高部屋神社(伊勢原市下糟屋)

高部屋神社。

伊勢原駅の北東約1.3km、下糟屋に鎮座。

式内社 高部屋神社の論社。

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境内

社頭

 

鳥居

 

社号標

 

看板

 

手水舎

 

狛犬

社殿

拝殿と幣殿

立派な茅葺屋根です(向拝の部分だけ銅板葺)。

御殿場産の茅を使い、岐阜の白川郷の職人さんが葺いたそうです。工費は1700万ほどだと伺いました。

近くで見るとわかりますが、ささくれ立ってる(?)箇所があります。カラスが毟るそうで、対策を考えているとのことでした。

 

向拝の彫刻

 

扁額

山岡鉄舟の筆によるもの。

 

本殿

五間社流造。関東大震災で倒壊後の昭和4年の再建ですが、倒壊前の部材も再利用されているとのこと。

一段高いところに築かれていますが、実は古墳の上に建っているのではないかとする説もあります。

 

本殿前の狛犬

 

国登録有形文化財 高部屋神社 本殿、拝殿、及び幣殿

鳥居をくぐりますと、正面の建物が拝殿及び幣殿、その北側の建物が本殿です。

本殿は、正面の柱間が五つある五間社流造という形式です。県内の五間社の本殿は、寛永元年(一六二四年)建立の鶴岡八幡宮若宮本殿(鎌倉市、国指定重要文化財)、寛文七年(一六六七年)の箱根神社本殿(箱根町)、享保三年(一七一八年)の六所神社本殿(大磯町)といった名だたる神社にしか見られません。

高部屋神社の本殿は、関東大震災による倒壊後、昭和四年に再建されたものですが、倒壊前(正保四年、一六四七年築)の旧本殿の漆塗りの残る扉など、主要な古材が数多く再利用されています。再建に当たって、旧本殿の持つ江戸時代前期の雰囲気を残す努力が見られ、当時の関係者の想いを知ることができます。

拝殿及び幣殿は、江戸時代の慶応元年(一八六五年)に、相模国梅沢(二宮町)の大工、杉崎周助政貴により建立されました。

拝殿は入母屋造の茅葺で、手前に銅板葺の向拝(正面の庇部分)を設け、背面には幣殿を連結しています。主要な柱は、一辺二〇cm以上の太いケヤキを用いています。正面の柱には龍が巻き付き、軒下には亀に出会う浦島太郎、その上には乙姫と竜宮城という珍しい彫刻が掘り出されています。彫物師は、江戸を本拠に活躍した彫物大工後藤家の後藤楢之助藤原正義です。

平成二十四年には茅葺屋根の葺き替え工事が行われました。市内では唯一、県内でも貴重な茅葺屋根の社殿です。年代の異なる端正な五間社の本殿と相まって、見応えのある神社景観を形作っています。

境内社等

社殿右の石祠3社

横に稲荷とあります。

 

その裏に石祠

水神とあります。

 

庚申とあります

石祠2つと青面金剛と三猿の彫られた像?

 

愛染明王

 

その裏に片割れの狛犬

 

神楽殿

 

八坂神社

 

八坂神社前には立派な株が

 

金刀比羅宮

 

境内南東隅に猿田彦大神の碑

 

鐘楼

 

神奈川県指定重要文化財 高部屋神社梵鐘

高部屋神社は、別名を八幡神社と称し、平安時代に書かれた「延喜式」にもその名が残る延喜式内社です。この神社に伝わっている銅鐘は書かれている銘から至徳三年(一三八六)十二月に河内守国宗によって造られ、平秀憲によって奉納されたことがわかります。

竜頭は鼻の上に鋭い目と眉、紐をくわえた口と全体に引き締まっています。

笠形については上面のほとんどが平らに近いふくらみをもち下端に一隆線をめぐらせています。上帯は各縦帯の上に一個ずつ陽鋳(浮き出た)の遊離飛雲文が見られます。乳は四段四列の太い茸形でしっかりとしています。池の間には、上下に鋳型の繋ぎ目が見られ、銘文(左参照)が陰刻(彫り刻まれた)されています。下帯は各縦帯の下に陽鋳の遊離訪唐草文が見られ、撞座には花弁の短い八弁の蓮華文が見られます。

鐘の全体としてはよく整った優れた作品であり、上帯下帯に見られる文様や作者である河内守姓などから鎌倉を中心とする文化圏のものとわかります。

いくつかPCで表示不可の字があったため、銘文は写真でご覧ください。

 

御祓所?

