田村神社(高松市一宮町)

田村神社。

式内名神大社 田村神社に比定される神社で、讃岐国一宮。

旧国幣中社で、現在は神社本庁の別表神社。

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境内

駐車場から社殿は近いですが、まずは南にある一の鳥居へ。

鳥居の先に琴電の線路があったので渡ってみます。

 

線路を挟んで神社側

この背後にはゲストハウスがありました。

 

線路渡って一の鳥居手前に御旅所

 

一の鳥居

ここの道は完全に生活道路。参道脇は住宅地です。

 

注連柱

 

一の鳥居から進み道路を渡る石畳の参道が始まります

左右に社号標。

 

さぬき十五社第六番 田村神社

 

二の鳥居

 

狛犬その1

 

狛犬その2

 

狛犬その3

 

注連柱

 

手水舎

 

随神門

 

三の鳥居と扁額

 

社号標

 

社殿前の手水舎

社殿

拝殿

明治10年再建のもの。

 

扁額

 

扁額2

 

社殿前の木化石

「木化石は古代の樹木が何かしらの原因で土砂等に埋もれ、化石化したものです。」とのこと。境内から発掘されたのでしょうか。

 

本殿・奥殿は木々に囲まれてうまく撮れず。近寄れない+木々に囲まれているためあまりよく見えませんでした。

 

本殿屋根

 

本殿

境内西にある花泉の脇から撮影。

 

奥殿

1710年造営で、奥殿の下には定水井という深淵があるそうな。覗くと死ぬそうです。

境内社等

社殿右手

末社・宇都伎社鳥居

 

扁額

 

宇都伎社拝殿

 

宇都伎社扁額

 

宇都伎社本殿

 

鳥居も拝殿も末社とは思えない大きさ

ちなみに鳥居を田村神社と並べて撮るとこんなサイズ比。(左奥が田村神社)

 

鳥居と拝殿の間にいる龍

昇運金龍というそうです。

 

脇にも小さな龍の像

 

金龍のご利益

龍は、十二支の中でも特に偉大な神通力を持つとされ、古くから神の使いの神獣として崇め奉られてきました。

龍は、雲を呼び雨を降らす神通力で水を支配するといわれ、水が財運・金運を象徴することから、絶大な金運上昇を招く力があると信じられています。

 

左右に干支が並んでいます

 

その左手にも龍神像と鳥居

御神体の淵には龍が住むという伝承があるだけあって、境内には他にも龍の像がたくさん置かれています。

 

宇都伎社左に姫之宮

 

右にわらべ七福神

 

宇都伎社前の布袋尊と大黒天

 

宇都伎社の右手に素婆倶羅社

 

扁額

字は素媻倶羅社。

 

素婆倶羅社本殿

 

社号標

字は素波倶羅大明神。

 

素婆倶羅社狛犬

 

はらみ石

名前の通りの陰陽石。

 

あわしまさん

しんどそうなので鳥居はくぐってないです。子供やかなり小柄な人でないときつそう。

 

鳥居の先の社と、その裏に男根像

 

宮島社

 

宮島社正面の宮島大はしと裏手の弁天橋

 

一宮天満宮

 

天満宮扁額

 

一宮天満宮略記

当社は、香川県立高松南高等学校の前身である香川農業高等学校の南側に古くより鎮座し、「やけ天神」と称す。

やけ天神の由来は、焼けるような日照り旱魃の時にこの社に祈祷すれば雨乞いの御利益があるとの言い伝えである。

平成六年東四国国体に際し水球プール建設に伴い田村神社へ移築。

新たに九州福岡の太宰府天満宮より御分霊をいただき、名前も一宮天満宮と改め、ここに鎮座まします。

 

稲荷社

後ろに柱が建っています。

 

稲荷社お狐さん

 

稲荷社鳥居群

 

久延比古神、恵比寿神、田の神

 

伊勢神宮遥拝殿

 

神宮献穀斎田鳥居と、その後ろの鳥居

 

社殿手前

歳徳神(兼納札所?)とその前の狛犬

 

子育て布袋尊

 

