し、同12年に允許を得て唐王神社と改称合祀…ということですが、この記述からすると明治元年から12年までは松籬神社が主となり唐王神社の社号は消えていたのでしょうか。
また『日本歴史地名大系』は、天満宮が明治元年に当社境内に遷ってきたところまでは上と同じですが、明治42年に松籬神社と唐王神社が合祀されて唐王松籬神社となった、とします。
御朱印
御朱印はあります。
本務社の壹宮神社(大山町上萬)にて拝受可。
アクセス
山陰自動車道大山ICの西約1km。
道はだいぶわかりづらいです(しかも狭い)。農地の中を抜けていく感じ。
大山ICを降り北西に進み、最初の交差点(位置)を左に。
突き当り(位置)を右に。850mほど先、突き当り(位置)を左に。
250mほど先の分岐(位置)を右に。すぐ先の分岐(位置)を左に。
次の分岐(位置)を左折して150mほど行くと駐車場があります。
神社概要
社名 | 唐王神社(とうのうじんじゃ) |
---|---|
通称 | – |
旧称 | 唐王御前神社 松籬神社 |
住所 | 鳥取県西伯郡大山町唐王725 |
祭神 | 須勢理毘売命 菅原道真 |
社格等 | 旧無格社 |
札所等 | – |
御朱印 | あり |
御朱印帳 | – |
駐車場 | あり |
公式Webサイト | – |
備考 | – |
参考文献
- 「唐王村」, 『日本歴史地名大系』(データベース「JapanKnowledge」)
- 「唐王神社」, 神社本庁教学研究所研究室編『平成「祭」データ(CD-ROM)』全国神社祭祀祭礼総合調査本庁委員会, 1995
- 鳥取県神社誌編纂委員会編『新修鳥取県神社誌 因伯のみやしろ』鳥取県神社庁, 2012
- 鳥取県神職会編『鳥取県神社誌』鳥取県神職会, 1935(国会図書館デジタルコレクション 224コマ)