 

御神木の銀杏

 

御神木の欅

 

下糟屋の雨乞い行事

下糟屋では古くから、日照りが続くと高部屋神社の北東にある水神池で雨乞い行事が行われていました。最後の雨乞いは昭和8年に行われ、その時の様子は次のようなものでした。

この年は干ばつで田植えがままならず、7月18日に雨乞いが行われました。高部屋神社に伝わる黒面(陵王面)と赤面(癋見面)を付け、蓑を来て笠をかぶり、草鞋を履いた二人の雨乞い役を先頭に、地区内を行列して水神池へと向かいました。池に着くと神官が祈祷をし、雨乞い役二人は竹を立て、しめ縄を張った池の中に向かい合って立ちました。そして、黒面役が「龍王や、龍王や」と呼べば、赤面役が「雨を降らせたもれ」と応じる問答を大声で唱えながら水を掛け合いました。池のまわりを囲む地区の人々も同じく大声で唱和しました。この時は、その後9日後に雨が降ったということです。

由緒

延喜式内 高部屋神社

鎮座地 神奈川県伊勢原市下糟屋二二〇二

祭神 三箇男命(住吉大神)・神倭伊波禮彦命・譽田別命

   大鷦鷯命・息気長足姫命・磐姫之命

由緒

当社は『延喜式神名帳』に記載されている相模国十三座の一座で、大住郡百二十七ヶ村の惣社と言われていた。創建年代は不詳なるも、紀元前六六〇年とも言われている。

当神社の本宮(元宮)は、糟屋庄の奥津城(霊城)である。澁田山(澁田川の源流)に鎮座している。澁田山は、古来より高部屋神社所有の飛地境内でもある。

糟屋住吉の大神として、又の名を『大住大明神』と呼ばれ、武門・武士を始め万民の崇敬せられたる古社である。江戸中期頃までは、別名「糟屋八幡宮」と呼ばれ、名社の名を謳われた。古社たる由縁には『汐汲みの神事』があり、更に「雅楽面三面の古面」と「源朝臣・頼重施入の経巻」・「上杉定正が寄進の大般若経の経典」の伝来があり、境内の釣鐘堂には、至徳三年(一三八六年作・県重要文化財に指定)平秀憲が寄進の銅鐘が、今でも時を刻んでいる。

当神社のこの地は、千鳥ヶ城と呼ばれる要害が後北条氏の滅亡まで、社地の続きに存在が認められた。鎌倉時代に源頼朝の家人で、藤原鎌足・冬嗣の血を引く糟屋庄の地頭『糟屋藤太左兵衛尉有季』の館跡と言われていて、高部屋神社を守護神として社殿を造営した。

室町時代に入ると、将軍・足利氏の家人団・上杉一族の関与があったと思われる。糟屋氏・上杉氏と関わった武士達の興亡をのせてきた高部屋神社も、後北条氏を迎え、相模国風土記稿に載る、天正九年(一五八一)五月十日、八幡宮境内(高部屋神社)の三ヶ条、松山城主『上田能登守長則』の禁制(法度)が知られている。

天文二十年(一五五一年)に、地頭『渡辺岩見守』が社殿を再興し、天正十九年(一五九一年)に、徳川家康から式内社の名社あることで、社領十石を寄進され、朱印状を頂いた。

社殿は、正保四年(一六四七年)に本殿を再建されたが関東大震災で倒壊し、昭和四年に柱・彫刻・正面扉等をそのまま生かし再建、拝殿は慶応元年(一八六五年)に再建され現在に至っている。

尚、拝殿正面の頭上に、山岡鉄舟の筆による『高部屋神社』の社号額が掲げられている。

創建時期は不詳。

由緒書によれば紀元前655年または660年とも。

 

創建から平安時代までは、北西約4kmの渋田山に鎮座していたといわれます。渋田山の地は現在も飛地境内となっています(由緒書にもありますし、実際に飛地境内に祠も現存するのですが、この説の出典資料は不詳。地元の伝承でしょうか)。

また、西約700mの下糟屋字弥杉に鎮座していたとも。ここには現在も小祠があります。ただ、弥杉は毎年6月15日に行なわれた糟屋祭の祭場だったとする見方もあります。

 

延喜式神名帳にみえる「相模国大住郡 高部屋神社」は当社に比定されています。

 

かつては相州大住郡糟谷庄127ヶ村の惣鎮守とされていました。

上述の糟屋祭も行われ、惣社として栄えたようですが、後に糟屋庄の衰微とともに祭は廃絶したとされます。

 