土俵

社殿裏手

北参道に立ち並ぶ赤い鳥居とさぬき獅子の像

 

さぬき獅子

獅子頭の発祥は、第十五代応神天皇のころ中国から渡来し、奈良朝前期の伎楽面に由来するといわれています。

もともと神前に安置され礼拝されていましたが、やがてこれを操作して神徳を表現するようになり、獅子舞は、その後これが変化し、祭礼の際、天下泰平、五穀豊穣を祈願して神社に奉納されるようになったものであろうといわれています。

讃岐の獅子頭は、独自の郷土色を持っており、張子の手法を用い、乾漆つくりのため丈夫で、振ると耳の中の小石が鳴るので、耳鳴り獅子とも呼ばれています。全国各地で作られているものと比べて圧倒的に軽く、激しく舞い踊る讃岐の獅子舞にはたいへん適しています。

讃岐の獅子舞の歴史は古く、室町時代初期には各地で行われており、祭りの主役である獅子舞には氏神様への奉納として今でも盛んに行われています。

 

 獅子のあたりから宇都伎社、素婆倶羅社の裏に入ると海外開拓者殉難之碑と海軍少年飛行兵之碑

零戦のプロペラも置かれています。

 

碑文

昭和五年六月に日本海軍は優秀な飛行機搭乗乗員を少年期から早期に養成するため横須賀海軍航空隊に飛行予科練習部を創設したが昭和十四年三月霞ヶ浦湖畔に移し土浦海軍航空隊が誕生した 時移り戦雲急を告げ我が国の命運は海軍航空戦力にかかっているとの観点に立ち搭乗員緊急養成の使命を帯びて三重海軍航空隊を始めとして十七の海軍航空隊を新設した

予科練創設から太平洋戦争終結に至る十五年余の歴史であったが日本全国から十五歳前後の紅顔可憐な少年たちが愛国の至情と大空への憧れを抱いて志願入隊し心を養い体を鍛え技を練り飛行練習生の課程を経て大空へ巣立った

昭和十二年七月勃発の日華事変で初陣を飾り昭和十六年十二月八日開戦の太平洋戦争においては名実ともに海軍航空戦力の中核となり航空母艦から或は基地から飛び立ち太平洋全域にわたって敵を撃破し緒戦においては大空を制圧したが激しい反撃により死闘が繰り返された 戦い利あらず敵我が本土に迫るや特別攻撃隊員となって敵艦隊に体当り攻撃を敢行し何のためらいもなく唯ひたすらに祖国の安泰と同胞の幸福を祈りつつ散華した 実に卒業生の八割香川県出身者百三十三名を含む一万八千三百余名の春秋に富む若人が雲の彼方に消え再び還らなかった

昭和二十年八月十五日砲煙絶えてより星霜五十年廃墟から立ち挙がって経済大国に発展し繁栄と平和を歌する日本の礎となって桜の花さながらに散っていった予科練出身海軍少年飛行兵の冥福と恒久平和を祈りこの碑を建立する

 

海外開拓者殉難之碑前の狛犬

 

海軍少年飛行兵之碑前の鳥居と若鷲の群像

 

殉国之霊碑と鳥居

 

裏手側に抜けたところの鳥居

 

鳥居前の狛犬

 

社号標

 

倭迹迹日百襲姫命と吉備津彦命の像

 

石碑

田村神社御祭神、倭迹迹日百襲姫命の弟御、吉備國(岡山県)、吉備津神社御祭神、吉備津彦命(桃太郎と云い伝え)今まさに犬(犬島)猿(猿王)雉(雉ヶ谷)の衆をつれ、指さす女木島(鬼ヶ島)へ鬼退治にむかう古事

 

一宮一覧

Wikipediaの一宮のページに載ってるあれです。

 

八咫烏

 

 

金ぴかの布袋尊

この布袋さんも覆屋も割と新しいようです。Webで画像検索すると昔のが見つかります。

 

布袋尊横の巨木

 

鐘楼門

すごいデザインの鳥居。

 

 

石碑

田村神社 大祓 四神 鐘楼門

大祓(天地すべての罪、穢を祓う)

四神(天地四方の方角をつかさどる神)

玄武(北方)朱雀(南方)青龍(東方)白虎(西方)

 

北参道側鳥居と扁額

 

北参道入口の狛犬

 

境内には他にも多数の像や碑がありました。

とにかく詰め込んでみました、というかテーマパーク的な雰囲気になっている感はありますがこれはこれで楽しくてよいと思います。

境内周縁

花泉(はなのい)、あるいは花ノ井出水(位置

田村神社社殿の西側にあります。境内側に道がないので、一旦北か南の鳥居から外に出て周り込む必要があります。

倭迹迹日百襲姫命が御手を洗われたと伝わる場所。現在は涸れ井。

 

袂井、あるいは田本井、袂井出水(位置

境内東側にあります。宮島社の手前あたりから境内西に出る道に入り、すぐ右手の細い路地に入って50mほどいくと左手にあります。

倭迹迹日百襲姫命が里人の奉る鳥芋(ごや)を食べ熱病に罹り渇きを訴えた際、侍女が袂を浸して水を奉った井。現在も水が湧いており、稲田灌漑の水源地となっているそうです。

 

休石、あるいは倭迹迹日百襲姫命腰掛石(位置

宮島社前から境内を西に出て県道を渡り、さらに150mほど行くと左手(北側)にあります。

倭迹迹日百襲姫命が憩われた石と伝わります。

 

休石南側から

こちらからだと見ての通り、踏み外したら田んぼに落ちる細い道なので、左手(手前と奥のビニールハウスの間)を通らせてもらうのが無難だと思います。

 

南2km程にある関係地、天降神社については別記事にて。

 

 

五楽殿

 

田村神社会館

 

境内図

由緒

創建は社伝によれば和銅2年(709)。

水そのもの、あるいはその湧き出す渕(泉)を神とする信仰を核とし、古墳時代末期には当地で祭祀が行われていたようです。

 

続日本後紀 嘉祥2年(849)2月癸丑(28日)条に「奉授讃岐国田村神従五位下」と見えるのが国史の初見。

三代実録 貞観3年(861)2月13日丁巳条に官社に列せられた旨が見えます。

続いて三代実録 同7年(865)10月19日丁巳条に正五位下同9年(867)10月5日庚午条に従四位下同17年(875)5月27日戊申条に従四位上元慶元年(877)3月4日乙巳条に正四位上と昇叙を重ね、讃岐国で最高の神階となります。

 

延喜式神名帳には「讃岐国香川郡 田村神社 名神大」とみえています。

 

永万元年(1165)の『神祇官諸社年貢注文』によれば、那珂郡の櫛無社(櫛梨神社)とともに「御年貢進社」に指定されています。なお、ここで「一宮」と表記されているのが当社を讃岐一宮とする初見です。

社伝によれば建仁元年(1201)正一位の昇叙があったとされます。

この頃の物として、後宇多天皇の勅額と伝えられる弘安7年(1248)の銘を刻んだ「正一位田村大明神」の扁額が残されています。

 

室町時代には四国管領細川氏による「讃岐国一宮田村大社壁書」が残されているなど、細川氏に厚く保護されていたようです(壁書とは遵守すべき規則等を木あるいは紙に書き壁に掛けるか張り付けて関係者に告知した法令)。

 

明治4年には国幣中社に列せられ、戦後は別表神社に指定されています。

 

祭神は倭迹迹日百襲姫命・五十狭芹彦命(吉備津彦命)・猿田彦大神・天隠山命 (高倉下命)・天五田根命(天村雲命)の五柱で、「田村大神」と総称しています。

 

中世の記録では猿田彦大神(『大日本国一宮記』)や、備中吉備津宮の神の子(五十狭芹彦命)(『北条記』)とのみ記されていたりもするようです。

また、水佐佐良比古命の兄弟田村命とする説(『神祇志料』)も。

 

田村神の本源は伝承等から見るに、田村に湧き出す水(水神)と考えられます。

 