鎌倉時代、糟屋庄地頭糟屋藤太左兵衛尉有季が社殿を造営。

至徳3年(1386)、平秀憲が梵鐘を奉納(現存)。

天文20年(1551)、地頭渡邊石見守が社殿再興。

天正19年(1591)、徳川家康が社領十石を寄進。

正保4年(1647)に本殿を、慶応元年(1865)に拝殿を再建。

 

明治6年村社に、大正6年郷社に列格。

大正12年、関東大震災で本殿倒壊。

昭和4年、本殿再建。

 

 

現在の祭神は、主祭神が神倭伊波礼彦命、相殿に三筒男命、誉田別命、息気長足姫命、大鷦鷯命、磐之姫命となっています。

しかし、『新編相模国風土記稿』によれば、中央に応神天皇、左に姫宮大神・住吉大神、右に若宮大神・息長足姫大神となっています。

これは、鎌倉初期に八幡信仰が関東へ普及するのに乗じて成立したものとみられ、糟屋庄地頭糟屋有季が誉田別命を主祭神として渋田山から遷したと見られています。

八幡神以前の祭神についてはわかりませんが、住吉神が大磯町照ヶ崎海岸に上陸し創建地に鎮座したという伝承やそれに基づく汐汲み神事から、住吉大神が本来の祭神であったとする見方があります。

また、度会延経の『神名帳考証』では日本武尊説が述べられていますが、有力ではないようです。

汐汲み神事

当社では、古来より『汐汲み神事』と呼ばれる神事が行われていたといいます。

住吉大神が大昔、大磯町照ヶ崎海岸に上陸し創建地に鎮座したという伝承に基づいて、海水・浜砂・ホンダワラを採取し、海水は鎮火水(かつては赤飯を蒸して神前に供えた)、ホンダワラは拝殿と鳥居の注連縄に下げ、浜砂は社殿と道の清めに使われます。

廃仏毀釈の混乱で明治の初めに途絶えていましたが、2017年に150年ぶりに復活しました(近年は正式な神事としてではなく、氏子総代が現地から持ってきていたといいます)。

御朱印

御朱印はあります。

伊勢原大神宮で拝受可。

当社は通常無人です。

アクセス

厚木ICを伊勢原方面へ降ります。

県道63号に合流して700mほど先(位置)で右折して小田原厚木道路の高架を潜り、すぐに左折。

2km弱先の上砂田交差点(位置)で右折。1.5kmほど行くと神社があります。

 

あるいは厚木南ICを平塚方面に降り、降りてすぐの戸田交差点(位置)を右折。

4km弱先の上北ノ根交差点(位置)で左折。

500m先の下糟屋交差点(位置)を左折。150mほどで神社前。

 

境内南東の角(位置)を北に入ると、すぐ先、社殿横辺りに駐車場案内が出ており、そこから境内に入れます。

そのまま本殿裏に進むと駐車場があります(大体の位置)。

神社の北にある丸山城址公園にも駐車場があります(公園東側、この辺から入れます)。

 

バスの場合、伊勢原駅北口発・愛甲石田駅行(もしくはその逆)の神奈中バスで、粟窪入口(伊74)もしくは粕谷上宿(伊76)で下車。

伊74、伊76ともに土日は一時間に一本程度の運行(ただし伊76の愛甲石田→伊勢原のみ、11時、13時台の便はなし)。

神社概要

社名高部屋神社(たかべやじんじゃ)
通称
旧称

大住大明神

糟屋八幡宮

総社八幡宮

住所神奈川県伊勢原市下糟屋2202
祭神神倭伊波礼彦命現祭神
応神天皇『新編相模国風土記稿』
日本武尊『神名帳考証』
相殿

三筒男命(住吉大神)

誉田別命

大鷦鶺命

息気長足姫命

磐之姫命

社格等

式内社 相模国大住郡 高部屋神社

旧郷社

札所等
御朱印あり(伊勢原大神宮で授与)
御朱印帳
駐車場あり
公式Webサイトhttp://takabeyajinja.blog.fc2.com/
備考

旧地1:北西約4kmの渋田山

旧地2:西約700mの下糟屋字弥杉

参考文献

  • 「高部屋神社」, 『日本歴史地名大系』(データベース「JapanKnowledge」)
  • 「高部屋神社」, 神社本庁教学研究所研究室編『平成「祭」データ(CD-ROM)』全国神社祭祀祭礼総合調査本庁委員会, 1995
  • 式内社研究会編『式内社調査報告 第十一巻 東海道6』皇學館大学出版部, 1976