香川県神社誌

当社の国史に見えたるは続日本後紀に『嘉祥二年二月丙戌朔癸奉授讃岐国田村神従五位下』とあるを以て初とす。次で三代実録に『貞観三年二月十三日丁巳讃岐国従五位上田村神列於官社 同七年冬十月九日丁巳讃岐国従五位上田村神授正五位下 同九年冬十月五日庚午授讃岐国正五位下田村神従四位下 同十七年五月廿七日戊申授讃岐国従四位下田村神従四位上 元慶元年四月四日乙巳授讃岐国正四位下田村神正四位上』とあり。かくて建仁元年には極位正一位に昇り給へり。延喜式神名帳に『讃岐国香川郡一座大田村神社名神大』とありて、延喜式内名神大社にして又讃岐国一宮たり。朝野群載に『神祇官謹奏…坐讃岐国田村神云々』と見え、伯家部類永万元年の奥書ありに『神祇官御年貢進社事南海道讃岐国一宮』とあり。其の他清滝宮神名帳、薬師堂神名帳、千手堂神名帳、大日本国一宮記、諸国一宮神名帳等に田村大社、田村大明神等見ゆ。当社所蔵の後宇多天皇の勅額に正一位田村大明神とあり、裏に弘安七年歳次甲申七月日とありて古くより朝野の尊崇篤き神社なり

当社の起源は詳ならざれども、旧事大成経神社本紀に『狭貫国田村神社高丘宮天皇時天隠山大神与児天五田根大神至此国栖此祠為治国業兮令天五田根大神以有分国之功鎮座於此祠而帰元仙宮』と見え、大同類聚方膈噎部に『鏡薬讃岐国香川郡田村神社伝方元者猿田彦神剤□□国人讃岐臣網持傘木山仁詣現伝受膈噎乎治仁用天神妙也…民多加良保止豆良水煎服之』とあり。讃岐国大日記に『元明帝和銅二年於讃岐国香東郡大野郷始建正一位田村定水一宮大明神之社也典祀伝云此神者孝霊天皇皇女倭迹々日百襲姫也雖神殿之下有深淵今古人無見焉社辺黒色蛇多其長四尺離散邑中俗謂神龍矣』。三代物語に『一宮田村定水大明神元明帝和銅二年剏之…造神殿於深淵上古今無視其淵者』。南海通記に『讃州一宮神社其由来旧矣…此地往古川淵也水神在テ邑里ノ不浄ヲ咎メ其ノ祟リアル事酷シ、故ニ其淵ヲ清浄ニシテ水中ニ筏ヲ浮ヘ其浮橋ニ社ヲ造リ供物ヲ饌テ祭祀ヲ拝奠ス。是其始也ト云リ』と見え、当社々記亦和銅二年(紀元一三六九)の創建と伝ふ。社号は古くより田村と称へしが、中古定水大明神とも称へられ、讃岐国一宮と定まるに及び一宮大明神、一宮神社等奉称せられたり。田村は蓋し地名より起れるものにして、三大物語に『一宮村旧名田村』とあり。一宮村は当社が讃岐一宮たるに依て起れるものなり。上代に於ける武門の崇敬は文献の徴するものなしと雖も当社は夙に讃岐国一宮なれば、国司領主の尊崇せしこと明かなり。社記によれば細川氏の崇敬厚く、貞治二年三月細川右馬頭頼之社域を拡築して一切経を奉納し(天正年間兵火に燼す)長禄四年細川勝元社殿を造営して千句田、彼岸田、油田、化粧田等七百貫の社領を加増して二十六箇条よりなる神官供僧等奉仕の制文を寄せたり。世に之を壁書と称し今猶伝へて宝物たり。此の壁書の末文に『右守条々之旨不可有緩怠之儀去嘉吉三年安富安芸入道此次第等雖申沙汰猶以加条数者也』とあり。天正十四年八月仙石権兵衛尉秀久社領百石を寄進し、天正十五年十二月国主生駒雅楽頭近規社領五十石を献じ、生駒一正更に荒地高十二石を加増す。高松藩主松平頼重亦先規により社領を寄進し明暦元年三月社殿を造営せり。延宝七年両部習合を廃して唯一となし、田村隼人をして大宮司たらしめ社領五十石の内五石五斗を割きて社坊たりし大宝院に付与せり。此の時当社の仏体を法然寺に遷す。来迎堂二十五菩薩是なり。爾来代々社領を寄進して明治維新に至る。現今の奥殿及び本殿は宝永七年藩主松平氏の造営する所なり。明治四年五月十四日国幣中社に列格仰出され、爾来皇室国家事ある毎に勅使を御差遣あらせらる。

当社は本殿の奥に猶社殿ありて之を奥殿と称し奉り、御神座は此の殿内にあり。其の床下に深淵ありて常に厚板を以て之を蔽ひ、古より神秘を伝へて敢て窺ふ者なし。社殿構造上の一異例とす。又神社の東三町に休石と云ふあり。境内東方に袂井、西側に花泉ありて、社記には共に百襲姫命の御旧跡と伝ふ。

御朱印

御朱印はあります。授与所で拝受可。

通常の神社のものの他に、新四国曼荼羅霊場、さぬき七福神のものがあります。また、末社の宇都伎社と素婆倶羅社の御朱印もあるようです。従って全5種。

 

また当社にはオリジナルの御朱印帳があります。

 

こちらとは別デザインの帳面もあり。一宮御朱印帳の取り扱いもあり(…なはず)。 

アクセス

社殿の東側、神社会館の横に駐車場があります。 ↓駐車場はこの辺。

 

高松駅の方から来るなら、国道を南下してきて三名町交差点で西へ、直進して一宮町交差点を過ぎると左手に北参道駐車場の案内が現れるので、こちらの方がわかりやすいかも。

 

北側の道から入ってここらが駐車場。

神社概要

社名田村神社(たむらじんじゃ)
通称
旧称

田村大明神

田村大社

定水大明神

他多数

住所香川県高松市一宮町286
祭神

倭迹迹日百襲姫命

五十狭芹彦命(吉備津彦命)

猿田彦大神

天隠山命 (高倉下命)

天五田根命(天村雲命)

現祭神

※五柱を「田村大神」と総称

猿田彦大神『大日本国一宮記』
備中吉備津宮の神の子(五十狭芹彦命)『北条記』
田村命『神祇志料』
社格等

式内社 讃岐国香川郡 田村神社 名神大

続日本後紀 嘉祥二年二月癸丑(廿八) 田村神 従五位下

日本三代実録 貞観三年二月十三日丁巳 田村神 官社

日本三代実録 貞観七年十月九日丁巳 田村神 正五位下

日本三代実録 貞観九年十月五日庚午 田村神 従四位下

日本三代実録 貞観十七年五月廿七戊申 田村神 従四位上

日本三代実録 元慶元年三月四日乙巳 田村神 正四位上

讃岐国一宮

旧国幣中社

別表神社

札所等

新四国曼荼羅霊場十一番

さぬき十五社六番

さぬき七福神(布袋尊)

御朱印あり(田村神社/新四国曼荼羅霊場/さぬき七福神/宇都伎社/素婆倶羅社)
御朱印帳あり(デザイン違い数種/全国一宮)
駐車場あり
公式Webサイトhttp://tamurajinja.com/
備考祭神示現の地:天降神社

神社

 

花泉

 

袂井

 

休石

参考文献

  • 「田村神社」, 『日本歴史地名大系』(データベース「JapanKnowledge」)
  • 「田村神社」, 神社本庁教学研究所研究室編『平成「祭」データ(CD-ROM)』全国神社祭祀祭礼総合調査本庁委員会, 1995
  • 梶原藍水『古今讃岐名勝図絵』高松製版印刷所, 1930(国会図書館デジタルコレクション 176-178コマ
  • 香川県神職会編『香川県神社誌 上巻』香川県神職会, 1938(国会図書館デジタルコレクション 228-230コマ
  • 式内社研究会編『式内社調査報告 第二十三巻 南海道』皇學館大学出版部, 1987
  • 谷川健一編『日本の神々 神社と聖地 第二巻 山陽・四国』白水社, 1984